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国家予算三億円の缶コーヒー

「――本当に来ちゃったよ」


俺は、クランの広大な庭の芝生の上で、呆然と上空を見上げていた。


五月の青空を切り裂くようにして現れたのは、重厚な黒塗りの政府専用ヘリコプターだ。


バリバリと激しいローター音を響かせながら、ヘリは正確に庭の中央へと着陸した。


凄まじい風圧に髪を乱されながらも、怜華さんとツグミは「おお……!」と感動に目を輝かせて、深く頭を下げて迎え入れている。


ヘリのハッチが開くと、中から出てきたのは、白いタキシードを着た初老の女性を筆頭とする、異様なオーラを放つ女性10人。


その後ろからは、金属加工の作業着を着た、美人さんたちなんだがたぶん技術者であろう人たちが、厳重なアタッシュケースを抱えて続いてくる。


「聖様、お待たせいたしました」


怜華さんが、誇らしげに胸を張って俺に説明する。


「あちらに並ぶ10名が、我が国のコーヒー界の頂点に君臨する『国家特級バリスタ』の方々です。


そして後ろの技術者たちは、国内シェアの九割を握る大手飲料容器メーカーの、製缶技術の権威。


……至条総理より『聖様のご記憶にある“かんこーひー”の味と器を、完全に再現せよ』との厳命を受け、極秘予算【三億円】を投入して組織された、国家最高機密のプロジェクトチームにございます」


三億円。


前世の感覚からすれば、缶コーヒー一本のために動かす金額としては狂気の沙汰だ。


だが、この世界の「成人男性の生存率が1万分の1」であり、その中でも国家最高保護対象に指定された俺のためなら、総理大臣が「機密費」からポイと動かせる、極めてリアルで現実的な大金でもあった。


バリスタたちのリーダーとおぼしき初老の女性が、俺の前でパッと片膝をついた。


「白瀬聖様。お初にお目にかかります、バリスタチーム統括の東郷とうごうです。……至条総理より、聖様が求めておられる『未知の聖水』の情報を伺った時、我ら一同、己の無知を恥じ入るばかりでした。コーヒーを……金属の筒(缶)に閉じ込め、いつでも均一な味で提供する、などという思想が、前世の聖職者の世界には存在したのですね……!」


東郷さんの目は、ガチの探求者特有のギラギラとした光を放っていた。


「いや、ただの自販機の缶コーヒーなんですけどね……。130円くらいの」


「130円……!? そんな、神の雫のような技術を、一般の民がそんな安価で!? なんという慈愛に満ちた世界……! 我々は聖様から頂いた『少し甘くて、少し苦く、ミルクのコクがありつつも、後味はどこか安っぽい』という、あまりにも高度なパラドックスの神託オーダーを解き明かすため、三日三晩不眠不休でブレンドを繰り返しました!」


彼らが差し出したアタッシュケースが、カチャリと開けられる。


中には、冷却装置に守られた、見覚えのある「サイズ感」の金属製の缶が収められていた。


「味だけではございません。聖様が仰った『プルタブを引き抜く時の、パキッ、プシューという、あの心地よい官能的な音』。これを再現するため、我が国の製缶技術の権威たちが、缶の厚みをミクロン単位で調整し、内部の窒素圧を極限まで計算いたしました。……どうぞ、お改めください!」


東郷さんが、手袋をはめた手で、恭しく一本の缶コーヒーを俺に捧げる。


缶のデザインは、奇をてらわないシンプルなエメラルドグリーン。


そこには金色の文字で、威風堂々とこう印字されていた。


『至高の聖母コーヒー・微糖』


(……ネーミングセンスだけは、この世界の限界オタクっぷりが隠せてないな)


俺は苦笑しつつも、懐かしいアルミの缶を手に取った。


指先に伝わる、ひんやりとした金属の質感。前世の派遣時代、冬の寒い日や、夏のうだるような現場の休憩時間に、いつも自販機でお世話になっていた「あの相棒」の感触そのものだ。


人差し指をプルタブにかける。


バリスタ10人、技術者たち、そして怜華さんとツグミが、まるで爆弾の解体作業でも見守るかのように、生唾を飲んで俺の手元を凝視していた。


カチッ……パキッ、プシュー。


静かな庭に、小気味よい音が響き渡る。


完璧だ。前世で1万回は聞いた、あの缶コーヒーが開く時の音そのものだった。


「おおお……っ!」

技術者たちが、お互いに肩を抱き合って涙を流している。この音を出すためだけに、数千万円の予算と血の滲むようなプレス技術の実験が繰り返されたのだろう。


俺は缶を傾け、中身を口に含んだ。


「――っ」


口の中に広がったのは、高級なアラビカ種の豆の華やかな香り……ではない。


少しチープで、だけどガツンと脳に染みる砂糖の甘さと、ミルクのコク、そして後味に残る、どこか懐かしい缶特有のほのかな金属感。


高級すぎない。だけど、だからこそ美味い。


五臓六腑に染み渡る、前世の「130円の微糖コーヒー」の味が、そこには完全に再現されていた。


「……美味い。完璧です。俺が求めていたのは、まさにこの味だよ」


俺は缶から口を離し、心からの、前世の「最優秀接客スマイル」を彼らに向けた。


「東郷さん、技術者の皆さん。俺の我が儘のために、素晴らしいお仕事をしてくださって、本当にありがとうございました。最高のご褒美です」


その瞬間、庭の空気が完全に凍りついた。


「あ……あ、あ……」


東郷さんが、胸を押さえたまま、ガタガタと崩れ落ちるように地面に膝をついた。他のバリスタたちも、顔を真っ赤にして、熱を出したようにはあはあと荒い息を吐き始めている。


「技術を……私たちの職人としてのプライドを、これほどまでに、真っ直ぐに評価してくださるなんて……っ! 普段の男様であれば、『私の口に合うのは当然だ。もっと持ってこい』と、缶を投げつけるか、私たちのことなど道具としか見ないのに……っ!」


技術者の一人が、地面に額を擦り付けんばかりに号泣した。


「我が一族は……今日、救われました! 聖母様から直接、感謝の御言葉をいただいた……! 拝領した三億円などすべて国庫に返上し、生涯無償で、聖様のために缶を叩き続ける所存です!!」


「いや、お金はちゃんと受け取って!?」


この世界の女性たちは、本当に「一人の人間として、その仕事を普通にリスペクトされる」という経験に飢えすぎている。


国家予算3億円のビジネスとして、完璧な「猛獣の餌」を作るつもりでプロの仕事を完遂した彼女たちは、俺の「普通のお礼」という名の精神攻撃(全肯定)によって、一瞬で防壁を消し飛ばされ、生涯を誓う狂信的なガチ勢へと塗り替えられてしまった。


「聖様……っ、なんという美しい光景でしょう。やはり、聖様は人の心を救うために現れた神……」


部屋の隅(というかヘリの横)では、怜華さんとツグミが手を合わせて拝んでいる。


俺は、手の中の『聖母コーヒー』を見つめながら、そっと遠い目をした。

ただ、前世の休憩時間の味が恋しくて、普通に「美味い、ありがとう」と言っただけなのに。


ヘリが去った後、地元のネット掲示板は、案の定『ナナクのクランの庭に政府専用ヘリが着陸し、何かを空輸していった件』で大爆発していた。


『【速報】ナナクの聖母様、ついに国家予算を動かして「謎の緑色の円柱(缶)」を召喚。政府の特権階級が庭で全員泣き崩れて跪いていた模様』


『>>1 マジかよ。国費3億が動いたって噂は本当だったんだな……』


『目撃者だけど、総理お抱えの特級バリスタたちが、帰りのヘリの中で「私たちは、本当の神に出会ってしまった……」ってガチ泣きしながら珈琲豆拝んでたぞ』


『【結論】我が第7区の男様、ただの生身の神。逆らう者は国家が滅ぼす』


俺の「130円の癒やし」は、国家の技術の結晶となり、世界の信仰をさらに強固なものへと変えてしまっていた。

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― 新着の感想 ―
初老の男性がこんなくそ丁寧な上に働いているならそっちが聖母扱いされるんじゃないの? なんで男性が男性に感動しているのかも意味不明。
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