第2話 異世界の最初の朝
逃げろ、と本能が言った。考えるより先に、俺の足は動いていた。
あの、低く濡れた唸り声は、どう聞いても、友好的じゃない。腹を空かせた、捕食者の声だ。まだ距離はある。けれど、確実に、近づいてくる。──考えるな。まず、逃げる。安全になってから、考えればいい。
丈の高い草をかき分けて、唸り声の反対側へ、がむしゃらに走る。穂先が頬を切る。足元は見えない。何度もつまずきかけながら、それでも止まらなかった。止まったら終わる──そういう確信だけが、やけにはっきりとあった。死にゲーで培った勘、とでも言えばいいのか。背後に「敵性のなにか」がいるときの、あの首筋がぞわりとする感覚。それが、全身で鳴っていた。
草原がふいに途切れて、ごつごつした岩場に出た。俺は手近な大岩の陰に体を滑り込ませ、口を手で押さえて、息を殺す。心臓の音が、自分の耳にうるさいくらい響いていた。
どれくらい、走っただろう。ほんの数分かもしれないし、もっと長かったかもしれない。とにかく、全力で走ったせいで、肺が、焼けるように熱い。喉の奥から、血の味がする。それでも、声を、立てるわけにはいかない。俺は、両手で口を覆ったまま、必死に、呼吸を、整えようとした。吸って。吐いて。ゆっくり。落ち着け。──震える指の隙間から、漏れる息が、白く、にじんで見えた。いや、白くは、ない。ここは、もう、あの寒い夜の神社じゃ、ないのだ。
そっと、岩のふちから顔を出す。
いた。草原の真ん中に、それは立っていた。──犬だ、と最初は思った。だが、違う。大きすぎる。小型犬どころか、大型犬すら通り越して、もはや子牛ほどもある。黒い剛毛に覆われた体。背骨に沿って、骨のような棘が並んでいる。頭部はたしかに狼に似ていたが、目が、四つあった。赤く濁った四つの目が、ぎょろぎょろと、ばらばらの方向を睨んでいる。
「……いやいやいや」
思わず、声が漏れた。あんなの、図鑑にも、動物園にも、いない。いるとしたら──ゲームの中だ。それも、序盤の草原フィールドをうろついている、雑魚モンスターのたぐい。プレイヤーが最初に狩らされる、経験値の塊。
けれど、画面の中で見るのと、こうして、本物を目の前にするのとでは、まるで違った。剛毛の一本一本が、夕日でもないのに、ぬらりと脂じみて光っている。荒い呼吸のたびに、湿った鼻先が、ひくひくと動く。生臭い、獣の匂いが、風に乗って、ここまで届いてくる。──実在している。データじゃない。質量を持って、そこに、息づいている。ドット絵でもポリゴンでもない、本物の「生き物」が、すぐそこに。その当たり前の事実が、じわりと、背筋を冷やした。
もし、あれに、見つかったら。図鑑の説明文みたいに、客観的になんて、いられない。逃げ切れる脚は、俺にはない。武器も、ない。魔法も、使えない。ただの、丸腰の大学生だ。──ごくり、と、自分の喉が鳴る音が、やけに大きく聞こえた。俺は、岩に、もう一段、深く、身を伏せた。
ということは、だ。俺は岩に背中を預けたまま、なるべく冷静に、状況を整理しようとした。ここはゲームみたいな世界で、あれはモンスターで、つまり俺は、いわゆる──異世界転生、というやつ、なのか。石段から落ちて、気がついたら別世界。テンプレも、いいところだ。
いや、笑っている場合じゃ、ない。冷静になれ、と、自分に言い聞かせる。混乱したときほど、わかることから、順に、潰していく。死にゲーで、何百回と、そうしてきたじゃないか。──まず、現状。俺は、武器を持たない丸腰で、目の前に、化け物がいる。これは、まずい。次に、ここがどこか、わからない。これも、まずい。さらに、腹も減っているし、喉も渇いている。じわじわ、まずい。──こうして数えると、まずいことしか、ない。状況は、控えめに言って、最悪だった。
それでも、と、俺は、自分を、奮い立たせる。ゲームの序盤だって、たいてい、こんなものだ。装備は貧弱、所持金はゼロ、レベルは1。そこから、こつこつ、積み上げていく。いきなり、強くは、なれない。まずは、目の前の脅威を、やり過ごすこと。次に、安全な場所を、確保すること。それから、情報を、集めること。──順番に、やっていけばいい。焦るな。一手ずつだ。そう考えると、ほんの少しだけ、呼吸が、楽になった。パニックは、いちばんの敵だ。それだけは、死にゲーが、嫌というほど、教えてくれた。
よし、と俺は心の中で頷いた。落ち着け。転生したなら、転生したなりの「お約束」があるはずだ。
まず、ステータス画面。俺は岩陰にしゃがみこんだまま、おそるおそる念じてみた。ステータス、オープン。──何も起きない。メニュー。開け。設定。インベントリ。スキルツリー。心当たりのある単語を、片っ端から念じてみる。空中にウィンドウが浮かぶ気配は、みじんもなかった。視界の隅に、HPバーひとつ出てこない。
「チュートリアル……は……ない、と」
ぽつりと呟いて、俺は遠い目になった。ふつう、こういうときは、頭の中に丁寧なシステムメッセージが響くものだろう。『ようこそ、異世界へ』とか。『あなたには〈なんとかの加護〉が与えられました』とか。親切な妖精が出てきて、操作方法を説明してくれてもいい。なのに、何もない。説明書もなければ、案内役もいない。いきなり、四つ目の狼に襲われるところからスタート。難易度設定を間違えたとしか思えなかった。
いや、待てよ、と、俺は、思い直す。ステータス画面も、チュートリアルも、ないということは。──この世界は、ゲームに「似ている」だけで、ゲームじゃ、ないのかもしれない。モンスターがいて、魔法があって、剣で戦う。見た目は、まるで、ファンタジーRPGだ。けれど、その中身は、たぶん、もっと、シビアで、もっと、容赦のない、現実そのものだ。便利なシステムなんて、用意されていない。誰も、手取り足取り、教えてくれない。死んだら、それで、終わり。──いや、俺の場合は、終わらないが。とにかく、ゲームの「お約束」を、鵜呑みにするのは、危険だ。そう、肝に銘じておく必要が、あった。
念のため、「ヘルプ」とも、「メニューを開く」とも、念じてみた。さらには、ダメ元で、「セーブ」。なんなら、「中断してタイトルに戻る」。──当然のように、無反応。タイトル画面に戻れたら、それはそれで、いろいろと困るのだが。藁にもすがる、とは、こういう心境を言うのだろう。俺は、自分が、思った以上に、混乱していることに、気づいた。
ためしに、スマホを探る。──ない。ポケットは空っぽだ。そういえば、石段で取り落としたんだった。仮にあったとしても、電波が入る気もしないが。財布もない。鍵もない。あるのは、着の身着のままの、パーカーとジーンズ。それと、左手首の、よくわからない紋様だけ。
しかも、だ。よくよく考えれば、俺には、この世界の「常識」が、何ひとつ、ない。言葉は、通じるのか。お金は、何を使うのか。あの四つ目の狼以外に、どんな危険がいるのか。毒のある草は。食べられる実は。夜は、どこで眠ればいい。──知らないことが、あまりにも、多すぎた。ゲームなら、最初の町の住人が、親切に教えてくれる。掲示板に、クエストが貼ってある。看板に、地名が書いてある。けれど、ここには、その「親切」が、見当たらない。あるのは、ただ、広い草原と、腹を空かせた化け物と、丸腰の俺。スタート地点としては、あんまりにも、不親切がすぎた。
その紋様を、俺はあらためて、まじまじと見た。淡い光を帯びた、時計のような円。文字盤に当たる部分に、細い針のような線が、確かに刻まれている。押しても、こすっても、何も起きない。痛くもかゆくもない。けれど、これが「無関係」だとは、どうしても思えなかった。転生して、身ひとつ、唯一持たされたもの。ゲームで言うなら──初期装備。あるいは、固有スキル。
「これが、なんかの能力だったら、助かるんだけど」
言ってみたものの、使い方がわからなければ、宝の持ち腐れだ。説明書はない。チュートリアルもない。手探りで、自分で見つけるしかない。──まったく、不親切なゲームだ。星をつけるなら、現時点で一つだ。
そのとき、空気を裂いて、鋭い音が走った。
ヒュッ、という風切り音。続いて、四つ目の狼が、けたたましい悲鳴をあげた。俺は反射的に、岩のふちから様子をうかがう。狼の首筋に、一本の矢が深々と突き立っていた。
草原の向こうから、馬に乗った人影が、土煙をあげて駆けてくる。革の鎧を着た、いかにも歴戦という風体の男だった。男は馬上で二本目の矢をつがえ、こともなげに射放つ。矢は狙い違わず、狼のもう一方の眼を貫いた。獣がのけぞる。だが、まだ倒れない。四つ目の狼は牙を剝き、馬めがけて低く跳んだ。
男の隣を駆けていた、もう一騎。フードを目深にかぶった、小柄な人物が、すっと手をかざした。その手のひらの先に、青白い光が、ぎゅっと凝る。
「──〈氷牙〉」
涼やかな声と同時に、空中に、いくつもの氷の刃が生まれた。それが一斉に、宙を飛んだ狼へと突き刺さる。びきり、と音を立てて、獣の半身が、見る間に白く凍りついていった。地面に落ちた巨体は、もう、ぴくりとも動かなかった。
凍りついた狼の半身が、夕日でもない光に、きらきらと、輝いていた。その造形の、なんと、精緻なことか。一枚一枚の氷の結晶が、本物の、宝石みたいに、透き通っている。ありえない。物理法則を、まるごと、無視している。なのに、それは、確かに、そこに、ある。冷気が、ここまで、流れてくる。──夢でも、幻でもない。本物だ。
俺は、岩陰で、ぽかんと口を開けていた。
弓。馬。革鎧。そして──魔法。何もないところから、氷の刃が、生まれた。手品でも、CGでもない。本物の魔法が、目の前で、当たり前みたいに使われた。剣と、魔法。間違いない。ここは、そういう世界だ。さっきまでの「たぶん」が、「確定」に変わった瞬間だった。
子どもの頃から、何百回と、画面の中で、見てきた光景だ。詠唱して、印を結んで、世界の理を、ねじ曲げる。けれど、それを、こうして、生身で、目の当たりにすると、感じ方が、まるで違った。画面越しの「演出」じゃない。この世界では、魔法は、現実だ。火を熾すのも、傷を癒すのも、人を殺すのも、すべて、魔法で、できてしまう。──だとしたら、俺の、この時を戻す力も。この世界の、「魔法」の、一種、なのだろうか。それとも、もっと、別の、何か、なのか。考えても、答えは、出なかった。
胸の奥で、何かが、ちりっと熱を持った。怖い。怖いに決まっている。けれど、それと同じくらい──ほんの少しだけ、わくわくしている自分が、確かにいた。困った性分だと思う。四つ目の狼に殺されかけた直後だというのに。
だって、魔法だ。本物の、魔法。子どもの頃、何百回と、画面の中で見て、何百回と、憧れた、あれ。詠唱して、印を結んで、世界の理を、ねじ曲げる力。それが、空想でも、絵空事でもなく、この世界では、ただの「技術」として、存在している。練習すれば、俺にも、使えるんだろうか。あの、青白い氷の刃を、この手から、放てるんだろうか。──そんな考えが、危機的状況も忘れて、頭の中を、ぐるぐると、駆け巡った。
いや、落ち着け、と、もう一人の俺が、たしなめる。今は、それどころじゃない。憧れに浸るのは、生き延びてからにしろ。──そうだ。まずは、生き延びる。この、わけのわからない世界で、とにかく、今日を、生き延びることが、最優先だ。魔法も、冒険も、強くなることも、ぜんぶ、その先の話。死んだら、何も、始まらない。
助けを、呼ぶべきだろうか。
あの二人は、少なくとも、モンスターを倒す側の人間だ。事情を話せば、町まで案内してくれるかもしれない。NPCに話しかければ、クエストが進む。──そういう、ゲーム脳の発想が、頭をもたげた。困ったときは、人に頼る。道に迷ったら、町の人に聞く。ゲームなら、それが、正解だ。話しかけた相手は、たいてい、親切に、ヒントをくれる。俺は、岩陰から一歩、踏み出そうとして。
寸前で、足を止めた。
馬を下りた革鎧の男が、凍りついた狼の死骸を検分しながら、フードの人物に、低い声で何か言っている。風に乗って、切れ切れに、言葉が届いた。意味が、わかる。日本語ではないはずなのに、なぜか、すんなりと頭に入ってくる。これも、転生特典のうちなのかもしれない。──そのことに感心するより先に、聞こえてきた内容のほうに、俺は凍りついた。
「……この辺りに、よそ者が紛れ込んだという話だ。賞金首かもしれん。見つけ次第、生死は問わず連れてこい、とのお達しでな」
生死は、問わず。
俺は、そっと踏み出しかけた足を、音もなく引っ込めた。冷や汗が、背中を伝う。あぶない。あやうく、のこのこ出ていって、「はじめまして、よそ者です」と自己紹介するところだった。この世界の「お約束」は、どうやら、俺の知っているそれとは、少し違うらしい。親切なNPCばかりとは、限らない。話しかけた相手が、いきなり剣を抜いてくることだって、ある。
危なかった。本当に、危なかった。──ゲーム脳が、抜けていない。困ったら、人に頼る。道に迷ったら、町の人に聞く。そういう「正解」が、この世界では、命取りに、なりかねない。ここは、ゲームじゃ、ない。誰も、俺を、助けるために、配置されてなんか、いない。むしろ、見つかれば、殺される。──頭を、切り替えろ、と、自分に、言い聞かせる。ここは、優しい世界じゃ、ない。油断したら、死ぬ。それも、本当に、死ぬ。
それにしても、と、混乱した頭の隅で、思う。賞金首。よそ者。──まだ、この世界に来て、半日も経っていないのに。俺は、何も、していない。誰も、傷つけていない。ただ、石段から落ちて、気がついたら、ここにいた。それだけだ。なのに、もう、「生死を問わず」狙われる立場に、なっている。理不尽にも、ほどがある。いったい、「よそ者」の、何が、そんなに、問題なのか。それすら、わからない。わからないことだらけの中で、ただ、「狙われている」という事実だけが、やけに、重く、のしかかってきた。
息を殺したまま、俺は岩陰を、じりじりと後ずさった。彼らがこちらに背を向けている、今のうちに。少しでも遠くへ。見つかる前に。心臓が、これ以上ないほど、激しく鳴っている。手のひらは、汗で、じっとりと湿っていた。一歩、踏み出すごとに、足裏で、地面の感触を、確かめる。枯れ枝はないか。落ち葉はないか。音を立てる、何かは。──慎重に。慎重に。死にゲーの、隠密ステージを、進むみたいに。見つかったら、ゲームオーバー。けれど、ここには、リトライボタンは、ない。そう、思っていた。このときは、まだ。
一歩。二歩。慎重に、足裏で地面を探りながら。──三歩目で、踵が、小石を踏んだ。
からん、と、乾いた音が、岩場に転がった。
ぴたり、と、男たちの会話が止む。革鎧の男が、ゆっくりと、こちらを振り返るのが、岩の隙間から見えた。フードの下から覗く、もう一人の視線も、まっすぐに、俺の隠れた岩へと向けられる。
「──そこにいるのは、誰だ」
革鎧の男の声が、岩のすぐ向こうから、響いた。じゃり、と、小石を踏む音。確実に、近づいてくる。心臓が、喉から、飛び出しそうだった。背中を、冷たい汗が、つたう。──どうする。出るか。逃げるか。出れば、「生死は問わず」の手に、かかるかもしれない。逃げれば、馬に、追いつかれる。どちらも、分が悪い。最悪の二択。けれど、考えている時間は、ない。足音は、もう、岩の、すぐ裏まで。
俺は、奥歯を、ぎりっと、噛んだ。せめて、少しでも、勝率の高いほうを。──逃げる。それしか、ない。崖際の藪まで、走れば、馬は、入ってこられない。そこから先は、徒歩の勝負だ。可能性は、低い。低いが、ゼロでは、ない。やるしか、ない。俺は、地面を蹴る、その態勢を、そっと、整えた。
異世界での、最初の朝。記念すべき第一声を、俺は、賞金首として、岩陰で聞いた。難易度設定、やっぱり、間違っている。──次の瞬間、俺は、地を蹴った。背後で、鋭い抜刀の音。「追え! 逃がすな!」という、怒号。そして、地を打つ馬の蹄が、いっせいに、こちらへ、向き直った。




