第4話 左手首が、光った
白い光が、爆ぜた。
それは、死の間際に見るという、あの光とは、違った。冷たくもなく、優しくもない。ただ、まばゆい。左手首の紋様から、堰を切ったように光があふれ出し、俺の視界を、世界ごと、真っ白に塗りつぶしていく。喉に振り下ろされたはずの牙の感触も、急速に冷えていく体の感覚も、その光の中に、すうっと、溶けて消えた。
無音。無重力。上も下も、前も後ろも、ない。時計の針が、いっせいに逆回転していくような、奇妙な浮遊感。胃の腑が、ひゅっと持ち上がる。──そして。
その、真っ白な無の中で、ほんの一瞬、奇妙なものを、見た気がした。いくつもの映像が、逆回しのフィルムみたいに、ものすごい速さで、流れていく。狼に、喉を裂かれる瞬間。斜面を、転がり落ちる体。逃げ惑う、自分の背中。岩陰で、息を殺す姿。──さっき、自分が、確かに体験したはずの出来事が、終わりから、始まりへと、逆向きに、巻き戻されていく。まるで、誰かが、巨大な糸車で、過ぎ去った時間を、たぐり寄せているみたいに。
その逆回しの映像の中で、確かに、感じた。さっきまでの、激痛が。喉を裂かれた、あの熱が。じわじわと、薄れて、消えていく。まるで、絵の具を、水で、洗い流すみたいに。死が、巻き戻されて、傷が、なかったことに、なっていく。痛みが、ほどけていく。──ありえない感覚だった。けれど、不思議と、心地よくも、あった。あの、絶望的な冷たさから、引き上げられていく、その感じが。
その光景に、見入る間も、なかった。映像は、見る間に遠ざかり、白い光が、すべてを、呑み込んで──。
俺は、息を呑んで、目を見開いた。
岩の、ごつごつとした感触が、背中にあった。鼻先をくすぐる、草いきれ。手のひらの下の、乾いた土。──俺は、大岩の陰に、しゃがみこんでいた。口を手で押さえ、息を殺した、あの姿勢のまま。
「は……?」
間の抜けた声が、漏れた。喉が、ある。さっき、牙に引き裂かれたはずの喉が、ちゃんと、ある。手で触れてみる。傷ひとつ、ない。脇腹も、痛くない。腕も、折れていない。全身を、おそるおそる確かめる。どこも、なんともない。血の味さえ、口の中から、消えている。
心臓だけが、まだ、おかしいくらい、激しく打っていた。死の恐怖の、名残り。体は無傷なのに、心の方は、たった今、確かに、死を味わったことを、覚えている。その落差が、ひどく、気持ち悪かった。指先が、小刻みに、震えている。それを、もう一方の手で、ぎゅっと、握りしめた。
何が、起こった。俺は、自分に、問いかける。さっき、確かに、俺は、死んだ。斜面を転がり落ちて、狼に喉を、食い破られて。あの、急速に冷えていく感覚も、遠ざかる意識も、ぜんぶ、覚えている。なのに、今、こうして、生きている。それも、死ぬよりずっと前の、岩陰に、しゃがみこんだ姿勢で。──まるで、時間を、巻き戻したみたいに。いや。「みたいに」じゃ、ない。本当に、巻き戻ったとしか、思えない。
俺は、おそるおそる、あたりを、見回した。岩の形。草の生え具合。風の向き。空の、雲の位置。──全部、見覚えが、ある。当然だ。ついさっき、この同じ場所で、息を殺して、隠れていたのだから。俺は、ちゃんと、岩陰に、戻っている。死ぬ前の、あの瞬間に。それも、ただ場所が同じ、というだけじゃない。しゃがんだ膝の角度も、口を押さえた手の位置も、何もかも、あのときの、ままだった。世界が、そっくり、あの瞬間に、巻き戻っている。
信じられない。信じたくない、とすら、思う。死人が、生き返る。時間が、巻き戻る。そんなことは、あっていいはずが、ない。世界の、根本的なルールが、ねじ曲がっている。──でも、と、俺は、自分の左手首に、目を落とす。淡く光る、時計のような、紋様。これが、来たときから、唯一、俺に与えられた、得体の知れないもの。きっと、こいつが、原因だ。そうとしか、考えられない。理屈は、わからない。仕組みも、わからない。けれど、起こったことは、起こったことだ。否定しても、始まらない。なら──確かめるしか、ない。
じわじわと、実感が、追いついてくる。──助かった。死んだはずなのに、生きている。あの、絶望の底から、引き戻された。それも、ほかでもない、自分自身の力で。理屈はどうあれ、その事実だけは、揺るがない。震えていた指先に、少しずつ、力が、戻ってくる。心臓の鼓動も、ようやく、落ち着きを、取り戻し始めた。
それにしても、と、俺は、改めて、ぞっとする。もし、この力が、なかったら。今ごろ、俺は、あの斜面の下で、狼の餌に、なっていた。誰にも知られず、誰にも惜しまれず、ただの、肉の塊として。──そう考えると、背筋が、冷たくなる。この力は、文字どおり、命綱だ。これがなければ、俺は、この世界で、一日と、生き延びられない。逆に言えば、これさえあれば。これさえ、あれば──。
考えれば考えるほど、とんでもない力だった。失敗を、なかったことにできる。死を、巻き戻せる。──これは、誰もが、喉から手が出るほど、欲しがる力だろう。さっき会話を盗み聞いた、あの男たちが言っていた「よそ者」への警戒。王国が、血眼で探しているという、得体の知れない存在。──ひょっとして、それは、俺みたいに、こういう「特別な力」を持つ者のことを、指しているんじゃないか。だとしたら、この力は、知られたら、まずい。とっさに、そう、直感した。理由はわからない。でも、隠しておくべきだ、と、本能が、告げていた。
夢、だったのか。
俺は、しばらく、岩陰で、呆然としていた。何が起きたのか、頭が、まるで、追いつかない。さっきまで、確かに、死の淵にいた。獣の牙が、喉に、振り下ろされて。熱と、衝撃と、それから、すべてが冷えていく感覚。意識が、体から、離れていって。──そこで、左手首が、光った。それだけは、はっきりと、覚えている。あの、まばゆい、白い光。
斜面を転がり落ちて、狼に喉を食い破られて──あの、生々しい痛みも、冷たさも、全部、ただの、白昼夢。極度の緊張が見せた、悪い幻。岩陰でうずくまっているうちに、ほんの一瞬、意識が飛んで、そんな夢を見ただけ。──そう考えるのが、いちばん、筋が通っている。理性は、そう言っていた。死人が、生き返るわけがない。時間が、巻き戻るわけがない。そんなことが、起こるはずが、ない。それが、俺の知っている、世界の、ルールだ。
でも。心臓が、まだ、早鐘を打っている。手のひらに、まだ、あの牙の生臭い息が、こびりついている。あんなにも鮮明な夢が、あるだろうか。痛みの一つひとつまで、はっきりと覚えている夢が。
いや、と、俺は、首を振る。そんなこと、あるわけがない。時間が巻き戻るなんて、ゲームか、SF映画の中だけの話だ。きっと、極限の恐怖で、頭が、おかしくなったんだ。死ぬほどの目に遭って、気を失って、ほんの数秒の夢を見た。そう考える方が、よほど、現実的だ。──そう、思おうとした。思おうとして、けれど、できなかった。手のひらに残る、あの牙の感触が。喉を裂かれた、あの瞬間の熱が。とても、夢とは、思えないほど、鮮明だったから。
混乱したまま、俺は、そっと、岩のふちから顔を出した。確かめずには、いられなかった。もし、これが夢なら、何も起こらない。もし、本当に時間が戻ったのなら──これから起こることを、俺は、すべて、知っているはずだ。それを、確かめる。怖かった。確かめてしまったら、もう、後戻りできない気が、した。それでも、目を、逸らせなかった。
──いた。草原の真ん中に、四つ目の狼が、立っていた。黒い剛毛。背骨の棘。赤く濁った、四つの目。さっき見た、あのままの姿で。まだ、矢は刺さっていない。まだ、誰も、倒していない。
生きている。あの狼が、生きている。──ということは、俺を殺した、もう一頭は、まだ、斜面の下に、いるはずだ。馬の男たちは、まだ、現れていない。すべてが、あの「死ぬ前」の、状態に、戻っている。世界全体が、巻き戻った、決定的な証拠が、目の前に、広がっていた。俺は、ごくり、と、唾を、飲み込んだ。
俺は、ぞくりとした。これから、何が起こるのかを、俺は、知っている。──じきに、空気を裂いて、矢が飛んでくる。狼の首筋に、深々と。馬に乗った、革鎧の男。その隣の、フードの人物。青白い光。「氷牙」。氷の刃が、生まれて。獣の半身が、白く凍りつく。
俺は、岩陰で、固唾を呑んで、待った。もし、これが、ただの夢なら。今から言うことなんて、何ひとつ、起こらないはずだ。心の中で、覚えているとおりの順番を、そっと、なぞる。──まず、空気を裂く音。それから、狼の悲鳴。矢が、首筋に刺さる。次に、馬の蹄の音が、近づいてくる。革鎧の男が、二本目の矢を。隣の、フードの人物が、手をかざして。青白い光。「氷牙」。氷の刃。獣の半身が、凍りつく。──さあ、そのとおりに、なるか。
息を、止めた。一秒。二秒。長い、三秒。
ヒュッ、と。
空気が、裂けた。風切り音。狼の、けたたましい悲鳴。その首筋に──一本の矢が、深々と、突き立っていた。
背筋を、氷の塊が、滑り落ちていった。
知っていた。俺は、これを、知っていた。矢が飛んでくることも、狼が悲鳴をあげることも、刺さる場所が首筋だということも。全部、さっき、「見た」からだ。夢なんかじゃ、ない。あれは、本当に、起こったことだ。俺は、確かに、あの斜面で、死んだ。狼に、喉を、食い破られて。
なのに、今、俺は、生きている。死ぬ前の、岩陰に、戻っている。
俺は、岩陰で、声にならない声を、漏らした。鳥肌が、腕という腕に、ぶわりと立つ。──当たった。寸分の、狂いもなく。俺の「記憶」が、これから起こることを、正確に、言い当てた。これは、予知でも、勘でもない。「すでに、一度、体験した」からこそ、知っている。それ以外に、説明のしようが、ない。
草原の向こうから、土煙をあげて、馬が駆けてくる。革鎧の男が、二本目の矢をつがえる。──知っている。次は、狼の、もう一方の眼を貫く。隣のフードの人物が、手をかざす。青白い光が、凝る。俺は、もう、それを、ただの傍観者として、見ていなかった。一つ、また一つと、覚えているとおりの出来事が、目の前で、現実になっていくたびに、確信が、骨の髄まで、染み込んでいく。──時間は、巻き戻った。間違いなく。俺は、未来を、すでに、見てきたのだ。
「──〈氷牙〉」
涼やかな声。氷の刃。獣の半身が、白く凍る。地に落ちた巨体は、二度と、動かない。──何ひとつ、違わなかった。一言一句、一挙手一投足、寸分たがわず、俺の「記憶」のとおりに、世界は、もう一度、進んでいった。
ふと、奇妙なことに、気づく。──彼らは、誰も、覚えていない。あの革鎧の男も、フードの人物も。一度目の「世界」で、自分たちが、何を言い、何をしたか。彼らにとって、これは、初めての一回だ。けれど、俺だけは、二度目だと、知っている。彼らが次に何を言うかを、俺だけが、知っている。同じ時間の中にいるのに、俺ひとりだけが、ひとつ「先」の記憶を、抱えて立っている。なんだか、ひどく、奇妙な気分だった。自分だけが、この世界の「外側」から、こっそり覗き込んでいるような。
俺は、震える手で、自分の左手首を、見た。
時計のような、淡い紋様。──さっき、死の間際に、熱を持った。光が、あふれた。そして、気がつけば、数分前に、戻っていた。痛みも、傷も、なかったことになって。記憶だけを、残したまま。
まさか。いや。でも。そうとしか、考えられない。震える指先で、俺は、紋様にそっと触れた。心臓が、ばくばくと鳴っている。けれど、それは、さっきまでの「恐怖」とは、少し、種類が違っていた。
時間を、巻き戻す。死を、なかったことにする。失敗を、やり直す。──そんな、ゲームの中でしか、ありえないような力が。もし、本当に、俺の、この左手首に、宿っているのだとしたら。それは、つまり。あの、神社の石段で、闇の中へ落ちていきながら、最後に願った、あの言葉が。やり直せる人生が、ほしい、という、あの、子どもじみた願いが。本当に、聞き届けられた、ということに、ならないか。
俺は、もう一度、岩のふちから、草原を、覗いた。革鎧の男が、まだ来ない。フードの人物も。けれど、俺は、知っている。あと、ほんの少しで、彼らが、現れることを。矢が、飛ぶことを。魔法が、放たれることを。──未来を、知っている。たった今、起こった「これから」を、もう、見てきたから。こんな感覚は、生まれて、初めてだった。怖いような、不思議なような、そして、ほんの少し、心が、ざわつくような。
ゲームで、二周目を、プレイするときの感覚に、少しだけ、似ている。ストーリーを、知っている。どこで、何が起こるか、わかっている。だから、一周目では、なすすべもなかった場面も、先回りして、攻略できる。──でも、決定的に、違うのは。ゲームの二周目は、ぜんぶ、知ったうえで、安全な場所から、楽しむものだ。今の俺は、違う。この「二周目」の中で、俺は、また、死ぬかもしれない。本当に。痛みも、恐怖も、すべて、本物のまま。知っているからといって、安全とは、限らない。一手、間違えれば、また、あの斜面が、待っている。
だからこそ、慎重に、いこう。せっかく、手にした、二度目だ。同じ失敗は、しない。あの男たちには、近づかない。あの斜面にも、行かない。覚えている。ぜんぶ、覚えている。──知識は、力だ。死にゲーで、嫌というほど、学んだこと。一度目の死は、無駄じゃない。それは、二度目を生き抜くための、何より貴重な、情報になる。俺は、深く、息を吸って、これから自分が取るべき、行動を、頭の中で、組み立て始めた。
俺は、もう一度、左手首の紋様を、見つめた。淡く光る、時計のような円。さっきまで、なんの変哲もない模様に見えたそれが、今は、まるで、何か、とてつもなく重いものを、秘めているように、感じられた。──確かめなければ。これが、本当に、俺の思っているとおりの力なのか。たまたまの、まぐれなのか。それとも、まだ、夢の続きなのか。震える手を、ぐっと、握りしめる。怖い。けれど、それ以上に、確かめたい。その衝動が、恐怖を、わずかに、上回っていた。
これは。この、左手首の力は。もしかして。もしかして、俺が、ずっと、ほしいと願っていた──。
石段の上で。社の前で。落ちていく、闇の中で。何度も、何度も、繰り返し、願った、あの言葉が、耳の奥で、こだました。やり直せる人生が、ほしい、と。
まさか。本当に。そんなことが。──にわかには、信じられない。けれど、現に、俺は、死んだはずなのに、生きている。死ぬ前の時間に、戻っている。これから起こることを、すべて、知っている。それを、説明できる理屈は、もう、一つしか、なかった。やり直せる人生が、ほしい。あの願いは、叶ったのだ。こんな、思いもよらない、形で。
胸の奥で、何か、熱いものが、こみ上げてきた。──助かった。死なずに、すんだ。それだけじゃない。これから先、何度、死んでも。何度、しくじっても。きっと、また、戻れる。やり直せる。一回きりの、取り返しのつかない、あの現実とは、違う。ここでは、俺は、何度でも、挑める。その事実が、絶望の底にいたはずの俺の心に、ぽっと、小さな灯を、ともした。──まだ、終わっていない。俺の、異世界は、まだ、始まったばかりだ。
だが、ひとつだけ、奇妙な引っかかりが、残った。──喉を裂かれた、あの痛み。指先に、まだ、こびりついている。なかったことに、なったはずなのに。世界の誰も、覚えていないのに。なぜ、俺だけが、こんなにも、生々しく、覚えている? その問いが、ふと、胸の底で、冷たく、疼いた。けれど、生き延びた高揚が、すぐに、それを、塗りつぶす。──このときの俺は、まだ、知らない。その「引っかかり」こそが、やがて、俺を、いちばん深く、苦しめることになるのを。




