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現実逃避のスパイスカレー(前編)

――頼むから、もう俺を放っておいてくれ。


火曜日、午後15時


 一ノ宮総本山のプロ仕様の厨房で、俺――ひじりは、涙目で大量の玉ねぎをみじん切りにしていた。


ネットを見たら『ひじり総帥、物流を掌握して全国を調教』とか書かれているし、クランの門前には「2区の女王」だの「5区の女王」だのといった、物騒な肩書きの武闘派お姉様たちが高級車を連ねて謁見の列を作っているらしい。


 本家をワンパンで消し飛ばした俺の「冷徹な実力」とやらを、その目で見極めに来たそうだ。


行くわけがない。


俺はただの元デパ地下派遣社員だぞ。


そんなゴリゴリのキャリアウーマンたちと対峙したら、緊張でその場でお腹を下す自信がある。


というわけで、俺はカレンさんたちに「ちょっと次の『国家戦略(※ただの現実逃避)』の仕込みに入るので、部屋から一歩も出ません。謁見は全部引き延ばしてください」と言い残し、厨房に引きこもった。


 こういう底なしの恐怖から逃れるには、あの趣味しかない。


「心を無にするんだ……。玉ねぎを、飴色になるまで、ただひたすらに炒めるんだ……」


俺が取り出したのは、昨日全国から届いた「貢ぎ物」の中からコッソリ掠め取ってきた、大量のスパイスの瓶。クランの倉庫には、およそ一般家庭では見かけないような最高級のホールスパイスが揃っていた。


熱したお気に入りのフライパンに、多めの油を注ぐ。


 まずはスタータースパイスだ。クミンシード、カルダモン、クローブ、そしてシナモンスティックを投入。じわじわと油に熱が通り、パチパチと弾ける音とともに、厨房の中に一瞬で「エキゾチックで脳を刺激する香ばしい香り」が広がり始める。


「そうそう、この香りだよ……。前世で本部のエリアマネージャーに詰められた夜は、いつも自宅でこれをやって救われたんだ……」


スパイスの香気が油に移ったところで、山盛りのみじん切り玉ねぎを投入。


ここからは時間との戦いだ。強火で水分を飛ばし、徐々に火を弱めて、焦げ付かないように木べらでひたすら回し続ける。

 パニック寸前だった俺の脳内は、玉ねぎが黄金色から深い飴色へと変化していく美しいグラデーションによって、みるみるうちに深い静寂(トランス状態)へと導かれていった。


――その頃、総本山の豪華な応接室では、一触即発の緊迫した空気が流れていた。


「――フン、随分と勿体つけるじゃないの。18区の新総帥とやらは」


ソファに深く腰掛け、不機嫌そうに足を組んでいるのは、2区の巨大武闘派クランを率いる女王、レイラだった。


 彼女の背後には、いかにも強そうな女性護衛官たちがズラリと控えている。


「あの4区の本家を謝罪一発で特捜部に売った策士だというから、どんな恐ろしい男かと思えば、私たちを部屋に放置して『国家戦略の仕込み』ですって? 怯えてお布団の中で震えているだけじゃないのかしら?」


レイラは、地方から成り上がった若いひじりが気に入らず、今日の一面会で完全にマウントを取り、全国の主導権を奪い返そうと鼻息を荒くしていた。


 応接室の対面に座るカレン監査官は、冷徹な笑みを浮かべたまま動じない。


「レイラ殿、言葉が過ぎますよ。ひじり総帥が今、どれほど高次元の思考で、この国の未来を憂いていらっしゃるか、貴女方には想像もつかないでしょう」


「ハッ、口先だけなら何とでも――」


レイラが言いかけた、その瞬間だった。


――スゥ……。


応接室の空調の隙間から、信じられないほど濃密で、かつて嗅いだこともないような「暴力的で、官能的で、胃袋を直接鷲掴みにされるような極上のスパイスの香り」が漂ってきたのだ。


「っ……!? なん、だと……この香りは……っ!?」


レイラが思わずソファから立ち上がった。背後の護衛官たちも、一斉にハッと目を見開き、ごくりと喉を鳴らす。


 ひじりが厨房で、飴色玉ねぎにコリアンダー、ターメリック、チリペウダー、そして隠し味のトマトペーストを加え、絶妙な火加減で炒め上げた「ガチの特製カレールー(カレーペースト)」の香気。


 市販の固形ルーしか知らないこの世界の住人にとって、本物のスパイスが熱によって弾けたその香りは、防人の本能を芯から震わせる『未知の衝撃』だった。


ジークリンデが、応接室の窓の外を見つめながら、うっとりとした表情で涙を浮かべた。


「ああ……始まったか。ひじり様が、またしても我らの魂を導くための『聖なる調合スパイス』を始められた……。見てみろ、クランの周辺一帯が、総帥の放つ至高の香りで満たされていくぞ……」


「な、何よこれ……ただの料理の匂いじゃないわ……! なぜ、こんなにも胸が熱くなって、戦う活力が湧き上がってくるの……っ!?」


 レイラは、押し寄せる圧倒的な香りの情報量に、額から冷や汗を流してガタガタと震え始めた。


彼女の脳内システムは、新総帥が放った圧倒的なプレッシャー(※ただの現実逃避のカレー)によって、完全にバグを起こしていた。


(一歩も部屋から出ず、ただ『香気』を漂わせるだけで、この私と精鋭護衛官たちの戦意を根底から削ぎ落とし、胃袋と五感を完全に支配してみせた……! これが、4区の本家を滅ぼした18区の魔王の……『精神攻撃サイキック・バフ』だというの……!?)


厨房では、そんなこととは露知らず、ひじりが無心でチキンを投入していた。


「よし、あとはヨーグルトと鶏肉を入れて、弱火でじっくり煮込むだけだな! 美味いカレーになれよー」


ひじり君の現実逃避のこだわりが、他区の女王たちのプライドをまたしても跡形もなく粉砕しようとしているのだった。

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