第3話 兄の掌
氷月も終わりに近づこうとするある日。王女宮の一室は舞踏会の会場へと姿を変えていた。
ソファやテーブルの代わりに並べられているのは、楽師たちの椅子。控えめに弦を鳴らしながら音を合わせている彼らの旋律が、室内に柔らかな緊張感を漂わせていた。
「お兄様、本当によろしかったのですか?」
「お前が気にすることじゃない。今日は時間ができたからな。約束していただろう?」
「でも……クロイツフェルト様が気になさっているのでは?」
「王女殿下、お心遣いはありがたいのですが……逆にこの時間を取っていただかないと、こちらが困るのです。昨日から山のように政務を投げてこられまして」
「お兄様!」
「ご心配なく、それが殿下の日常です。……もっとも、その“山”は私の机で雪崩を起こしかけておりますが」
軽口に、アリシアは思わず苦笑をもらす。けれどその表情もすぐに強張った。
「……それで、あの、練習を」
「そうだな」
エドワルドが一歩進み出て、片手を差し伸べる。
「アリシア、こちらへ」
「……っ」
小さく息をのんで、アリシアはその手に指を重ねる。
「もっと力を抜け。俺が支えているんだから、転ぶ心配はない」
「わ、分かっていますけど……」
「右足から一歩。そう、俺に合わせろ」
「えっと……こっちで……?」
「違う、左だ」
導かれるまま足を踏み出すが、裾がふわりと揺れて焦る。
「だって……ドレスの裾でお兄様の足が見えないの!」
「ふむ、それは困ったな」
エドワルドは片眉を上げると、少し腰を落として妹の目線に合わせる。
「なら、見なくていい。俺が合わせよう。お前の歩幅に」
「そ、そんなこと……」
「心配するな。こういう時は男がパートナーに合わせるのがマナーだ」
「お兄様が……合わせてくださるなら、安心ですわ」
兄妹の視線がそっと重なった瞬間――背後から、くすくすと笑いが洩れた。
「殿下……ずいぶんと丁寧」
「基本通りのステップをなさってますわね」
耳打ちする声に、隣の侍女が口元を押さえてうなずく。
「当然ですわ、姫様が初めてなのですもの」
「でも……あれでは殿下のほうが緊張しているみたい」
「しっ! 声が大きい!」
笑いをこらえる小声が飛び交い、部屋の空気は一層柔らかくなった。
侍女たちのひそひそ声に、アリシアの顔が一気に赤くなる。
「み、見ないでほしいわ……!」
「何を恥ずかしがることがある。お前は立派に踊れている」
「そ、そういうこと言うから余計に恥ずかしいのよ!」
抗議の声を上げつつも、足取りは少しずつ軽やかになる。音楽に合わせて回転すると、裾が白い光を受けて舞った。
「よし、その調子だ。もっと自信を持て」
「……うん」
自然と笑みが浮かぶ。兄の掌に支えられている安心感が、緊張を和らげていった。
とはいえ、侍女たちのさんざめきが気になったのだろう。アリシアは思わず振り返り、足をもつれさせそうになる。
「ほら、前を見ろ」
エドワルドがしっかりと腕を支える。
「……っ、危なかった……」
「俺がいる限り、危ないことなど起きない」
「お兄様……」
侍女たちはまた目を合わせ、「殿下がここまで兄バカだとはね」とでも言いあうようにクスクスと笑っていた。
◇◇◇
レッスンが終わり、楽師たちが控えめに楽器を片付ける。
「姫様、殿下。お疲れでしょう。お茶をお運びいたしました」
マティルダの声とともに、銀のポットから香り高い紅茶が注がれる。
「……ふう」
アリシアはカップを両手で包み、こくりと一口。
「美味しい……」
「少しは落ち着いたか?」
向かいのエドワルドが柔らかく笑う。
「ええ……でも……お兄様……ドレス、見られましたか?」
「ああ。白のドレスに銀青の刺繍――あれは見事だった。お前によく似合うと思うよ」
「そ、そうかしら……」
アリシアは耳まで赤くする。
「だからな。俺の衣装も今回は銀青を基調にした。主役はお前だ。並んだときに映えるようにしてある」
「えっ……!」
アリシアの瞳が驚きで丸くなる。
「お、お兄様……そんなこと、なさって……」
「……ふん、構わん」
エドワルドはどこ吹く風で紅茶を口にする。
「俺にとって大事なのはお前だ。他はどうでもいい」
――と、その横で。
「……つまり殿下は机の上に政務を山積みにしたまま、王女殿下がドレスを選ばれる場に足を運ばれたと」
リュシアンがじとりとした目を向ける。
「当たり前だ。デビュタントの衣装だ。何をおいても確認して、意匠を合わせるべきだろう?」
「……そんな気はしておりました」
何を言っても、あっさりと受け流すエドワルドに、リュシアンは深く嘆息する。
壁際に控えている侍女たちは、そんなやりとりにクスクスと笑い合っていた。
◇◇◇
いよいよ始まる、翠月十五日の夜会。
毎年この日、社交界に初めて姿を現す令嬢や令息たち――いわゆるデビュタントが一堂に会するため、会場は華やぎとざわめきに包まれる。
だが今年は、ただの夜会ではなかった。
王女アリシア殿下のデビュタントの年にもあたる。それだけに、集まった貴族たちは否応なくそわそわと落ち着かない。
高々と飾られたシャンデリアがきらめき、長大な赤絨毯の両側にはすでに多くの来賓が並んでいる。弦楽の調べが控えめに流れ、空気は華やかさと緊張をないまぜにした熱気に満ちていた。
「まあ、あちらのドレス……リューベック侯爵家のご令嬢ですわね」
「初々しいこと。けれど、今日の白ドレスは誰もが霞んでしまいますわね」
「当然でしょう。今年は――」
小声が重なり、扇子の陰で囁き合う夫人たちの視線は一方向に吸い寄せられていた。
「王女殿下のご登場ですものね」
名を出した瞬間、周囲の令嬢たちの表情も緊張に揺れる。
煌びやかなシャンデリアの下、どの顔もわずかに強張り、手にした扇やグラスが微かに揺れた。
夫人たちの声は扇の影から影へと渡っていく。
一方、若い令息たちも興奮を隠しきれない様子で囁き合う。
「王女殿下は、どんなお姿を見せてくださるのだろう」
「白のドレスに銀青の刺繍――と噂で聞いたが」
「デビュタントで白は当然だろうが」
「だな。で、銀青が入る。やはり、王家だよな」
視線と期待が交錯し、広間は開幕を待つ鼓動で満ちていく。
やがて――。
会場奥の扉が静かに開かれた。
そこに立っていたのは、凛とした気配をまとった王太子エドワルド。
視線が一斉に吸い寄せられ、ざわめきが走る。
「殿下がお迎えに……!」
「やはり王女殿下のために……!」
彼の隣に、小柄な影が寄り添う。純白の光に包まれた少女――アリシア。頬は緊張に染まりながらも、その瞳には強い意志が宿っていた。
「……あれが、王女殿下」
「まあ……なんてお美しい」
「夢のようですわ」
ため息と囁きが波紋のように広がり、音楽さえも一瞬遠のいたように感じられる。
そして、儀礼係の女官が一歩進み出て、澄んだ声を響かせた。
「――翠月の祝夜、開幕でございます」
その宣言とともに、ついに王女アリシアのデビュタントは幕を開けた。




