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現実逃避のスパイスカレー(後編)

【重大なお知らせ】

実は、この『デパ地下聖母』ですが、明日の日曜日(6月7日)の夜の更新をもちまして、完結を迎えます!本日6月6日(土)は7時と19時の2話更新

明日の6月7日(日)は7時、12時、19時と一挙3話公開予定です。お楽しみに!


「――よし、完璧な仕上がりだな!」


水曜日、朝6時


 一ノ宮総本山の厨房で、俺――ひじりは、一晩じっくりと寝かせて極上のアロマを閉じ込めた大鍋の蓋を開け、満足感に浸っていた。


ヨーグルトでホロホロに柔らかくなった鶏肉。飴色玉ねぎとトマトの旨味が完全に溶け合い、表面には絶妙なスパイスの油分が美しく浮き出ている。前世のデパ地下カレー専門店をも凌駕する、俺の技術の結晶『特製本格チキンカレー』の完成だ。


(よし、これを朝飯に食べて、今日こそお布団に引きこもってゴロゴロするぞ……)


 そう思った瞬間、背後から「失礼します、総帥」と、寝不足で目を血走らせたカレン監査官が入ってきた。


「ひじり様、大変です。昨日から応接室でお待ちいただいている2区の女王レイラ殿たちが……総帥の放つ『聖なる覇気(※ただのカレーの匂い)』に一晩中当てられ続け、完全に憔悴しきっております」

「えっ!? 一晩中待ってたの!? 帰ればよかったのに!!」


俺は(ヤバい、他区の偉いお姉様を監禁したみたいになってる! 完全に営業妨害とか不当拘束で訴えられるやつだ!)と、またしても前世の社畜トラウマでパニックになった。


ここで彼女たちの怒りを鎮めなければ、総本山の看板に傷がつく。


 クレーム処理の基本は『迅速な誠意の提示』だ。今、俺の手元にある最大の誠意といえば――これしかない。


「カレンさん! すぐに特大のお皿と、炊き立てのご飯を人数分用意して! 彼女たちに、このカレーを『お詫び』として至急振る舞うんだ!!」


――その頃、応接室のレイラは、限界を迎えていた。


 一晩中、空調から流れ込んでくる「脳を狂わせるスパイスの香り」を吸わされ続けたのだ。空腹と、香りの奥にある圧倒的な情報量に、彼女のプライドはすでにズタズタだった。


「くっ……なんという生殺し……。姿を見せず、ただこの『香り』だけで私たちを飢えさせ、精神的に屈服させるというの……。18区の新総帥、どこまで冷酷な策略家なの……っ!」


そこへ、ドアが勢いよく開いた。


 入ってきたのは、お盆に乗せられた湯気立つ大皿を抱えたカレン、そしてその後ろから、申し訳なさそうにペコペコと頭を下げながら入ってきたひじりだった。


「レイラさん、本当にすみません! 一晩も放置してしまって! お近づきの印というか、お詫びと言ってはなんですが、これ、僕が作ったカレーですので、どうか怒りを静めて召し上がってください!」


ひじりは(お願いだから怒らないで、丸く収めて!!)という一心で、極上のチキンカレーをテーブルに並べた。


だが、目の前に置かれたその料理を見た瞬間、レイラと護衛官たちの全身に電流が走った。


 黄金色に輝くルー、大ぶりにカットされた柔らかな鶏肉。そして、目の前で爆発するような、カルダモンとクミンの鮮烈な香り。


「これが……新総帥の、お詫び(※宣戦布告の毒見)……。いいわ、食べてやろうじゃないの……!」


レイラは震える手でスプーンを取り、カレーとライスをすくい、口へと運んだ。


「――っッ!!!!?????」


言葉が、出なかった。


 口に入れた瞬間、まずトマトの爽やかな酸味と玉ねぎの濃密な甘みが広がり、直後、数種類のスパイスが口内で一斉に弾け飛んだ。じっくり煮込まれたチキンは噛む必要がないほどホロホロと崩れ、奥深いスパイスの辛みが、全身の血流を一瞬で爆発させる。


この世界のコンビニ弁当やチェーン店の、平坦な人工調味料の味に慣れきっていたレイラにとって、それは『味覚の天変地異』だった。


「な、何これ……美味すぎる……ッ!! 脳が、脳の細胞が一つ残らず叩き起こされるようだわ……!!」


「お、頭領! この肉、信じられないほど柔らかいです! 身体の奥から戦う活力が、まるで魔力のようなエネルギーが湧き上がってきます!!」


後ろの護衛官たちも、我慢できずにスプーンを奪い合い、大号泣しながらカレーを貪り食い始めた。彼女たちの強気な顔はどこへやら、完全に胃袋を掴まれて幼児退行したような至福の表情を浮かべている。


カレンはその様子を冷徹に見下ろし、深く感服していた。


(流石はひじり総帥。他区の武闘派たちに対し、一言の議論も交わさず、この『覇王の兵糧チキンカレー』一口で完全に胃袋と忠誠心を調教してみせたわ……。しかも『お詫び(※これがお前たちと私の圧倒的な格の違いだ)』と微笑みながら与えることで、完全に精神を支配された……!)


レイラは、皿を綺麗に平らげると、スプーンを置いてその場にカツンと膝をついた。彼女の目は、すでに恐怖ではなく、盲目的な崇拝へと変わっていた。


「……負けたわ。18区の一ノ宮ひじり総帥。高みの見物を決め込んでいた私たち2区のクランは、本日をもって、貴方様の軍門に降ります。この『聖なるカレー』を定期的に我がクランへ供給していただけるなら、2区の全戦力、いつでも総帥のために命を投げ出しましょう!」


「はえ?」


 ひじりは、トングを持ったまま固まった。


 軍門? 命を投げ出す?


 いや、これ、ただのお詫びのチキンカレー。


おかわりなら大鍋に山ほどあるから、普通に食べて帰ってほしかっただけなのだが。


「あ、いや、そんな大げさなことじゃなくて……おかわりありますから、皆さんで仲良く食べてください……」


「な……っ! この国家至宝レベルの恩恵を『仲良くおかわりしろ』だと……!? どこまで器がデカいお方なの……っ!」


 レイラは再びボロロと涙を流し、深く床に頭を伏せた。


(何が起きてるんだよぉおおおおおお!! カレーを奢ったら、なぜか2区の巨大武闘派クランが俺の私兵(社畜)になっちゃったんだけど!! 俺の引きこもりライフ、どんどん遠ざかってないか!?)


ひじり君の「完璧な保身(お詫びのカレー)」が、他区の女王のプライドを完膚なきまでに粉砕し、全国統一の覇道をさらに強固なものにしてしまうのだった。

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