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完璧なクレーム対応

国家予算三億円の『聖母コーヒー(微糖)』がクランに常備されるようになってから、数日が経った。


キンキンに冷えた缶コーヒーを喉に流し込みながら、俺はクランの豪華なリビングのソファで、ようやく訪れた穏やかな時間を満喫していた。


だが、世間ネットはまったく穏やかではなかった。


総理大臣の直面、国家予算の投入、そして政府専用ヘリの飛来。


ここ第7ナナクのクランに『前代未聞の、女を人として扱う異常な男様がいる』という噂は、ついに他の特区――現地の傲慢な男たちが支配するエリアにまで届いてしまったらしい。


ドガァン!!


突如、クランの強固な正面玄関が、不作法に蹴り開けられる凄まじい音が響いた。


「おい!! 第7区の『聖母』とかいうふざけた男はどいつだぁっ!?」


リビングに怒鳴り込んできたのは、派手なブランド物の毛皮を羽織り、宝石をこれでもかと指に嵌めた、いかにも「現地の甘やかされた男」という風貌の若者だった。年齢は二十歳そこそこだろうか。


彼の後ろには、怯えた表情で行列を作る、武装した専属メイドたちが十数人も控えている。


「あ、貴方は第4区のクラン公認男様、一ノいちのみやレイ様……っ!? なぜ我がクランに無断で……っ!」


即座に立ち塞がったツグミが、鋭い眼光で男を睨みつける。


背後では怜華さんが静かに腰の警棒に手をかけていた。国が滅びかねない一触即発の事態だ。


ネットの掲示板で見たことがある。一ノ宮レイ。


「気に入らない飯はメイドの顔面に投げつける」「自分の機嫌が悪い日は専属メイドを全員全裸で庭に正座させる」という、この世界の歪んだ男尊女尊を地で行く、本物の『猛獣』だ。


レイは、ソファに座って缶コーヒーを持っている俺を見つけると、不愉快そうに鼻を鳴らした。


「チッ、お前が噂の『ひじり』か! 女どもに『いつもありがとう』だぁ? 料理が美味いと褒め称えるだぁ!? お前、男の風上にも置けない媚び売り野郎だな! 女なんてのはなぁ、俺たちの遺伝子を分けてもらうために、床に落ちた飯を泣きながら食うだけの道具なんだよ! お前みたいな奴がいるから、女どもが調子に乗るんだ!」


レイの背後にいる彼自身のメイドたちが、恐怖でガタガタと震えながら、絶望に満ちた目で床を見つめている。いつもの理不尽な暴力が始まるのを恐れているのだ。


(……あー。いるわ、こういう奴)


前世のホテルマン時代、そして派遣のデパ地下時代。


自分のプライドを満たすためだけに、理不尽な大声を張り上げ、立場の弱いスタッフを怒鳴り散らす『超弩級の悪質クレーマー』


現地の女性たちからすれば、彼は国に保護された『触れてはならない神(猛獣)』かもしれない。


だが、前世で数々の修羅場を潜り抜けてきた俺からすれば、ただの『マニュアル通りの対応で一発で沈む、典型的な寂しいクレーマー』に過ぎない。


俺はゆっくりとソファから立ち上がると、前世のスイッチをパチリと入れた。


背筋を限界まで美しく伸ばし、両手を前で自然に重ねる。


顔には、1ミリの綻びもない、相手を完璧に包み込みつつも絶対に内側へ踏み込ませない【極上の微笑(プロの接客スマイル)】を貼り付けた。


「――貴重なご意見、誠にありがとうございます」


俺は、鈴の音のように澄んだ、しかし一切の動揺を感じさせない完璧な発声で、レイに向かって深々と頭を下げた。角度は美しい45度。お辞儀の教科書そのものだ。


「は……? 貴重な、ご意見……?」


怒鳴り散らせば、怯えるか、あるいは男同士の掴み合いの喧嘩(この世界では国家存亡の危機)になると思っていたレイが、呆然と固まる。


「はい。一ノ宮様のお言葉、私どもの至らぬ点を見つめ直す、大変有益なご指摘として重く受け止めております。一ノ宮様ほどの高貴なお方が、わざわざ当第7区まで足を運び、私どもの教育方針(接客)について熱心にご指導をくださるなど、身に余る光栄にございます」


俺は顔を上げ、さらに微笑みを深くした。


悪質クレーマー対応の基本その一


『相手の怒りのボルテージを、こちらの圧倒的な丁寧さで空回りさせる』


「な、何を言ってるんだお前は……! 俺は説教をしに来たんだよ!」


「ええ、重々承知いたしております。一ノ宮様の『女は道具であり、厳しく飼い慣らすべき』という独自の管理哲学、大変強い信念を感じる素晴らしいお考えでございます。一ノ宮様のクランの皆様は、さぞかし張り詰めた緊張感の中で、一分一秒の油断もなく、一ノ宮様という『神』のお世話に命を燃やしておられるのでしょう。その統率力、一朝一夕で真似できるものではございません。心より敬服いたします」


基本その二


『相手の歪んだ自尊心をこれでもかと肯定し、おだて上げ、世界の中心に祭り上げる。ただし、目は一切笑わない』


「そ、そうだろう! 俺のクランの女どもは、俺が一睨みすれば全員這いつくばるからな!」


レイは一瞬、得意げに胸を張った。


だが、俺の「完璧すぎる社会性の眼差し」に見つめられているうちに、彼の顔から徐々に血の気が引いていく。


なぜなら、俺の態度は「恐怖」で従っているのではない。


まるで、駄々をこねる幼児を優しくあやす聖母のような、あるいは、檻の中で暴れる珍獣を憐れむ調教師のような、圧倒的な『格の違い(精神的優位)』から来る丁寧さだからだ。


「それに比べ、私などはまだまだ未熟者でございまして」


俺はそっと、後ろに控える怜華さんとツグミに視線を送った。


「私は小心者ゆえ、彼女たちが作ってくれる料理に毒が入っていないか、毎日怯えているのです。ですから、少しでも彼女たちの機嫌を損ねぬよう、『いつも美味しいご飯をありがとう、無理しないでね』と、必死に媚びを売る(接客する)ことしかできない、情けない男に過ぎません。一ノ宮様のように、メイドたちを暴力で支配するほどの『強靭な精神力』は、私には到底持ち合わせておらんのです」


「あ……」


レイの顔が、今度は真っ青になった。


ひじりは今、とんでもないことを言った。


『俺は彼女たちを信頼し、感謝し、愛しているから、優しくしている。

だが、お前(一ノ宮)は女たちが怖くて、裏切られるのが怯えちゃうから、暴力や傲慢さでしか自分を保てないんだね』と


前世の嫌味マインドを、極上の丁寧さというオブラートで包み込んで、レイの心臓に直接ナイフを突き刺したのだ。


その瞬間、レイの後ろにいた第4区の専属メイドたちの空気が、ガラリと変わった。


(な、何このお方……)


(一ノ宮様の、あの聞くに堪えない暴言を、すべて『高貴なご意見』として笑顔で受け流した……)


(それどころか、ご自身を『未熟者』と謙遜しながら、私たちの仕事への感謝を口にされている……)


メイドたちの一人が、胸を押さえてハッと息を呑んだ。


彼女たちの目から見れば、目の前にいるひじりは、理不尽な暴力を振るう自分たちの主人(猛獣)とは次元が違う、【凍りついた世界を優しく包み込む、本物の聖母(絶対強者)】にしか見えなかった。


「おい、お前たち……何を突っ立っている! この媚び売り野郎を睨みつけろ!」


レイが焦って後ろのメイドたちに命令する。


しかし、彼女たちの足は一歩も動かない。それどころか、彼女たちの視線は、レイではなく、俺の足元へと向けられていた。


「――あ、申し訳ございません。遠路はるばるお越しいただいたのに、お立ち話のままでは失礼にあたりますね」


俺は、レイのメイドたちが、長時間の緊張と恐怖で足元をガタガタと震わせているのを見逃さなかった。


俺は一歩前に出ると、レイの前にいる先頭のメイドの手を、前世の高級ホテルマン仕込みの流麗な所作で、そっと優しく包み込んだ。


「遠いところを、重い荷物を持って歩いてこられたのでしょう。さぞお疲れのことと存じます。……ツグミちゃん、一ノ宮様のご一行に、冷たい『聖母コーヒー』と、お座りいただける椅子をすぐに用意してあげてください」


「は、はいっ! ただちに!」


ツグミが弾かれたように動き出す。


「ひっ……あ、ああ……っ」


手を握られたレイのメイドは、生まれて初めて「男様から直接、体調を気遣われ、人間として優しく触れられた」という衝撃のあまり、頭が真っ白になり、その場に崩れ落ちるように涙を流した。


「聖様……っ! ああ、聖様……っ!」


「なんてお優しいお方なの……っ!」


後ろにいた他のメイドたちも、次々とその場に泣き崩れ、手を合わせて俺を拝み始める。


彼女たちの (忠誠心)のベクトルは、一瞬にして、暴力支配の主人レイから、自分たちを救済してくれた聖母ひじりへと、完全に寝返ってしまった。


「な、なんだこれは……! おい! お前たち、俺のメイドだろ!? なんでそいつを拝んでるんだよ!?」


レイがパニックになって叫ぶが、もう遅い。


クレーマー対応の基本その三。『クレーマーの周囲にいる人間(味方)を、こちらの誠意で先に味方につけ、クレーマーを完全に孤立させる』


「一ノ宮様」


俺は、涙を流すメイドたちを背中に隠すようにして、レイに最後のトドメ(微笑み)を向けた。


「せっかくの貴重なご指導、当クランの怜華(元軍・情報統括官)が、一文字も漏らさずしっかりと【録音・記録】させていただきました。一ノ宮様の素晴らしい管理哲学は、のちほど私から、至条総理大臣へ『第4区の先進的な事例』として、直接ご報告させていただきますね」


「そ、総理……っ!?」


レイの顔が、今度は土気色になった。


一国の総理を動かす男。そのバックボーンの重さに、ようやく現地の甘やかされたガキが気づいたのだ。


「あ、あ、あああ……っ! も、もういい! 帰るぞ! おい、帰るんだ!!」


レイは、プライドも威厳も粉々に粉砕され、半泣きになりながら、開け放たれた玄関から文字通り脱兎のごとく逃げ出していった。

しかし、彼の専属メイドたちは、誰も彼を追おうとしない。全員が、俺の足元に跪いたまま、うっとりとした熱い視線をこちらに向けていた。


「あの、聖様……。一ノ宮様のメイドの方々が、『もう4区には戻りたくない、ここで聖母様の奴隷として一生床を磨かせてほしい』と懇願しているのですが……」


怜華さんが、困り顔(しかし目は完全にひじりへの狂信で輝いている)で尋ねてくる。


「いや、他区のクランの職員をそのまま引き取るのは労働基準法的にどうなの……?」


前世の小市民マインドで突っ込む俺だったが、地元の掲示板は、この日二度目の大爆発を起こしていた。


『【超速報】第4区のクソ傲慢男・一ノ宮レイ、ナナクの聖母様に喧嘩を売るも、聖母様の「圧倒的丁寧接客(覇気)」により精神崩壊。メイド部隊を全員寝取られて敗走』


『>>1 マジかよ一ノ宮ってあの凶悪な猛獣だろ!?』


『目撃したクラン職員だけど、聖母様が一言「貴重なご意見ありがとうございます(微笑)」って言った瞬間、一ノ宮のメイドが全員ガチ泣きして聖母の足元に跪いてた。マジで宗教画だったわ』


『傲慢な暴力を、極上の慈愛と法律(総理)で完封する聖母様、マジでエグい。怒らせたら国が消える』


俺はただ、前世のテンプレ通りのクレーマー対応をしただけなのだが、この世界における『聖母』の絶対的な戦闘力は、またしても勘違いの斜め上へと跳ね上がっていくのだった。

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