第11話 風の大精霊
彫金師の工房を後にし、僕たちはさらに洞窟の深部へと足を進めた。
風はもはや「空気の流れ」ではない。物理的な「壁」となって僕たちの行く手を阻み、岩壁を削り取る甲高い音が絶えず鼓膜を打ち鳴らす。
やがて、視界が開けた。そこは巨大な円筒形の空洞。中心には、半透明の淡いエメラルド色をした、巨大な鳥のような姿の『大精霊』が鎮座していた。
「……デカいな。おい」
ギークさんが盾を構え直し、呆然と呟いた。
大精霊はただそこに座しているだけで、周囲の空間を歪ませるほどの魔力を放っている。その周囲を、目にも止まらぬ速さで、何千、何万という風の刃が渦巻いていた。それは近づくものすべてを細切れにする、不可視の処刑台だ。
キィィィィィィィンッ!!
精霊が羽ばたきもしないのに、洞窟内の風圧が一気に跳ね上がった。
次の瞬間、僕たちの全方位から、岩をも容易く切り裂く風の刃が、雨あられと降り注ぐ。
「……くっ、アメリア、後ろへ! ギーク、前だ!」
エレクさんが聖剣マリアを抜き放ち、真紅の熱量で迫りくる刃を叩き落とす。
ギークさんが巨大な盾を地面に突き立て、僕とアメリアをかばうように立ちはだかった。
ガキガキガキガキッ!!
盾に無数の刃がぶつかり、凄まじい火花が散る。ギークさんの足が岩を削り、その巨体が風圧でじりじりと後退させられていく。
「……聖なる光よ、不浄を退け、我らを護りたまえ! 『ディバイン・シェル』!」
アメリアが杖を高く掲げ、祈りを捧げた。
彼女の魔力が柔らかな光のドームとなって僕たちを包み込む。それは風を止めるものではない。ただ、飛来する刃の軌道をわずかに逸らし、ギークさんの盾への負担を極限まで減らすための、必死の守りだ。
「……アレン、あそこだ!」
エレクさんが、光の壁の隙間から、精霊の足元で眩く輝く結晶を指差した。
大精霊の吐息――僕の体を繋ぎ止めるための、唯一の希望。
だが、そこへ近づくには、大精霊を護る「風の繭」を突破しなければならない。それはエレクさんの聖剣でも、力任せに切り裂くことは不可能なほどの魔力の奔流だ。
「……やるぞ、野郎ども! アレンに道を作るんだ!」
ギークさんが咆哮を上げ、盾を構えて一歩踏み出した。アメリアの光の加護を纏い、風の刃を真っ正面から受け止めながら、強引に距離を詰める。
その背後から、エレクさんが飛び出した。
聖剣マリアの炎が、かつてないほど激しく燃え上がる。
それは破壊の炎ではない。仲間を守り、道を切り拓こうとする、マリアさんの慈愛が形になったような、優しくも苛烈な熱量。
「……おおおおおッ!! 行け、アレンッ!!」
エレクさんが、全魔力を込めて聖剣を風の繭へと叩きつけた。
真紅の炎が、エメラルド色の暴風に激突する。
魔力と魔力がぶつかり合い、洞窟内が視界を奪うほどの眩い閃光に包まれた。
(……今だッ!!)
エレクさんの炎が、風の繭をほんの一瞬だけ、強引に押し広げた。
本当に、針の穴ほどの、瞬きをする間の一瞬。
勇者が、盾の騎士が、聖女が、それぞれの役割を全うして作り出した、奇跡のような「隙」。
(……凝縮。爆発させるな。一点に、集めろ)
僕は聖剣の結晶に指をかけ、マリアさんの熱を右足に凝縮させた。
カロックさんの警告が頭をよぎる。でも、怖くはなかった。
アメリアが守ってくれた。ギークさんが盾になってくれた。エレクさんが道を切り開いてくれた。
(……僕が、みんなを繋ぐんだッ!!)
ドクン、と心臓が跳ねた。
視界から色が消え、吹き荒れる風の刃が、止まったようにゆっくりと見えた。
僕は、その「一瞬」の中に、命を投げ出した。
視界から色が消えた「一瞬」の世界。 大精霊の放つ風の刃も、エレクさんが抉じ開けた風の繭の歪みも、すべてが止まったように見えた。
(……凝縮。……一点に、集めろ)
僕は、右足に集めたマリアさんの熱を、爆発させるように地へと解き放った。
ドンッ!!
硝子細工の魔力回路が、軋む音を立てて悲鳴を上げる。 けれど、その代償として、僕は常人には不可能な速度で、風の隙間を駆け抜けた。 精霊の足元。エメラルド色の光を放つ、温かい結晶――大精霊の吐息。
(……掴んだッ!!)
指先が結晶に触れた、その瞬間。 僕の全身を包んでいた「一瞬」が、チリリと音を立てて霧散した。
「……あ」
カラン、と乾いた音がして、視界に色が戻る。 同時に、僕の身体は、まるで糸の切れた人形のように、冷たい岩場へと崩れ落ちた。 全身の筋肉が、魔力回路が、あまりの負荷に活動を停止している。指一本、動かすこともできない。
キィィィィィィィンッ!!
僕の頭上で、大精霊が、己の魂を奪われたことに気づき、怒りの咆哮を上げた。 抉じ開けられていた風の繭が、一気に収縮し、僕を閉じ込める。 逃げ場のないドームの中で、僕を塵にするための、無慈悲な暴風が全方位から襲いかかった。
(……動け! ……動けよッ!!)
心が叫んでも、体は応えない。 エレクさんも、ギークさんも、アメリアも、厚い風の壁の向こうだ。 彼らが僕の元へ駆けつけるより先に、僕は風の刃に切り刻まれる。
(……ここまで、なのかな。……マリアさん)
僕は、腕の中の温かい結晶を、死んでも離さないように抱きしめた。 その時。
(……そうだ。これがあったんだ)
僕は、動かない右手の指先に、最後の、本当に最後の魔力を込めた。 そこには、昨日の夜、エレクさんが「アメリアには内緒だ」と言って、僕の腕に巻き付けてくれた、一本の**『魔力糸』**が結ばれていた。
この糸は、エレクさんの魔力を通し、微かな感覚を伝えるためのもの。 僕は、その糸に、僕の「命の灯火」を、一瞬だけ、強く込めて弾いた。
ドクン。
風の壁の向こうで、エレクさんの心臓が跳ねた。 彼と僕を結ぶ、細い、けれど確かな絆の糸。
「……そこかッ!! アレンッ!!」
エレクさんの叫び声とともに、僕の体に、凄まじい衝撃が走った。 風の刃が僕の喉元を切り裂く、その直前。 僕の体は、エレクさんが渾身の力で引いた魔力糸によって、風の繭の隙間から、弾丸のような速度で外へと引きずり出された。
「……ッ、痛い……!」
岩肌を擦りながら、僕はエレクさんの足元まで転がった。 すぐさまアメリアが駆け寄り、僕の体を光の加護で包み込む。 ギークさんが盾を構え、大精霊の追撃を真っ正面から受け止めた。 ガキィィィィィィィンッ!!
盾が悲鳴を上げ、ギークさんの巨体が大きく弾かれる。 けれど、彼は一歩も引かず、盾の裏にいる僕たちを、その身を挺して守り抜いた。
だが、安堵の暇なんてなかった。
キィィィィィィィィィィィッ!!!
鼓膜が裂けるような大精霊の叫びが、洞窟全体を震わせる。 結晶を奪われた怒りで、エメラルド色の体躯から放たれる風の刃が、それまでの数倍の密度で僕たちを襲った。
「ぐっ……おおおおおおッ!!」
ギークが盾を斜めに伏せ、火花を散らしながら耐える。削り取られた盾の破片が僕の頬をかすめた。 一撃一撃が、先ほどまでの比じゃない。
「エレク! ギークの盾がもたないわ! 早く!!」
アメリアが必死に光の障壁を維持しているが、その手は激しく震えている。彼女の魔力も底を突きかけていた。
「わかってる! 走れッ!!」
エレクが僕を小脇に抱え上げ、入り口へと向かって駆け出した。 背後ではギークが、退路を確保するために盾を振り回し、暴風を強引に弾き飛ばしている。
「……あ、アレン! 離すなよ、その結晶だけは!」
「……わかって、ます……っ」
僕は意識が遠のきそうな中、腕の中の温かい「吐息」を、指が白くなるほど強く抱きしめた。 背後から、大精霊がさらに羽ばたきを強める音が聞こえる。 洞窟の天井から巨大な岩が崩れ落ち、僕たちの行く手を阻もうとする。
「邪魔だあああッ!!」
エレクが聖剣を横一文字に振るい、立ち塞がる岩をマリアの炎で粉砕した。 崩落と暴風、そして精霊の殺意。 すべてが混ざり合った地獄のような回廊を、僕たちはただ必死に、出口の光だけを目指して駆け抜けた。
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