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聖母の現実逃避と、神聖なる煙

――もうダメだ、この世界は狂ってる。


日曜日、朝6時。

 一ノ宮クランの広大な中庭で、俺――ひじりは、ウッドデッキに腰掛けて深くため息をついていた。


昨日、本社のエリアマネージャー(レイさん)にマニュアル通りの平謝りをしただけなのに、なぜか本社の法務部(本庁)がブチ切れて、今日これから本社への大規模なガサ入れが敢行されるらしい。


 ネットの掲示板では『聖母、ついに本家に反旗を翻す』『一ノ宮の歴史がひっくり返るぞ』と大祭り騒ぎだ。


ただクビを恐れてペコペコしただけの引きこもり店長が、どうして一晩で歴史を動かす魔王扱いされているのか。

 考えても頭がハゲそうになるだけなので、俺は考えるのをやめた。こういう時は、無心になれる「男の趣味」に限る。


「フゥ……。やっぱり、心を落ち着かせるには『燻製くんせい』だな……」


俺は、昨日1,000万の臨時収入(※カレンさんが勝手に口座に入れた貢ぎ物)からコッソリ数千円だけ使ってネット注文した、家庭用の折りたたみ式スモークウッドコンロ一式を広げた。


取り出したるは、18区のスーパーで安売りされていた豚バラ肉のブロック。


 前世の店長時代、クレーム処理で心がボロボロになった夜、俺はよく自宅のベランダで自家製ベーコンを作っていたのだ。肉にフォークで無数に穴をあけ、厳選した岩塩、黒胡椒、三温糖、そして数種類のハーブをこれでもかと擦り込んでいく。


「そうそう、この肉の繊維にスパイスが馴染んでいく感覚……。これが精神安定剤なんだよな……」


完全にトランス状態に入った俺は、肉をピチットシートで包んで水分を抜き、あらかじめ用意しておいたサクラとヒッコリーをブレンドしたスモークウッドに火をつけた。


 コンロの通気口から、モクモクと、信じられないほど芳醇で香ばしい、木の実とスパイスが混ざり合った「男のロマンの煙」が立ち上り始める。


――その時だった。


「ひ、ひじり様……!? 朝早くから、一体何を……ッ!?」


背後から、ガタガタと甲冑を震わせる音がした。


 振り返ると、昨夜から門番として一歩も動いていなかった17区最強の女騎士・ジークリンデが、限界まで目を見開いて突っ立っていた。その隣には、本庁からのガサ入れ指示で早朝から待機していた監査官のカレンもいる。


二人の視線は、俺の足元――モクモクと煙を吐き出すスモークコンロに釘付けだった。


「あ、おはようございます。ちょっと精神を落ち着かせたくて、朝の仕込み(燻製)をしてるんです。煙、煙いですかね?」


「仕込み……!? いいえ、煙いなどと滅相もない! これは……なんという神聖な、魂を揺さぶる薫香アロマだ……!」


ジークリンデが、その場にばさりと膝をついた。


 彼女たちの鼻腔を突き抜けたのは、ひじりが前世の知識で配合した「最高比率のハーブと桜チップの燻煙」だ。

この世界の激務に追われる女性職員たちは、普段の食事といえばコンビニ弁当やチェーン店の外食、あるいは出来合いの惣菜で済ませるのが当たり前。


そのため、本物の木を燃やし、ハーブを肉の繊維まで馴染ませてじっくり煙を纏わせるという、前世のデパ地下職人レベルの『狂気とも言える手間暇をかけたガチの本格燻製香』など、嗅いだこともなかったのだ。

 その暴力的とも言える香ばしく深い香りは、過酷な前線で戦うジークリンデたちの嗅覚を根底から狂わせ、極上のリラックス効果をもたらしていた。


カレン監査官も、香りを胸いっぱいに吸い込み、頬を紅潮させて震えている。


(……間違いない。これは、昨日本家を滅ぼしたひじり様が、本日行われる『本家ガサ入れ』の成功を祈願するための……いや、国家の安寧を祈るための【古代の儀式(聖なる神和ぎ)】だわ……!!)


カレンの脳内システムは、またしても限界突破バグを起こしていた。


 ひじりが肉にフォークを突き刺していた姿は「魔を祓うための聖痕刻み」に、塩やハーブを擦り込む姿は「穢れを清める聖油の儀」に変換されている。


「ひじり様……! 貴方様は、我ら凡俗のために、これほどの手間と神聖な魔力スパイスを込めて、国家守護の祈りを捧げてくださっていたのですね……! 己の保身しか考えぬ4区の本家とは、格が違いすぎる……!」

「カレン殿、見てみろ! あの煙の色を! 濃密な白煙の中に、確かに神聖な黄金の光(ただの朝日の反射)が混ざり合っている! これぞ、全女性の戦士を癒す『聖母の烽火のろし』だ!」


「はえ?」


 ひじりは、トングを持ったまま首を傾げた。


 祈り? 国家守護?


 いや、これただの豚バラの燻製。


あと2時間くらいじっくり煙に燻さないと、中まで火が通らない、ただの美味いベーコンである。


「あの、これ、ただの僕の趣味で、出来上がったら朝食の目玉焼きに添えて食べようと思って――」


「な……ッ!! 聖なる儀式で生み出された『神の肉』を、我らへの内祝いとして振る舞ってくださるというのですか!?」


 ジークリンデがボロロ、と涙を流した。


「ああ……なんという慈悲深さ! 本家を滅ぼすほどの苛烈な一面を持ちながら、従う者にはこれほどの祝福を授けてくださるとは! 私は一生、この煙とひじり様に命を捧げると誓おう!」


「直ちに本庁に連絡します!」


 カレンが血相を変えて端末を操作し始めた。


「現在、18区の一ノ宮クラン上空に、ひじり様による『国家平定の聖煙』を確認! 本日8時からの4区・一ノ宮本家へのガサ入れ部隊は、この煙の香りを五感に刻み、正義の鉄槌を下すべし――と!」


「いや待ってカレンさん!? 本庁の戦闘部隊にベーコンの煙を中継しないで!!」


ひじりの必死の制止も虚しく、中庭から立ち上る香ばしい燻製の煙は、朝日に照らされて美しく18区の空へと広がっていく。


 その煙は、これから滅びゆく4区の本家に対する、事実上の「宣戦布告の狼煙のろし」として、国中の防人たちに認識されるのだった。


(だからただのベーコンだって言ってるだろぉおおおおおおお!! 朝から勘違いの規模がデカすぎるわ!!)

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