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時戻しの異世界生活  作者: みき


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第3話 草原で、 死にかける

 「そこにいるのは、誰だ」


 二度目の問いは、さっきよりも、ずっと近かった。革鎧の男の足音が、岩場の小石を踏みながら、確実に近づいてくる。じゃり、じゃり、と。一歩ごとに、俺の心臓が縮み上がる。


 頭の中で、ものすごい速さで、選択肢が並んだ。死にゲーで鍛えた、咄嗟の判断。──出て、降参する。却下。生死は問わず、と言っていた。降参が通じる相手とは限らない。──じっと隠れてやり過ごす。却下。もう、ほぼ気づかれている。──逃げる。岩場の先は、たしか、また草原が広がっていた。背の高い草に紛れれば、馬は追いにくいかもしれない。


 逃げる。それしか、ない。


 頭の中で、シミュレーションを、走らせる。岩を飛び出して、左へ。馬は、岩場では、小回りがきかない。草原に出るまでに、少しでも、距離を稼ぐ。そこから、崖際の藪へ。藪に入れば、馬は、追ってこられない。──理屈の上では、筋が通っている。問題は、それが、うまくいく保証が、どこにも、ないことだ。けれど、考えている暇は、もう、ない。やるか、捕まるか。二つに、一つ。


 俺は、ありったけの息を吸い込んだ。そして、男の足音が岩のすぐ裏まで来た、その瞬間に──地を蹴って、反対側へ、飛び出した。


 「いたぞ!」


 背後で、鋭い声があがる。構うものか。俺は岩場を飛び越え、草原へと突っ込んだ。丈の高い草が、行く手を阻む。それでも、ひたすら走る。腕を振り、足を回し、肺が焼けるのも構わず、前へ、前へ。後ろから、馬の蹄の音が、地響きのように追ってくる。──速い。当たり前だ。人間の足が、馬に勝てるわけがない。そんなことは、走り出す前から、わかっていた。わかっていて、それでも、ほかに手がなかった。


 「逃げるな、よそ者! 大人しくしろ!」


 大人しくしたら、生死を問われるんだろう。だったら、嫌だ。俺は奥歯を噛んで、なおも走った。肺が、限界を訴えている。喉が、ひゅうひゅうと、嫌な音を立てる。脇腹が、刺すように痛い。それでも、足を、止めなかった。止まったら、終わる。たった一つ、その確信だけを頼りに、ただ、がむしゃらに、腕を振る。


 蹄の音が、近い。すぐ、背後だ。馬の、荒い鼻息さえ、聞こえてくる気がする。──だめだ。距離が、詰まっている。人間の脚で、馬を振り切れるはずが、ない。そんなことは、最初から、わかりきっていた。わかっていて、それでも、走るしかなかった。考えるな。立ち止まったら、それこそ、終わりだ。手綱を引く音。革の、きしむ音。背後の気配が、ぐっと、伸し掛かってくる。


 草の切れ目から、ちらりと前方が見える。──まずい。地形が、下り坂になっている。その先は、岩がちな、急な斜面のようだった。


 とっさに、足を、止めようとした。だが、もう、遅かった。全力で走っていた勢いが、そのまま、体を、前へ、前へと、押し出す。踏ん張ろうとした足が、逆に、空を切る。──しまった。頭で、そう思ったときには、もう、視界が、ぐらりと、傾いでいた。


 止まれない。勢いがつきすぎて、足が、もう自分の意思では止まらなかった。


 斜面に、足を踏み入れる。ざ、と土が崩れた。とたんに、体勢が崩れる。──あ、これ、さっきの石段と同じだ。落ちていく寸前の、あの感覚。脳の片隅で、妙に冷静なもう一人の俺が、そう呟いた。デジャヴにしては、間隔が短すぎる。一日に二度も同じ死に方をするやつが、どこにいる。


 もんどりうって、俺は斜面を転がり落ちた。今度は、痛い。さっきと違って、容赦なく、痛い。岩の角が、脇腹をえぐる。腕が、変な方向にひねられる。何度か跳ねて、ようやく、斜面の底の、平らな岩場に、叩きつけられるように止まった。


 神社の石段と、同じだ。なのに、何もかもが、違った。あのときは、気がつけば、痛みもなく、草原で、目を覚ましていた。けれど、今度は、違う。一つひとつの衝撃が、容赦なく、体に、刻み込まれていく。岩は、固く、鋭い。地面は、無慈悲だ。世界は、俺を、優しく受け止めてなんか、くれない。──ああ、そうか。あの転落で死ななかったのは、たぶん、奇跡だったのだ。それとも、何か、別の力が、働いたのか。今となっては、知りようもない。


 息が、できない。肺が、潰れたみたいだった。口の中に、鉄の味が広がる。指一本、動かそうとするだけで、全身に激痛が走った。──ああ、これは、折れてるな。どこか、たぶん、何か所か。他人事のように、そう思う。


 痛みは、波のように、押し寄せてきた。脇腹が、熱い。腕が、しびれて、感覚がない。呼吸をするたびに、胸の奥で、何かが、ごりっと、嫌な音を立てる。──痛い。本当に、痛い。ゲームのダメージ表現とは、まるで違う。数字が減るんじゃない。HPバーが、赤くなるんじゃない。ただ、体の、あらゆる場所が、悲鳴を、あげている。生身の体は、こんなにも、簡単に、壊れるのか。こんなにも、もろいのか。それを、初めて、思い知った。


 助けを、呼びたかった。けれど、声が、出ない。喉から漏れるのは、ひゅう、ひゅう、という、情けない、空気の音だけ。動け、と、体に命じる。動いてくれ。少しでも。逃げなきゃ。──でも、体は、まるで、言うことを、聞かなかった。指先が、わずかに、震えるだけ。俺は、岩の上に、無様に転がったまま、ただ、痛みと、絶望に、押し潰されていた。


 それでも、生きてはいた。霞む目で、必死に、あたりを探る。逃げ道。どこか、隠れる場所。──けれど、体は、もう、ぴくりとも、動かない。立ち上がるどころか、寝返りを打つことさえ、できそうにない。指の先が、わずかに、震えるだけだ。声も、出ない。助けを、呼ぶことも、できない。完全な、無力。ただ、岩の上に、転がされた、肉の塊。それが、今の、俺だった。


 そのとき、視界の端の、岩の陰で、何かが、動いた。


 四つの、赤い目。


 さっきの個体ではない。別の、もう一頭の、四つ目の狼。斜面を転がり落ちた俺の、すぐ目の前に。獲物の血の匂いに、誘われたのか。それは、低く身を伏せて、ゆっくりと、こちらへ近づいてくる。涎が、牙のあいだから、糸を引いて垂れていた。


 四つの目が、別々の方向を見ているようでいて、その焦点は、確かに、俺ひとりに、絞られている。一歩。また一歩。爪が、岩を、かりかりと、引っ掻く。じらすように、ゆっくりと、間合いを、詰めてくる。獲物が、もう、逃げられないと、わかっているのだ。捕食者の、余裕。その、ぞっとするような落ち着きが、かえって、絶望を、際立たせた。


 崖の上を、ちらりと、見上げる。馬上の、革鎧の男が、こちらを見下ろしていた。けれど、男は、馬を下りようとも、矢をつがえようとも、しない。ただ、冷ややかに、成り行きを、眺めている。──助ける気は、ないのだ。あるいは、狼に始末させたほうが、手間が省ける、とでも思っているのか。「生死は問わず」。その言葉の意味を、俺は、今度こそ、骨身に染みて、理解した。この世界の誰にとっても、俺の命は、その程度の、ものなのだ。


 日本にいた頃の、自分を、思い出す。冴えない毎日に、嫌気が差して、「ここじゃない、どこかへ」と、願った。──その「どこか」が、これか。誰も、俺を、知らない。誰も、俺を、気にかけない。命の価値すら、賞金の額で、値踏みされる。望んだ「やり直し」の世界は、想像していたような、優しい場所じゃ、なかった。むしろ、こっちのほうが、ずっと、冷たくて、ずっと、容赦が、ない。


 それでも──いや、だからこそ、かもしれない。生きたい、と、強く、思った。あの、退屈な日常では、一度も、感じなかったほど、強烈に。死にたくない。こんなところで、終わりたくない。まだ、何も、していない。この理不尽な世界で、それでも、生き抜いて、自分の居場所を、見つけたい。──皮肉なものだ。命を、なくしかけて、初めて、本気で、生きたいと、願うなんて。


 けれど、その願いも、むなしく。体は、指一本、動かない。狼は、もう、目の前だ。生臭い息が、頬を、撫でる。──俺の、必死の「生きたい」は、この、空腹の獣の前では、なんの、力も持たない。願うことしか、できない。ただ、それだけ。世界は、こんなにも、無慈悲だった。


 逃げろ、と、本能が、また叫んだ。だが、今度は、足が、動かない。腕も、動かない。指の一本さえ。俺はただ、岩の上に転がったまま、近づいてくる四つの目を、見上げることしか、できなかった。


 頭の中だけが、ぐるぐると、空回りしていた。何か。何か、手は。武器は。──ない。隠れ場所は。──ない。助けは。──来ない。逃げ道は。──ない。考えれば考えるほど、選択肢は、すべて、塗りつぶされていく。死にゲーなら、こんなとき、起死回生の、一手があった。隠しコマンドが、奇跡の一撃が、どこかに、あった。でも、現実には、そんなものは、用意されていない。詰みは、詰みだ。盤面を、いくらにらんでも、もう、指せる手は、どこにも、残っていなかった。


 四つ目の狼が、すぐ、目の前まで、来た。生臭い息が、顔に、かかる。低い唸りが、腹の底に、響く。赤く濁った、四つの目が、俺を、まっすぐに、見下ろしている。そこに、憎しみも、悪意も、ない。ただ、空腹だけが、ある。俺は、こいつにとって、敵ですら、ない。ただの、餌だ。それが、なぜだか、いちばん、こたえた。


 不思議と、走馬灯みたいなものは、なかった。頭の中は、むしろ、奇妙なくらい、静かだった。痛みも、いつの間にか、遠のいている。体が、それ以上、痛みを感じることを、諦めたのかもしれない。意識だけが、ぽつんと、暗い水の底に、沈んでいくみたいに、澄んでいた。


 ただ、ぼんやりと、思った。──あっけ、ないな、と。


 ゲームなら、ここは見せ場だ。絶体絶命のピンチ。けれど、主人公には、隠された力が目覚めたり、間一髪で仲間が駆けつけたり、するものだ。BGMが盛り上がって、起死回生の一手がある。──でも、現実は、そうじゃない。誰も来ない。力も、目覚めない。俺は、ただの、骨の折れた、武器も持たない人間で。目の前には、腹を空かせた獣がいて。それで、おしまい。盛り上がりも、伏線の回収も、何もない。本当に、ただ、あっけなく。


 思えば、現実は、いつも、こうだった。ゲームみたいな、劇的な展開なんて、一度も、なかった。バイトのミスも、すれ違う友人たちも、空っぽの将来も、ぜんぶ、地味で、報われなくて、やり直しの、きかないことばかり。──そして、最後の最後まで、そうなのか。異世界に、転生してまで。物語の主人公みたいに、颯爽と、活躍することもなく。ただ、草っぱらの隅で、獣の餌になって、終わる。それが、俺の、物語。あんまりだ、と思った。あんまりにも、地味で、あんまりにも、救いがない。


 それでも──と、薄れていく意識の中で、俺は、思った。怖い。死にたくない。まだ、何も、していない。この世界を、ろくに、見てもいない。あの、氷の魔法の正体も。あの、城壁の中の暮らしも。何ひとつ、知らないまま。──まだ、終わりたく、ない。心の底から、そう、願った。死にたくない、生きたい、と。こんなにも強く、生きたいと願ったのは、生まれて、初めてかもしれなかった。皮肉な話だ。死を、目の前にして、ようやく。


 日本にいた頃は、毎日が、退屈で、惰性で、どうでもよかった。明日が来ても、来なくても、たいして変わらない。そんな顔で、生きていた。──なのに、今は、こんなにも、明日が、欲しい。次の一日が、見たい。この世界が、これから、どうなっていくのか。あの街で、人々が、どう暮らしているのか。知りたいことが、見たいものが、急に、山ほど、湧いてくる。失って初めて、わかるなんて。本当に、人間は、愚かだ。俺は、その中でも、とびきり、愚かなほうだろう。


 ごめん、と、誰にともなく、思った。祖母に。家族に。あの、退屈だと切り捨てた、毎日に。せっかく与えられた、一回きりの人生を、俺は、ずっと、持て余していた。やり直したい、なんて、贅沢なことを、願っていた。──でも、本当は。本当は、あの、なんでもない毎日こそが、かけがえのない、ものだったのかもしれない。今となっては、もう、遅いけれど。薄れゆく意識の中で、俺は、ぼんやりと、そんなことを、思った。


 異世界に来て、まだ、半日も経っていない。ステータス画面も見ていない。スキルも使っていない。町にも、たどり着いていない。仲間の一人も、できていない。何ひとつ、始まってすらいないのに。


 脈絡もなく、いろんなものが、頭をよぎった。さっき、屋台で嗅いだわけでもない、パンの匂い。ゲームの中で、何百回と上った、城の階段。深夜のコンビニの、白々とした照明。店長の、呆れた声。スマホの向こうで、前へ進んでいく、友人たちの背中。──そして、祖母の、しわの寄った、温かい手。『やり直せるうちは、何度だって、やり直しなさい』。あの言葉を、もう一度、聞きたかった。


 やり直せる人生が、ほしい、と願った。その願いが、叶ったのか、叶わなかったのか、それすら、わからないまま。俺は、結局、こっちでも、同じだった。何も、できなかった。何も、変えられなかった。一回きりの、その一回を、また、しくじった。今度は、文字どおり、命で。


 ゲームの「死」は、ただの記号だった。赤い文字が出て、画面が暗転して、それで、おしまい。痛みなんて、ない。怖さなんて、ない。何度死んでも、ヘラヘラ笑っていられた。──でも、これは、違う。本物の死は、こんなにも、冷たい。こんなにも、暗い。こんなにも、ただ、ただ、怖い。体の芯から、力が抜けていく。意識が、指の先から、こぼれていく。この感覚に、慣れる日なんて、きっと、来ない。


 「……うそ、だろ」


 掠れた声で、俺は、笑おうとした。うまく、笑えなかった。こんなところで。こんな、草っぱらの隅で。誰にも、知られず。誰にも、看取られず。名前すら、まだ、この世界の誰にも、告げていないのに。──俺が、ここで死んだことを、いつか、誰かが、知るんだろうか。きっと、知らない。日本の家族も、友人も、店長も。俺が、どこへ消えたのか、永遠に、わからないままだ。それは、死ぬことよりも、ずっと、寂しいことのように、思えた。


 四つ目の狼が、大きく、口を開けた。生臭い息が、顔にかかる。ずらりと並んだ牙が、霞む視界いっぱいに、迫ってくる。


 目を、閉じたかった。けれど、閉じられなかった。迫りくる牙から、目を逸らすことすら、できない。──こんな終わり方を、するために、俺は、ここまで来たのか。神社で、願って。石段から、落ちて。異世界に、転生して。それで、たどり着いた先が、これか。名もない草っぱらで、獣の餌になって、ぷつりと、途切れる。誰にも、知られず。誰にも、惜しまれず。あんまりだ、と、霞む頭の隅で、思った。あんまりにも、救いがない。


 戻れたら、いいのに。


 また、思った。今日、何度目だろう。やり直せたら。たった今の、この瞬間を、戻せたら。──斜面を転がる前に。いや、逃げ出す前に。岩陰で、音を立てる前に。あの二人に、見つかる、ずっと前に。どこでもいい。少しでも、前に。戻れたら、俺は、今度こそ。


 戻れたら。せめて、もう一度だけ、チャンスがあれば。今度こそ、もっと、うまくやる。逃げ方も、隠れ方も、ぜんぶ、わかった。あの小石も踏まない。あの斜面にも近づかない。だから、頼む。誰でもいい。神様でも、なんでもいい。もう一度だけ──。


 獣の牙が、俺の喉元に、振り下ろされる。


 衝撃。熱。それから、急速に冷えていく、何か。視界が、端から、黒く溶けていく。音が、遠ざかる。意識が、糸の切れた凧みたいに、ふわりと、体から離れていくのが、わかった。


 ああ、死ぬんだ。──そう、はっきりと自覚した、その刹那。左の手首が、ふいに、熱を、持った。


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