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絶対皇帝の趣味

「……いや、おかしいだろ。なんでこんなことになってるんだ?」


土曜日の早朝、午前5時。


一ノ宮総本山の裏手にある広大な中庭で、俺――白瀬しらせ ひじりは、目の前にそびえ立つ「木材の山」を見上げて呆然としていた。


山ではない。


よく見たら、すべて最高級の『燻製用サクラチップ』が詰まった麻袋だ。


それがトラック数台分、見上げるほどの高さで積み上げられている。


さらにその横には、専用の冷蔵魔導具に収められた、直径30センチはあろうかという巨大なホールチーズが100玉。


お世話係のカレンさんが、クリップボードを片手に極上の笑みを浮かべて言った。


「総帥、ご指示通り5区と11区のクランより『神聖儀式用の供物』を徴収いたしました。これで世界を調律する準備は万全です。本日はどのような布陣で臨まれますか?」


(いや、神聖儀式ってなんだよ! 俺はただ、部屋でコッソリ食べるおつまみのスモークチーズをちょっと作りたいって呟いただけなのに、なんで業者レベルの在庫が納品されてるんだよ!? 怖い! 5区と11区の女王、まじで頭おかしいだろ……!)


心の中ではプレッシャーで胃が千切れそうだった。


だが、骨の髄まで派遣労働者の悲しきサガが染み付いた俺は、目の前に「大量の高級食材」を積まれると、無意識のうちに別のスイッチが入ってしまう。


(……待てよ。このゴーダチーズとエメンタールチーズ、ものすごく質が良いな。水分量も完璧だし、何よりこのサクラチップ、じっくり自然乾燥させた一級品だぞ。デパ地下の高級燻製専門店でヘルプに入ってた時、店長が『これだけで味が化ける』って言ってた幻のチップじゃねえか……)


気付けば、俺の「元デパ地下派遣社員のプロ根性」がムクムクと鎌首をもたげていた。


引きこもりたい。お布団に帰りたい。だが、こんな最高級の食材を前にして、素人みたいな雑な調理をして台無しにするのは、食品フロアに生きた男のプライドが許さない。


「カレンさん。……やむを得ない。これほどの『覚悟(※ただの貢ぎ物)』を見せられた以上、こちらも相応の【職人の領域】で応えるのが礼儀というものだ」


「――っ! 総帥の『職人の領域』……! 直ちに特務隊を配備し、中庭を完全封鎖いたします!」


カレンさんが血相を変えて無線で指示を出し、中庭の周囲にはあっという間に武装した女性兵士たちが等間隔で直立不動の姿勢をとった。物々しすぎる。


ただの趣味の料理なのに、まるで核兵器の信管でも抜くかのような緊張感が漂っている。


だが、一度スイッチが入った俺の耳には、もう周囲の雑音は届かない。


「よし、やるか」


俺は腕まくりをし、まずは巨大なチーズの塊を包丁で均等にカットしていく。


スモークチーズ作りにおいて、最も重要なのは『温度管理』と『乾燥』だ。冷蔵庫から出したばかりのチーズは表面に結露がつく。


この水分を完璧に拭き取らなければ、煙の酸味がついて味がガタガタに落ちる。


俺は清潔なペーパーを取り出し、一切の妥協なく、完璧な手つきでチーズの水分を拭き取っていく。その手際の良さは、もはや無駄な動きが一つもない精密機械のようだった。


周囲で見守るジークリンデやカレンが、その手元を見て息を呑む。


(な、なんという無駄のない洗練された手捌き……! まるで空間そのものの魔力を、ミリ単位で拭い去っているかのような神聖な儀礼……!)


もちろん、私はただ水分を拭いているだけだ。


「次に、風通しの良い日陰で表面を乾燥させる。ここを焦る奴は、一生本物の燻製には辿り着けない」


俺は中庭の魔導具(乾燥機)を絶妙な弱風に設定し、チーズの表面を乾かしていく。


その間に、特製の大型ステンレス製スモーカー(※総本山の厨房から引っ張り出してきたプロ用)に、サクラチップをセット。今回は深みを持たせるために、貢ぎ物の中にあったピート(泥炭)の粉末を前世の黄金比率でほんの少しブレンドする。


バーナーでチップに火をつけると、ゆっくりと、薄く美しい、琥珀色の煙が立ち上り始めた。


「よし、煙が落ち着いた。チーズを投入する。温度は絶対に30度以上に上げるな。30度を超えたらチーズが溶けて網の底に落ちる。常に25度前後の【冷燻れいくん】を維持しろ」


「れ、冷燻……! 限界の低温で、煙の概念だけを物質に定着させるという、失われた古代魔術……っ!」

ジークリンデがノートに狂ったようにメモを取り始める。


違う、ただの温度管理だ。溶けたら片付けが面倒くさいから必死なだけである。


ここからが本当の戦いだ。俺はスモーカーの前にパイプ椅子を置き、どっかと腰を下ろした。


2時間、ただひたすらに煙の出具合と温度計を監視する。


煙が薄くなればチップを足し、温度が上がりそうになれば空気穴を微調整する。


デパ地下時代、頑固な燻製職人のオヤジに「煙と会話しろ」と怒鳴られながら叩き込まれた技術。


俺は完全にトランス状態に入り、ただ無心で、職人の目でスモーカーを見つめ続けた。


初夏の朝日が、中庭で煙を見つめる俺の横顔を照らす。


フードを深く被り、一切の私欲を捨てて、ただ「完璧なおつまみ」のためだけに全神経を研ぎ澄ますその姿は、周囲の女性たちの目には、世界の運命を天秤にかけて瞑想する【唯一神】のように映っていた。


「……信じられない。あれほど強大な23区の権力を手に入れた翌日に、夜明け前からこんなにも過酷な『硝煙の瞑想』に身を捧げられるなんて。ひじり様は、本当にこの世界を裏から救うために現れた聖母なのだわ……っ!」


カレンたちはあまりの尊さに過呼吸を起こし、壁に寄りかかりながら限界突破(尊死)寸前で涙を流していた。


そして2時間後。


「よし、開けるぞ」


パカッ、とスモーカーの蓋を開けた瞬間。


中庭に、これまでの人類の歴史上、誰も嗅いだことのない『狂おしいほどに芳醇で、重厚な木と大地の香ばしい黄金の煙』が爆発的に広がった。


それは、ただの料理の匂いではない。


嗅いだ者の脳の報酬系を一瞬でバグらせる、究極の【おつまみテロ】の幕開けだった。


「うおおおお! 完璧だ! 見てみろこの、一切のムラがない美しい飴色のコーティング……! 煙が芯まで完璧に入り込んでるぞ!!」


俺はアルミホイルを広げ、焼き上がった(※燻された)最高のスモークチーズを丁寧に包んでいく。


「よし、これを冷蔵庫で一晩寝かせて、煙のトゲを落ち着かせれば……『俺専用・最強の贅沢おつまみスモークチーズ』の完成だ! 早く明日にならないかなぁ!」


ひじり君は、自分が放ったその「黄金の煙」が、総本山の外壁を越えて、大手町のビジネス街全体にまで漂い、国家機関の鼻を狂わせ始めていることなど、露知らず。

明日の実食を楽しみにしながら、満足感に包まれてお布団へとダイブするのだった。

次回は本日(土曜日)の夜19:00更新予定!

謎の「聖なる煙」に引き寄せられた国家の犬たちと、ひじり君のすれ違いおつまみ交渉が始まります(笑)。


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