第3話 老人カロック
気づけば空はすっかり明るくなって、今日も小鳥が窓のそばで楽しそうに囀っている
エレクさんは、広げた地図を指差しながら、僕たちを手招きする。
「さあ、次の目的地を決めよう。キリクで見つけたあの『偽物の聖剣』……あれはただの模造品だったけれど、台座の裏に古い文字で刻まれていた言葉を覚えているかい?」
『真なる光、北の果て、凍てつく嘆きの山嶺に眠る』
「キリクの老賢者が言っていた通りだ。本物の聖剣は、ここからさらに北にある『アイゼン山脈』のどこかにあるらしい」
「アイゼン山脈……。年中雪が降ってるっていう、あの死の山?」
マリアさんがさらに青ざめる。アイゼン山脈は年中遭難者が後を経たないことで有名で、山頂に辿り着いた人間は人類の中でも一握りだ。
「……はい、行きましょう。エレクさん」
アメリアが力強く頷き、僕の顔を見て小さく微笑んだ。
本物の聖剣を手に入れれば、僕の役目はなくなるかもしれない。
「よし、決まりだ。明日からはアイゼン山脈を目指して進むぞ!」
エレクさんの力強い宣言に、僕の心は不安と、そしてほんの少しの「役に立ちたい」という願いで揺れていた
キリクの街を出て数日。僕たちはアイゼン山脈を目指して、隣国へと続く深い森を抜けていた。
そこで、平穏な旅は唐突に破られた。
「――伏せろ、アレン!」
エレクさんの鋭い声が響くと同時に、凄まじい風切り音が頭上を通り過ぎた。
樹々の隙間から舞い降りたのは、漆黒の毛並みに血のような赤い目を持つ魔獣『シャドウ・ウルフ』の群れだ。
「ひっ、あああ……来ないで、来ないでぇ!」
マリアさんが悲鳴を上げながら杖を振る。
ボォッ! と激しい音を立てて放たれた火球は、彼女の怯えとは裏腹に、一撃で先頭の狼を焼き尽くした。
「マリア、落ち着け! 右から来るぞ!」
「わ、わかってるわよぅ!……燃えなさいッ!」
震えながらも、彼女の放つ魔法は正確に敵を射抜いていく。自分の力を怖がっている彼女が、僕を守るために必死に杖を握っている。
「ガアアアッ!」
横から飛びかかってきた一頭が、僕の喉元を狙った。
(あ、死ぬ――)
反射的に目を瞑った瞬間、視界が巨大な背中に覆われた。
「小僧、なにがあっても動くなよ!」
ドォォォン! と地響きのような音がした。
ギークさんが巨大な盾を地面に突き立て、狼の突撃を真っ向から受け止めたのだ。びくともしないその背中は、鉄の城壁そのものだった。
ギークさんは盾の隙間から剣を突き出し、僕に牙を剥いた魔物を一突きで仕留める。
「アメリア、アレンを頼む!」
「わかってるわ!……アレン、こっちへ!」
アメリアが僕の手を引き、安全な木陰へと押し込める。
彼女は祈りを捧げ、前線で戦う三人の足元に柔らかな光の円陣を描いた。傷を癒やし、力を底上げする聖女の加護。
戦いは、ほんの数分で終わった。
圧倒的な強さ。これが、選ばれた勇者パーティの力なんだ。
「ふぅ……。みんな、怪我はないかい?」
エレクさんが剣の血を払い、爽やかに笑いかけてくる。
僕は、自分の震える手を見つめた。
僕は一歩も動けなかった。ただ守られて、震えていただけ。そんな自分が情けなかった。
キリクの街を出て、北へ、北へと進むにつれて、景色は急速に色を失っていった。
青々としていた木々は、いつしか鋭い針葉樹へと変わり、地面を覆う緑は、冷たい灰色の岩肌へと姿を変える。
そして、ついに僕たちの目の前に、それは現れた。
「……うわあ」
見上げた瞬間、僕は言葉を失い、その圧倒的な存在感にただ、呆然と立ち尽くした。
「これが…アイゼン山脈。」
空を突くようにそびえ立つ、巨大な白銀の尖塔群。
山頂付近は常に吹き荒れる吹雪に隠され、その全貌を窺い知ることはできない。まるで、この世の全てを拒絶するかのような、冷徹で、威厳に満ちた静寂。
「……あ、あの山を登るの……? 冗談でしょう……」
マリアさんが、杖を持つ手をガチガチと震わせながら、青ざめた顔で呟いた。彼女の得意な炎魔法さえ、この永遠に続くかのような氷の世界の前では、ちっぽけな灯火に過ぎないように見える。
「……すごい」
アメリアもまた、その壮大な光景に圧倒され、祈りを捧げることさえ忘れたように、ただ見つめていた。聖女の加護があっても、この大自然の脅威を前にすれば、僕たちはあまりにも無力だ。
「ふん。そう弱気になるな。……小僧、マントをしっかり締めろ。ここから先は、一瞬の油断が死に繋がるぞ」
ギークさんが、僕のマントの紐をぶっきらぼうに締め直し、巨大な盾を背負い直した。彼の背中は、この雪山を前にしても、微塵も揺らぐことはなかった。
「さあ、行こう。……まずは、山の麓にある街『スミク』で、聖剣の情報を集め、雪山の装備を整えるんだ」
エレクさんの力強い声に、僕は弾かれたように動いた。
恐怖で竦んでいた足に、ようやく力が戻る。
一歩踏み出すたびに、足元で乾いた雪がキュッキュッと音を立て、僕の心臓を刻むカウントダウンのように聞こえた。
やがて見えてきたスミクの街は、王都やキリクの賑わいとは、かけ離れた場所だった。
「……暗い街だね」
「ええ……。でも、どこか温かいわ」
アメリアが呟いた通り、スミクの街並みは、深い霧と降りしきる雪に閉ざされていた。
石造りの家々は、どれも雪の重みに耐えるように低く、厚く作られ、窓からはオレンジ色の暖炉の光が漏れている。
街を行き交う人々は、誰もが厚手の毛皮に身を包み、深くフードを被って、黙々と歩いている。王都のような華やかな笑顔や、キリクのような活気ある声はない。
けれど、その背中からは、この厳しい環境で生き抜いてきた、静かで、強かな意志が感じられた。
「……おーい、小僧。こっちだ」
ギークさんが、僕を宿屋へと促す。
中に入ると、暖炉の炎が勢いよく燃え上がり、冷え切った体を一瞬で温めてくれた。
そこには、僕たちの村で見慣れた、不器用で、けれど温かい日常があった。
「……うん。僕も、みんなと……一緒に」
僕は、心の中で小さく呟いた。
恐怖は、まだ消えていない。
けれど、この厳しい街で生き抜く人々を見て、そして隣にいる仲間たちの背中を見て、僕は、少しだけ強くなれた気がした。
宿屋『氷晶の灯火』に入り、暖炉の火でようやく人心地ついた僕たちは、まずはこの街で「一番山に詳しい者」を探すことにした。
「スミクには、山脈の『目』と呼ばれる老人がいるらしい。そいつに会わねば、登頂は自殺志願と変わらん」
ギークさんが、凍った髭を拭いながら重々しく口を開いた。
かつて傭兵として北の各地を渡り歩いていた彼は、この過酷な土地にもいくつかの知己があるようだった。
「その人の名前は?」
エレクさんが、温かいエールのグラスを置いて身を乗り出す。
「名はカロック。この街で一番古い鍛冶屋を営んでいる偏屈な爺いだ。……だが、奴はこの山で本物の『聖剣』を、その目で見たことがある唯一の生き残りだと言われている」
「……その目で見たことがある?」
アメリアが小さく息を呑む。
王都の記録にも、キリクのレプリカにもなかった「生きた証言」。
その言葉の重みに、食堂の喧騒が一瞬遠のいた気がした。
「……ひ、ひえぇ、そんな怖い人、会うの緊張するわ。私、火魔法の加減を間違えて怒られたりしないかしら……」
マリアさんは既に毛布にくるまりながらガタガタと震えている。
「案ずるな、マリア。俺が盾になる。……小僧、お前もだ。カロックは人の『本質』を射抜くような目を持っている。下手な小細工は通じんぞ」
ギークさんの視線が、僕の胸元……魔力が渦巻く心臓のあたりを一瞬だけ捉えた。
僕は、スカーフを握りしめる。
僕の中に眠る、世界を滅ぼしかねないこの「自爆魔法」を、その老人はどう見るんだろう。
「よし、明日の朝一番でそのカロックさんの工房へ向かおう。……準備はいいかい、アレン、アメリア」
「……はい、エレクさん」
アメリアが僕の手をテーブルの下でそっと握った。
彼女の指先はまだ冷たかったけれど、その握る力には「一人じゃない」という確かな意志がこもっていた。
まだ太陽が上りきっていない早朝に僕たちは訪れた。
スミクの街の最果て、吹き溜まった雪に半分埋もれるようにして、その石造りの小屋はあった。入り口に掲げられた古びた看板には、辛うじて『鍛冶屋』の文字が読める。
「……ここが、カロックさんの家?」
僕が吐き出す息は、瞬く間に白く凍りついて消える。エレクさんが重い鉄の扉を叩いたが、返事はない。もう一度、今度は強く叩こうとしたその時――。
ガィィン!
中から金属を叩く激しい音が響き、扉がわずかに震えた。
「失せろ。今はお前らに構っている暇はない。」
地響きのような低い声。エレクさんは怯まず、扉越しに声を張り上げた。
「……ムルガンド国王の名において参りました。勇者エレクです。聖剣の在り処を伺いたい」
沈黙が流れた。数秒、いや、数十秒。
やがて重い閂が外れる音がして、扉がゆっくりと開いた。
現れたのは、岩を削り出したような顔に、雪よりも白い髭を蓄えた老人だった。カロック。その鋭い眼光は、僕たちを値踏みするように射抜く。
「……あの山の聖剣を取りに来たか。勇者など、これまで何人も見てきた。皆、今頃は雪の下で凍りついているがな」
カロックさんは僕たちを中に招き入れた。炉の火が赤々と燃える室内は、外の極寒が嘘のように熱気に満ちている。彼は僕たちに座るよう促すこともなく、ただ黙々と真っ赤に熱された鉄を叩き始めた。
火花が散り、金属音が室内に響き渡る。
誰も喋ることができない。ただ、老人のハンマーが振り下ろされる音だけが、僕たちの心臓の鼓動を急かしていく。
ようやくカロックさんが手を止めた。彼は汗を拭うこともなく、壁にかけられた一本の折れた剣を指差した。
「あれを見ろ。かつて『聖剣』を求めた者たちの末路だ。聖剣は、持つ者を選ぶ。……いや、選ぶのではない。『それ以外を拒絶する』のだ」
カロックさんの言葉が、熱気の中に冷たく響く。
「お前が勇者の資質を持っているのは認めよう。だが、本物の聖剣は、山頂の『嘆きの祭壇』に眠っている。そこへ至る道には、魔力さえ凍てつかせる『万年雪の嵐』が吹き荒れている。……聖女の加護があっても、命の保証はない」
「……それでも、行きます。僕が世界を守るために」
エレクさんの決意は揺るがない。カロックさんは鼻で笑い、次に、少し離れた場所にいた僕をじっと見つめた。その目が細められる。
「……小僧。お前、妙な魔力を宿しているな。内側から弾け飛びそうな、不吉で、あまりに純粋な光だ」
心臓が跳ねた。アメリアが不安そうに僕の服の裾を握る。カロックさんはしばらく僕を見つめていたが、やがて何かを思い出したように、炉の奥から一つの結晶を取り出した。
「……本来なら、お前たちのような若造に渡すものではないが。……その小僧の魔力、わしの知る『ある男』に似ている。もしかしたらあの力を使えるかもしらんな…」
「ある男……?」
「かつて、この山で死んだ男だ。……いいか、よく聞け。山頂へ行くなら、この『氷晶の守り』を持っていけ」
カロックさんは、青い結晶をエレクに投げ渡した。
「それは私の古き友人が雪山に登る時に私が作ったものだ。昔、私が山頂に達した時にもう一つ対になる結晶を置いてきた。この結晶はそれと共鳴している。山頂への道標となるだろう。」
カロックさんの言葉の意味は、今の僕にはわからなかった。けれど、その結晶は驚くほど冷たく、そしてどこか僕の魔力と共鳴するように小さく震えていた。
「……ありがとう、カロックさん」
「礼などいらん。……わしは、もう二度と、知り合いに似た顔の奴が山で消えるのを見たくないだけだ」
老人はそう言うと、再び炉の火に向き直った。その背中は、これまでに何人もの勇者を見送ってきた悲しみに満ちているように見えた。
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