ヨコセヨコセ3
床はどんどん踏み鳴らされ、障子は吹っ飛び、廊下の壁はミシミシと凹む。
姿の見えない鬼らしき存在は、どうやら怒っているようだ。
かなり激怒しているようだが、いきなり殺虫スプレーを噴きかけられたら誰だって怒ると思うので、鬼の怒りは当然かもしれない。
「あのー、大変申し訳ありません。ちょっと警戒をしてしまったといいますか、保身のためについ」
「お姉さん……鬼、あっち……」
「あ、そうなんだ」
私が廊下に向かって頭を下げていると、後ろにしがみついている男の子がやや右、戸が吹っ飛んで開いていた、すこし離れた部屋の方を指した。移動していたようだ。
どうもすみませんと改めて頭を下げると、畳がドンドンと踏まれてひしゃげた。しかしそれ以降は静かになったので、とりあえず怒りは収めてくれたようだ。しかし足音が近付いてきて男の子がヒッと怯えてまた隠れたので、また近付いてきたらしい。
「あの、重ね重ね申し訳ありませんが、ちょっと距離をとっていただきたくて。あのー、近付いたらもう一度これを使うことになるかもしれません」
私がスプレーを構えると、足音が止まった。およそ5メートルくらいの位置だろうか。見えないけれど、男の子に聞いてみると確かに止まっているようだ。意外に話のわかる人、いや鬼でよかった。
「勝手にお邪魔してすみませんでした。あの、帰りたいので出口を教えていただけると嬉しいのですが。この子も一緒に」
暗い空間に対して話しかけてみる。
返事はない。
「あのー、聞こえてますか?」
「ダメだって怒ってる……」
「あ、返事してくれてたんだ。私全然聞こえないから、申し訳ないけど何て言ってるか教えてくれますか?」
怯えている男の子に頼むと、頷いてくれた。怖い状況で仕事を頼んでしまってちょっと申し訳ない。
「ここに来た人間は、ずっとここにいさせるって言ってる。勝手に帰ろうとしたら、八つ裂きにして食うって」
「来たくてきたわけじゃないのに」
「でも命より大事なものを置いていけば、帰してくれるって……ぼく、もうあげられる大事なもの持ってなくて」
「もう?」
私が聞き返すと、男の子は頷いた。
「前に連れて来られたときは、大好きだったゲームを置いていったの」
「ゲーム好きなんですかね、ここの鬼」
そういえば、さっきまでレトロなゲームBGMが聞こえていた。あれも鬼の趣味だったのだろうか。
男の子の「命より大事なもの」がゲームというのは微笑ましい。鬼がゲーム好きというのも微笑ましいけれど、それが「人間をゲームに見立てて動かしたり追い詰めたりするのが好き」とかだとまったく微笑ましくないので微妙だ。
「でも、今年も連れて来られて、何も持ってなくて……このメガネも大事だけど、これがなくなっちゃうと、もっと怖いものが見えちゃう」
「それは困りますね」
男の子は、霊やら鬼やらが見える体質らしい。勅使河原さんだって色々見えているけれど、大人だし見慣れているのか「なんかグロいのがいるよー」とのほほん笑っていたりする。けれど子供が勅使河原さんと同じように見えているとしたら、世界はもっと怖いものに感じるだろう。
メガネをかけることで見え方の補正をすると聞いたこともある。そういうためのメガネなら、男の子にとっては命より大事だと思ってもおかしくないのかもしれない。
このままここにいるか、それとも、命より大事なものを置いて出るか。
究極の選択だし、そもそも命より大事だと思えるようなものを持っていない私にとっては一択みたいなものだ。鬼らしい選択なんだろうか。
「あの、ちなみにここにいるとどうなるんですか?」
「鬼がずっと閉じ込める……帰れない……」
「食べられたりとか、痛いことされたりつらいことされたりとかは?」
「……ないけど……」
男の子がじわっと目を潤ませたので、私は慌てて謝った。
「あの、別につらくないならここにいろって意味で聞いたんじゃないので安心してね」
ハンカチで目を押さえている男の子が頷いた。私はまた鬼がいるっぽい方向を向く。
「鬼さん、私の命より大事なものをあげますから、代わりにこの男の子を帰してあげてくれませんか?」
私が尋ねると、どんどんと廊下を踏み鳴らす音が聞こえた。




