第14話 風の祭壇
ラベリアの街が遠ざかるにつれ、道の勾配は険しさを増していった。 見上げる先には、雲を突くような断崖が連なっている。そこを目指す僕たちの足音だけが、乾燥した岩肌に反響していた。
ラベリアの街を出て数時間、僕たちは険しい岩場を黙々と登っていた。先頭を行くエレクさんの背中は、どこか張り詰めたままだ。腰の『聖剣マリア』は、鞘に収まっていても、かつての輝きを失った重い沈黙を保っている。
「……おい、少し休むぞ」
ギークさんの低い声が響く。 彼は道端にある、風化して形も定かではない石像の影に腰を下ろした。大きな黒鉄の大盾を横に置き、水筒を煽る。
「ギークさん、大丈夫ですか? その盾、結構重いですよね」
僕が声をかけると、彼は「へん、このくらい鍛錬のうちだ」と鼻を鳴らした。だが、彼がふと視線を落とした先、岩の割れ目から一匹の小さな影が這い出してきた。痩せ細った、山の野良猫だ。
「……チッ、また来やがったか」
ギークさんは悪態をつきながら、僕たちに見えないよう背中を丸めた。 だが、その太い指先が、器用に保存食の干し魚を細かくほぐしているのが横から丸見えだった。彼は不器用な手つきで、足元の猫の喉元をほんの一瞬だけ、愛おしそうに撫でる。
猫が満足げに喉を鳴らすと、ギークさんの口角がほんのわずかに緩んだ。 いつも戦場で咆哮を上げている重装歩兵の、見たこともないほど穏やかな顔。 ……しかし、アメリアが「あ、可愛い!」と声を上げた瞬間、彼は弾かれたように立ち上がった。
「……っ!さっきから懐かれて邪魔だと思ってたんだ!行くぞ、時間がねえ!」
真っ赤になった耳を隠すように兜を深く被り、ギークさんは逃げるように歩き出す。 その背中に向かって、アメリアがクスクスと笑いながら「まだ猫の毛、肩についてますよー」と追い討ちをかけた。ギークさんの足取りが少しだけ乱れる。 重苦しかった旅の空気が、その瞬間だけは、少しだけ温かく解けた気がした。
雲を突き抜けた先、視界が唐突に開けた。 そこは、切り立った断崖の頂に、円を描くように並べられた巨大な白亜の石柱群がそびえ立つ場所だった。
『風の祭壇』。
そこには、この世のあらゆる音が消え去ったかのような静寂があった。 絶え間なく吹き付ける風は、ここでは「音」ではなく「圧力」として身体を押し包んでくる。数千年の風雪に磨き上げられた石畳は、鏡のように空の色を映し出し、その中心には複雑な紋様が刻まれていた。
ここには大精霊のような意志も、魔物の気配もない。 ただ、純粋な魔力の流れだけが空間を支配し、余計な淀みをすべて削ぎ落としている。 エレクさんはゆっくりと祭壇の中央、風が最も激しく渦巻く「儀式の場」へと進み出た。
「……マリア。僕に力を貸してくれ」
エレクさんが祭壇の中央、風が最も激しく渦巻く「無音の場所」に立ち、聖剣を両手で捧げ持った。 鞘から現れた刀身は、月光のような冷たい光を放ちながらも、その奥底に眠る意志はまだ目を覚まさない。彼は剣を垂直に立て、目を閉じる。
吹き荒れる暴風が、彼の外套を、髪を、激しく叩きつけた。だが、エレクさんの姿勢は微動だにしない。 聖剣と自分を繋ぐ、細い精神の糸――「同調」を手繰り寄せるための、長い戦いが始まった。
――その瞬間。 祭壇の空気が、さらに一際、鋭く張り詰めた。
(……何だ、この気配は)
僕は、自分の右腕の銀の装具が、内側から熱を帯びるのを感じた。ザイードさんに補強された回路が、外部からの異常な魔力の波長を察知して、警告を発しているんだ。
祭壇の周囲を囲む白亜の石柱。その影から、泥のようにドロリとした、不気味な光沢を持つ魔力の霧が滲み出し始めた。
ここは、世俗から隔絶された古代の祈りの場。 風の大精霊とは無関係だが、この祭壇には、持ち込まれた「物」と、その「所有者の思い」を強く引き出し、具現化させる不思議な力があった。
エレクさんが聖剣マリアとの同調を試み、その意志が祭壇に触れたことで、彼の心深くに眠っていた「最も強い思い」が、魔力の残滓を触媒として形を成そうとしていたのだ。
それは、彼が勇者として歩んできた中で、唯一、敗北を味わい、仲間を失いかけた、あの雪山での記憶。
「……嘘だろ」
ギークさんが絶句した。 滲み出した魔力の霧が、急速に凝縮され、祭壇の空を覆うほどの巨大な影を作り出す。 半透明で、光を歪ませながら蠢くその姿。
――雪山のドラゴン。
あの時、僕たちを全滅寸前まで追い込み、エレクさんの聖剣を沈黙させた、あの圧倒的な破壊の象徴。 不完全な具現化ゆえに、その体は所々が霧のように霞んでいる。けれど、そこから放たれる殺意と、凍てつくようなプレッシャーは、本物と何ら変わりはなかった。
『グァァァァァァァッ!!!』
ドラゴンの咆哮が、祭壇の静寂を打ち破った。 エレクさんは中央で瞑想を続けたままだ。彼の意識は今、聖剣の精神世界へと没入しており、現実世界で起きているこの異常事態には気づいていない。
ドラゴンの巨大な爪が、無防備なエレクさんを目掛けて振り下ろされた。
「エレクには指一本触れさせねえ! アレン、俺の盾から離れるな! アメリア、エレクの障壁を絶やすな!」
ギークさんが咆哮を上げ、修復された黒鉄の大盾をドラゴンの爪に向けて突き出した。
現実世界は、凍てつく地獄と化していた。
「……ぐ、おぉぉぉッ!!」
ギークの絶叫が、ドラゴンのブレスにかき消される。 黒鉄の大盾はすでに氷塊と化し、その表面には無数の亀裂が走っていた。限界だ。地竜の皮さえも凍りつき、衝撃を受け止める弾力を失っている。ギークの鎧からは、ミシミシと不気味なきしむ音が響き、彼の掌からは血が滲み、盾のグリップを赤く染めていた。
「ギークさん!」
アメリアが障壁を維持しながら叫ぶ。だが、彼女の魔力も底をつきかけていた。プリズム・シールドの光が、ドラゴンの冷気に押されて、今にも掻き消えそうだ。
(……このままじゃ、全員死ぬ)
ギークの背後で、僕は自分の右腕を見つめた。 回路が、熱い。ザイードに整えられた回路が、外部の異常な魔力圧に反応して、僕の体内の魔力を強引に汲み上げようとしている。
(……動け。僕の、身体……!)
僕は、自分の魔力を、無理やり右腕の銀の装具へと流し込んだ。 身体強化。 魔法を使えない僕が、唯一、自分の肉体を「武器」に変えるための、禁忌の技。 ドクン、と心臓が跳ね、視界が赤く染まる。全身の筋肉が悲鳴を上げ、皮膚が裂けるような激痛が走った。だが、その激痛と引き換えに、僕の体は一時的な、爆発的な膂力を手に入れた。
「……ギークさん! 盾を、開けてくださいッ!!」
僕は叫び、ギークさんの肩を蹴り飛ばすようにして、氷に覆われた大盾の前へと飛び出した。
「アレンッ! バカ野郎、戻れッ!!」
ギークの声が聞こえる。だが、僕は止まらない。 ドラゴンの、魔力が渦巻く胸元の「核」――。 僕は、身体強化で得た全ての脚力を使い、石畳を蹴った。 死の冷気が、僕の全身を切り裂く。 だが、その冷気を、銀の右腕が、執念の鈍色で弾き飛ばした。
「……うおおおおおおおぉぉぉッ!!! 砕けろぉぉぉッ!!!」
僕は、ドラゴンの核目掛けて、全身全霊の、銀の拳を叩きつけた。
一方、エレクの意識は、燃え盛る草原の中心にいた。
「……触れないで。エレク。私は……家族を殺した、呪われた存在なの……」
マリアの虚ろな瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちる。 彼女の足元には、変わり果てた姿で横たわる家族たちの姿。 絶望の淵にいる過去の彼女へ、エレクは一歩ずつ歩み寄り、その凄惨な景色を共に見つめた。
「……ああ、そうだね。君がしたことは消えないし、この光景は一生君の隣にあり続ける。それを『気にするな』なんて、口が裂けても言えない」
エレクはマリアの手を取るのではなく、彼女と同じ地べたに膝をついた。
「でもマリア。その罪を抱えたまま、震えながらでも、一歩だけ前に進んでみてくれないか。……君が地獄を歩くというなら、僕はその隣を歩く。君を焼く火が消えないなら、僕も一緒に焼かれよう」
意識が少しずつ、二人が勇者の肩書きを捨てて旅を始めた頃へと重なっていく。
「僕はもう、世界を救う勇者じゃない。ただの、君の隣にいたいだけの男だ。……君の犯した過ちを、僕が消すことはできない。でも、その重みで君が動けなくなったとき、隣で杖代わりになることくらいはできる」
マリアが、震える瞳でエレクを見た。
「マリア。君のその手は、かつて人を殺したかもしれない。でも、その手があったから、僕は救われたんだ。……その手を、もう一度僕に貸してほしい。君が背負う絶望の全てを、僕も一緒に眺めていたいんだ」
最後に、エレクはマリアの瞳を真っ直ぐに見つめ返し、静かに、けれど揺るぎない声で口を開いた。
「世界が君を拒絶しても、君自身が君を許せなくても。……僕が、君を肯定する。君のその『罪』さえも、僕が、僕の全存在をかけて、愛してみせる」
精神世界の奥底、燃え盛る業火の中でエレクが差し伸べた手。その掌に、マリアの震える手が、静かに、けれど確かな意志を持って重ねられた。 ――その瞬間。 彼女の心を焼き続けていた絶望の炎は、音もなく霧散し、全てを包み込むような、温かく、慈愛に満ちた黄金の光へと姿を変えた。悲痛な叫びを上げていた過去の記憶が、光の粒子となって融け合い、エレクの魂と、完全な一つの「絆」として結ばれていく。
現実世界。凍てつく祭壇の上で、アレンが放った銀の拳が、ドラゴンの胸元、魔力の「核」へと肉薄していた。死の冷気が皮膚を裂き、筋肉を凍らせる。それでも、アレンの執念が、その銀の装具を、一ミリ、また一ミリと押し進めていく。 ――その刹那。 銀の拳が核に接触し、ドラゴンの体が、内側から生じた強烈な衝撃に、一瞬、完全に静止した。
精神世界での誓いと、現実世界での一撃。 その二つの「祈り」が完全に重なったその瞬間、祭壇の中央で瞑想を続けていたエレクの『聖剣マリア』が、かつてない、圧倒的な、聖なる輝きを放ち始めた。 それは、沈黙を守り続けてきた聖剣が、再び主と認め、その身にマリアの魂を、完全な「光」として受け入れた、再誕の瞬間だった。 失われた聖なる力は、二人の「肯定」の言葉によって蘇り、眩い光を発した。
「……待たせたな、みんな」
静寂の中、低く、けれど芯の通った声が響いた。
祭壇の中央で瞑想を続けていたエレクが、ゆっくりと目を開く。その瞳は、かつての迷いを削ぎ落とした、澄み切った黄金色に輝いていた。
彼が手に持っていた『聖剣マリア』は、もはや「重い鉄」ではなかった。
不完全な融合ゆえに濁っていた刀身は、今や透き通るような純白の輝きを放ち、エレクの腕と、そして魂と、目に見えない光の糸で分かちがたく結ばれている。
「――グ、ル、ァァァ……ッ!!」
アレンの銀の拳を受け、核に亀裂が入ったドラゴンの残滓が、苦悶の叫びを上げながらも最後の手向けとばかりに巨大な尾を振り回す。
身体強化の反動で動けないアレンと、盾を砕かれ膝をついたギーク。二人をまとめて圧殺しようとする死の旋風。
「マリア……僕たちの道を、照らしてくれ」
エレクが、聖剣を水平に構えた。
抜剣。
その瞬間、祭壇の暴風が嘘のように止み、世界から音が消えた。
「――『ステラ・リンク』」
彼がただ一閃、光の軌跡を描いた瞬間、ドラゴンの巨躯が、まるで陽光に晒された霧のように、音もなく崩れ去っていく。
暴力的な破壊ではない。それは、エレクの心の中にあった「恐怖」という名の汚れを、マリアの純粋な輝きが優しく、けれど徹底的に浄化していくような、神聖なまでの幕引きだった。
ドラゴンの姿が消え、暖かい空気が戻ってくる。
残ったのは、淡く光るマリアの残光と、肩で息をする僕たちの荒い呼吸だけだった。
「……はぁ、はぁ……。ったく、死ぬかと思ったぜ……」
ギークさんが、ひしゃげた盾を投げ出すようにして大の字に寝転がった。修復したばかりの盾は、またしてもボロボロだ。けれど、その顔にはどこか晴れやかな笑みが浮かんでいる。
「アレン。お前、あの状況でよく突っ込んだな。……ザイードの爺さんが見たら、腰を抜かすぜ」
「……あはは。必死、だったんです」
僕は、感覚のなくなった右腕を引きずるようにして、その場に座り込んだ。
身体強化の反動が、今さら波のように押し寄せてくる。熱を帯びた回路が、銀の装具を通して冷やされ、激痛と共に鎮まっていく。
「アレン、動かないで! すぐに治癒を……」
アメリアが青い顔をして駆け寄り、僕の腕に手をかざす。彼女の指先も、魔力を使い果たして小刻みに震えていた。
「……みんな、ありがとう。僕一人の力じゃ、到底ここまで辿り着けなかった」
エレクさんが歩み寄り、僕たちの前に立った。
その手にある聖剣は、鞘に収まってなお、温かな熱量を放っている。マリアの意志が、今も彼の隣に寄り添っているのが、魔法を使えない僕にさえ感じられた。
「……エレク。その剣、マリアは……」
アメリアの問いに、エレクさんは静かに、聖剣の柄を愛おしそうになぞった。
「ああ。彼女は、僕と一緒に歩いてくれると言ってくれた。……罪も、絶望も、全部抱えたままでいいって。……僕たちは、もう二度と離れない」
その言葉は、誰に聞かせるものでもない、彼自身の魂への誓いのようだった。
風の祭壇に、一陣の穏やかな風が吹き抜ける。
僕たちは、しばらくの間、雲海の上に広がる満天の星空を、ただ無言で見上げていた。
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