第1話 筆をめぐる声
昨夜は翠月の祝夜だった。おそらく、アリシアはまだ眠っているだろう。そう思いながらも、フェルミナは朝の挨拶のために寝室へと入っていた。
「アリシア様。お目覚めでいらっしゃいますか?」
穏やかな声が室内に流れる。それに呼応するようにベッドの中でもぞもぞする気配があった。
「フェルミナ? もう朝なの?」
「はい。昨夜は祝夜でのご対応、見事でございました。デビュタントの年とはやはり違うと感心いたしましたわ」
「……そ、そんなこと……」
アリシアは布団を引き寄せ、少し赤い頬を隠すように俯いた。褒められるのは嬉しいけれど、面と向かうと照れくさい。
「本日の公務はございません。王陛下より、休養を取るようにとのお言葉です。また――王太子殿下より、午後にお茶をご一緒なさりたいとの先触れがございました」
「……お兄様と?」
思わず胸が熱くなる。子どものころなら飛び跳ねて喜んだだろう。けれど今は、言葉にならない照れが頬を染めた。
◇◇◇
午後。陽光の差し込む王女宮の広間には、紅茶の香りが漂っていた。
向かいに座るのは王太子エドワルド。昨日の夜会の余韻をまとったまま、妹を気遣うような眼差しを向けている。
「昨日は疲れたんじゃないのかい?」
「ゆっくり休むことができましたので、大丈夫ですわ。お兄様こそ、お疲れではございませんの?」
紅茶を口に運びながらアリシアがそう訊ねる。その声に、エドワルドはにこやかな表情でこたえていた。
「あれくらいなら、問題ないよ。それよりも、アリシアが疲れていないかが気になった。去年のデビュタントの祝夜の時はずいぶんと緊張していただろう?」
「お兄様、それこそ昔の話ですわ。わたくしだって、少しは成長していましてよ」
兄の言葉に反論するように軽く口を尖らせるアリシア。その仕草にはまだあどけなさが残っていて、エドワルドは目を細めながらもどこか誇らしげに見つめていた。
そんな彼は思い出したように紅茶のカップを持ち上げ、ひと口含む。
「……これはマティルダの手ではないな。今日の紅茶は誰だい?」
「今日の紅茶はセリナですのよ。下働きの子なので、本来なら出せないのですけど……でも、お兄様と二人の時ならいいかと思って」
「……なるほど。確かに香りがいいな」
満足気に呟かれる声に、アリシアは嬉しそうな表情を浮かべていた。
「きっと、お兄様もお気に召されると思っていましたのよ。セリナの紅茶はどうです?」
「うん、よく淹れてくれた。たしかに、公式では無理だろうけど、たまにならいいかな」
「あ、ありがとうございます!」
「セリナ、下がりなさい。……今日はよく頑張ってくれたわね」
アリシアの声にセリナはこくこくと頷く。そのまま、茶器をそっと片付けると、静かに下がっていく。
その背を微笑みながら見送ったアリシア。けれど兄の方へ向き直った時、その表情はわずかに固くなっていた。
「お兄様、何かお話があるのではございませんこと?」
問いかける声は、ほんの少し緊張を含んでいた。
「……どうしてそう思う?」
「お兄様はわたくしを見てくださっています。でも……その奥で、別のことも考えていらっしゃるように思えましたの」
「……そうか。やはり隠し通すのは無理だったか。父上がな、そろそろお前の肖像画をと仰っている」
「……肖像画、ですの?でも、どうして?」
「それはお前が16歳になるからだろう。家族の肖像も描く予定にはなっているけれども、お前だけの肖像も必要だろうと父上は仰っているんだよ」
「昨日の夜会では、いろいろな方の視線を浴びましたわ。今度は……絵の中に閉じ込められるのですの?」
口を尖らせる妹の姿に、エドワルドは苦笑を浮かべるだけだった。
けれども、その眼差しは「王族である以上、避けられぬ務めだ」と静かに語っていた。
そんな兄の視線を感じ取ったのだろう。アリシアは諦めたように肩をすくめた。
それでも――これだけは譲れないと、真剣な目を兄に向ける。
「お兄様、肖像画を描かなくてはならないのは、王族の務めだと仰るのですね。
でしたら……せめて、画家の方を希望することは許されますか?」
問いかけはおずおずと、それでいて芯を持っていた。
「そうだな。アリシアにとって初めての肖像画だ。無理はさせたくない。できるだけ希望には沿ってやりたいと思っているよ」
その言葉にアリシアは喜んで小さく手を叩いた。頬を輝かせ、すぐさま要求を訴えかける。
「でしたら――でしたら! あまり堅苦しくない方がいいですわ。今までお兄様の肖像を描かれたようなお年を召した方ではなくて……。
それに、長い間じっとしていなくてもよい方なら、なお嬉しいのですけれど……どうでしょうかしら?」
アリシアが楽しげに言葉を並べ立てると、エドワルドは苦笑しながらも優しくうなずいた。
「分かったよ。できるだけ考慮しよう。――なあ、フェルミナ?」
呼びかけられた女官長は、静かに一歩進み出る。
その口から発せられたのは、すでに王から下された正式な言葉だった。
「王陛下のご意向により、王女殿下の御肖像を作成することが決定いたしております。
画家の選抜は儀礼課を通じて速やかに進められることとなりますので、王女殿下のご意向を伝えるよう手配いたします」
フェルミナのその声に、アリシアは小さく頬を膨らませる。その顔に書いてあるのは、”やっぱり決まっていたんじゃない”という不満気な色。そんな妹に対して、エドワルドは穏やかに声をかけていた。
「お前の不満はわかるよ。でも、これは仕方がないことだ。その代わり、お前の希望はできるだけ叶えるようにするから、それで辛抱してくれないかい?」
「……わかりましたわ。お兄様がそこまでおっしゃるのでしたら。では、先ほどの希望は叶えてくださるということなのですね?」
その声に、エドワルドは苦笑を浮かべるだけ。部屋の隅に控えていたフェルミナは手早く書面を作成している。穏やかな午後の光が室内を明るく照らしていた。
◇◇◇
アリシアが16歳になる機会に、肖像画を作成する。
このことは一気に宮廷内を巡る噂となっていた。貴婦人たちは扇の影でいろいろと囁きを繰り返している。
「お聞きになりまして?」
「ええ、王女殿下の肖像画のことでしょう?」
「今回はどなたが描かれますの? たしか、王室のお抱え画家って……」
扇の影の声とは別のところでも囁きは生まれている。
「ついに王陛下も覚悟を決められたか」
「出すことはないだろうが、準備は必要だな」
「……若手の筆を登用すべきだという声も、ちらほら聞きますな。短期間で仕上げられるのも大切かと」
自然発生したかのような声を導いているのは、グラナート家の家宰ロドルフォ。かつての職場である儀礼課を知り尽くしている彼だからこそ仕掛けられること。
「……これでいい。あとは、儀礼課にそれとなく彼の名前を告げれば大丈夫だろう……」
誰にも聞こえない呟きは、宮廷の噂の中に静かに落ちていく。
この日から始まったのは、ただの絵の制作ではない。
一枚の肖像をめぐって、宮廷の空気そのものが揺れ始めていた。




