麗人と聖母と本物のエスコート
「……うん、やっぱりこうなるよね」
自室の窓から裏庭を見下ろした俺は、引きつった笑いを浮かべるしかなかった。
そこでは、ツグミが「聖母専用チキン開発部隊」と書かれた腕章を巻き、白衣を着たクランの料理長と一緒になって、フライヤーの温度について熱い激論を交わしていた。
廊下からは、怜華さんが業者に「油の品種は……いえ、最高級の米油を!」と電話で指示を飛ばす声が響いてくる。
屋敷の中は、俺の不用意な一言のせいで空前の「チキン狂騒曲」の真っ只中だった。
(……ありがたい。ありがたいんだけど、違うんだ)
俺が食べたいのは、あの場にそぐわないチキンと一緒に食べる、油まみれの『フライドポテト』なのだ。
だが、今のクランの熱量を見るに、ここで「ポテトも」なんて言ったら、今度は北海道のジャガイモ農家を国家規模で買収し兼ねない。
(よし。みんながチキンの研究に没頭している今こそ、最大のチャンスだ)
俺は手早く、昨日とは違う地味な黒のパーカーに着替えた。フードを深く被り、今度は髪を少し横に流して、顔のラインをさらに隠す。
昨日の反省を活かし、ポケットには予備のマスクも突っ込んだ。
ツグミがチキンの試食に夢中になっている隙を突き、俺は再び勝手口から音もなく脱出した。
二日連続の「お忍び」である。
五月の風を浴びながら、俺はクランから少し離れた、第7区でも賑やかな中央商業エリアの通りへと足を向けた。マート・セブンは流石に警戒されている可能性が高い。狙うは、少し遠くにあるファストフード店だ。
しばらく歩いていると、前方に異様な人だかりができているのが見えた。
「キャーッ! 皇様よ! 今日もなんてお美しいの……っ!」
「こっち見て! お願い、一言だけでいいから罵ってぇぇ!」
黄色い悲鳴というよりは、もはや地鳴りのような歓声。
人だかりの中心にいたのは、一人の女性だった。
仕立てのいい真っ白なスーツを着こなし、輝くような金髪をハーフアップにした、宝塚のトップスターをさらに神格化させたような超絶イケメン――否、この世界の言葉で言うところの『男装女子(麗人)』だった。
彼女の名前は皇。この界隈では有名な、女性たちのアイドル的存在らしい。
(へえ、本物の男装女子か。やっぱりクオリティ高いな……)
前世でホテルのディナーショーの裏方をやっていた身としては、彼女の「見せ方」の美しさはプロの領域だと感心する。
皇は群がるファンたちに、キザなウィンクを飛ばしながら、慣れた手つきでファンサ(ファンサービス)をこなしていた。
だが、あまりにも人が密集しすぎたせいか、一人の小柄な女子学生が、人波に押されてバランスを崩した。
「あ、きゃっ……!」
ドサリ、と派手な音がして、彼女がアスファルトの地面に転倒する。
周囲のファンたちは皇に夢中で、誰も彼女の転倒に気づかない。皇自身も、少し離れた位置にいてすぐには動けないようだった。
その瞬間、俺の体が条件反射で動いていた。
前世、ホテルのビュッフェ会場やデパ地下の通路で、高齢の顧客や小さな子供が転びそうになった時、真っ先に駆けつけてインシデントを防ぐのは、派遣労働者としての「染み付いた習性」だった。
「大丈夫ですか?」
俺は倒れた女子学生の前に膝をつき、驚かせないように極めて穏やかな声で話しかけた。
そして、前世のホテルのVIPフロアで叩き込まれた、完璧な『おもてなしの手順』を実行する。
まず、相手の目線より低くなるように屈み、安心感を与える。
次に、相手の手首ではなく、手のひらを優しく包み込むようにして支える。
最後に、相手の衣服が汚れていないかをさりげなく確認しながら、ゆっくりと引き上げる。
「痛むところはありませんか? 急に立ち上がると立ち眩みがすることもあるので、ゆっくりで大丈夫ですよ」
フードの隙間から、前世の接客最優秀賞をとった時の「全肯定スマイル」を向ける。
「あ、え、あ……は、はい……っ」
女子学生は、顔を真っ赤にしてコクコクと頷いた。怪我はなさそうだ。
「良かった。気をつけてくださいね」
俺が彼女の持っていたカバンを拾って手渡した、その時だった。
「――そこまでだ、君」
低く、しかし凛とした声が響き、俺の肩にカシリと手が置かれた。
振り向くと、いつの間にか人だかりを割って進み出てきた、白スーツの麗人――皇が、鋭い視線で俺を見下ろしていた。
皇の端正な顔には、明らかな「困惑」と「焦り」が浮かんでいた。
(あ、やべ。本物のプロの前で、素人が出しゃばりすぎたか?)
男装女子としての縄張りを荒らされた、と怒っているのかもしれない。俺はすぐに前世の「トラブル最速回避モード」に切り替え、皇に向き直って深く頭を下げた。
「出過ぎた真似をして申し訳ありません。彼女が転倒されたのが見えたので、つい体が動いてしまいました。お騒がせしてすみません」
完璧な敬語。淀みのない謝罪。
だが、皇は俺の言葉を聞いた瞬間、まるで雷に打たれたかのように硬直した。
「君……今、なんと言った?」
「え? いや、お騒がせしてすみません、と……」
皇の目が、フードの隙間から覗く俺の顔に釘付けになっている。
彼女の美しい琥珀色の瞳が、小刻みに震え始めた。
「あり得ない……。その流れるような所作、相手のプライドを傷つけない完璧なエスコート、そして……私に対する、そのあまりにも自然で、一点の傲慢さもない敬意の籠もった言葉……」
皇は自分の胸元を強く掴み、一歩、また一歩と後退りした。その顔は、みるみるうちに朱に染まっていく。
「私は今まで、数多の女性をエスコートし、男装の麗人として『完璧な男の理想』を演じてきた。だが……君は何だ? 君のその、息をするように他者を気遣う全肯定の精神は……演技などではない。魂の根底から溢れ出る、本物の……本物の『優しさ』だ……っ!」
「いや、ただの接客業の職業病なんですけど……」
「私など、足元にも及ばない……。君こそが、私たちが心の奥底で求めていた、真の、真のジェントルマン……いや、聖母……っ!」
皇がその場に片膝をつき、まるで本物の騎士が王に忠誠を誓うかのような姿勢で、俺を見上げて震えている。プロの男装女子としてのプライドが、俺の「普通の社会性」によって完全に粉砕され、限界オタクへとジョブチェンジしてしまった瞬間だった。
周りのファンたちも、皇のその姿を見て完全にパニックに陥っている。
「嘘、あの皇様が跪いた……!?」「あの黒パーカーの人、一体何者なの……!?」「っていうか、声が良すぎる……顔が半分しか見えないけど、神聖さがヤバい……っ!」
(あ、これ、昨日よりマズい流れだわ)
直感がアラートを鳴らしている。
俺は「それでは、失礼します!」とだけ言い残し、まだ膝をついている皇と、騒然とする人だかりを置き去りにして、全力でその場から逃走した。
結局、ポテトを買うことすら忘れ、命からがらクランの自室へと滑り込む。
呼吸を整え、恐る恐る情報端末を起動した。
地元のネット掲示板『第7特別保護区スレ』を開くと、そこには予想を遥かに超える地獄(天国)が広がっていた。
『【歴史的瞬間】あの男装麗人・皇様が、街頭で謎の「聖母系黒パーカー」に完全敗北して跪く画像が流出!!!!!』
『>>1 マジじゃんこれええええ!? 皇様がガチの恋する乙女の顔になってる!?』
『目撃者だけど、黒パーカーの人のエスコート、マジで次元が違った。転んだ子を助ける時の手つきがロイヤル。しかも皇様に対して超美麗な敬語で微笑みかけてた』
『待って、昨日のマート・セブンの「グレーのパーカー」と特徴が一致しすぎじゃない?』
『間違いない、我が第7区に、すべての女性を無条件で救済する「お忍びの聖母」が実在する……っ!!』
『【朗報】我がナナク、実質エルサレム(聖地)になる』
画面の向こうで、地元の女子たちが完全に狂喜乱舞していた。
さらに悪いことに、皇のアカウントが「あのお方の御名を、どなたかご存知ないですか……。私は、真の光に出会ってしまった……」と、ガチのポエムを投稿して大拡散されている。
俺は端末をベッドに放り投げ、両手で顔を覆った。
「ただ……目の前で転んだ人を、普通に助けただけなんだけどなぁ……」
その時、コンコン、と部屋のドアがノックされた。
「聖様、お待たせいたしました! 料理長が血の滲むような特訓の末、マート・セブンの味を100倍に美味しく昇華した『究極の聖母チキン・試作一号』が完成いたしました!」
ツグミの弾んだ声が聞こえてくる。
どうやら俺の知らないところで、世界も、クランも、ものすごいスピードで「聖母(俺)」を中心に回り始めているようだった。
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