絶対皇帝の政治的停戦(※一晩寝かせた方が美味いだけ)
「――報告します! 大手町一帯に充満した謎の『高エネルギーを内包する薫香』の発生源を特定! 一ノ宮総本山の中庭です!」
土曜日の午前、警察庁警備局の秘密作戦室。
モニターに映し出された総本山の熱源データを前に、国家最高幹部の一人である高級官僚の女性が、鋭い目つきで机を叩いた。
「やはり、一ノ宮ひじり新総帥か……! 23区のロジ(物流網)を完全に掌握した翌日に、間髪入れずにこれほど広範囲の精神干渉魔法を放ってくるとは。この香りを嗅いだ我が局の精鋭たちが、全員『なんだか急に、実家に帰って美味いものでも食べてのんびりしたくなってきた……』と戦意を喪失しかけているのよ!?」
「長官、どうされますか!? このままでは警備局の機能が麻痺します!」
「……やむを得ない。私自らが総本山へ赴き、新総帥の『真意』を確かめる。手土産に、最高級のブランド鴨肉を用意しなさい!」
――そんな国家規模のパニックが起きているとは露知らず。
当の一ノ宮ひじりは、総本山の最奥にある、エアコンの効いた快適な総帥室のベッドの上で、ゴロゴロとスマホをいじっていた。
「あー、お布団最高。昨日作ったスモークチーズ、今は冷蔵庫の中でホイルに包まれてじっくり寝てる頃だな。燻製はさ、出来立ては煙のトゲがあって酸っぱいんだよな。一晩置いて、煙を落ち着かせてからが本番なんだよ……。あぁ、早く明日にならないかなぁ。明日の夜はチーズ祭りだ」
前世のデパ地下で仕込んだ「おつまみの基礎知識」を思い浮かべ、よだれを垂らしそうになっていた、その時だった。
バァン!! と勢いよくドアが開く。
「総帥! 緊急事態です! 警察庁警備局の最高長官が、特務隊を引き連れて総本山の門前にて『総帥への謁見』を求めて直談判に押し寄せて参りました!」
カレンさんが悲壮な覚悟を湛えた顔で飛び込んできた。
「すでにジークリンデが抜刀して門前で睨み合っていますが、敵は『この香りをこれ以上撒き散らされては国家が崩壊する、一ノ宮の要求を聞く用意がある』と、完全に戦意を喪失した顔で特上の鴨肉を差し出してきており――」
(ひぇぇぇぇぇ!? け、警察庁長官ァ!? なんで国家のトップが俺のところに怒鳴り込んでくるんだよ! 捕まる! 不法占拠とか、闇のカレー販売とかで俺は国家権力に逮捕されるんだ!!)
プレッシャーで心臓が口から飛び出そうだった。
断れば今すぐ特殊部隊が突入してくるかもしれない。
俺はガタガタと震える膝を必死に隠し、いつものように「フードを深く被り、白湯の湯気で顔を隠す」という小市民の防御姿勢(※周囲には絶対強者の風格に見える)をとりながら、応接室へと向かった。
応接室の重厚なソファに腰掛けていたのは、数々の修羅場をくぐり抜けてきたであろう、冷徹な目の女性長官だった。
だが、その長官も、フードの奥から一切の感情を読ませない目で自分を見つめてくるひじり君と対面した瞬間、一気に冷や汗を流した。
(これが、あの全国をバズで支配した一ノ宮ひじり……! なんという圧倒的な静寂。まるで、こちらの出方をすべて見透かしているかのような底知れなさだわ……っ!)
長官はゴクリと唾を飲み込み、手土産の木箱を差し出した。
「……一ノ宮総帥。単刀直入に申し上げます。今朝、貴方が大手町一帯に響かせた『黄金の煙』……あれは、我が政府に対する『これ以上の介入をすれば、国家の精神を根底から調教する』という警告、そう受け取ってよろしいですね?」
(は? 黄金の煙? ああ、朝のスモークチーズの匂いが換気扇からオフィス街に漏れちゃったのか!? げ、芸能人とかオフィスビルから『臭い』ってクレーム入ったやつ!? デパ地下でもフードコートのダクトの匂いで近隣トラブルあったわ!)
ひじり君の脳内に、前世の苦いクレーマー対応の記憶がフラッシュバックする。
ここは下手な言い訳をせず、誠心誠意、プロの「時間稼ぎ(クレーム対応)」で穏便に穏便に、停戦を申し入れるしかない。
俺は白湯をすっと置き、極めて冷静な、低い声で告げた。
「……長官。焦る必要はありません。あの『煙』には、まだ少しトゲがある」
「――っ!? トゲ……、だと……!?」
長官の背中に電流が走る。
(あれほどの、我が局の精鋭を骨抜きにした香りが、まだ『トゲがある(未完成)』だと言うの……!?)
「ええ。出来立ての煙は、少し酸味が強いのです。ですから……私は今、あれを『一晩、暗闇の中で眠らせて』います。煙の角が取れ、完璧な【調律】が完了するのは……明日の、夜(19:00)です」
「明日の、夜……!!」
長官は驚愕のあまり、ソファから立ち上がりそうになった。
ひじり君が言っているのは、ただの「チーズを一晩冷蔵庫で寝かせたら、日曜の夜19:00に一番美味しくなるからそれまで待ってね」という、純粋なおつまみの熟成時間の話だ。
だが、国家最高幹部の脳内では、それが恐ろしい【カウントダウン】へと超解釈された。
(なんという冷徹な猶予の提示……! 『明日の夜19:00までに、我が政府が一ノ宮への完全服従を誓わなければ、トゲの取れた【完璧な精神消滅の煙】を日本全土に解き放つ』という、タイムリミット付きの最終宣告か……!!)
「……分かりました。一ノ宮総帥。貴方の提示した『明日の夜』という刻限、重く受け止めましょう。我が政府は、貴方の平穏な引きこもりライフを全肯定し、一切の不可侵を約束します。ですから、どうか……その『完璧な調律』の発動だけは、どうか穏便に願いたい!」
「え? あ、はい。穏便に、みんなで美味しく頂きましょう」
「くっ……! 余裕の笑みまで浮かべて……! 撤退するわよ!」
長官は「命拾いした」と言わんばかりの必死な顔で、差し出した高級鴨肉を置いて、大急ぎで部屋を飛び出していった。
残された俺は、置いていかれた最高級の鴨肉(合鴨ロース)を見つめて、ぽかんとしていた。
「え……? クレームつけに来た割には、ものすごい良い鴨肉置いてってくれたな……。これ、明日の夜、スモークチーズと一緒に炙って食べたら最高のおつまみになるんじゃね? ラッキー、明日の夜がさらに楽しみになってきたぞ!」
国家の命運をかけた24時間の停戦条約を結んだ(と勘違いされた)ひじり君は、最高のおつまみセットが偶然完成したことにガッツポーズを決め、ウキウキでお布団へと戻っていくのだった。
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