初めてのお忍び
数分後。
リビング兼ダイニングに移動した俺を迎えたのは、城の晩餐会かと思うほどの光景だった。
広大な大理石のテーブルの上に、これでもかと並べられた料理の数々。
超高級ホテルのメインダイニングで出てくるようなスープ、最高級のブランド牛とおぼしきステーキ、美しく飾り切りされた彩り豊かな温野菜。どれも一口食べるだけで、前世の俺の年収が吹き飛びそうな代物ばかりだ。
「聖様、本日の朝食でございます。お口に合えば良いのですが……」
先ほど廊下で悶絶していたはずの怜華さんが、何食わぬ顔で(しかし耳の裏を少し赤くしたまま)控えている。ツグミも、まだ少し目が赤いものの、ピンと背筋を伸ばして俺の後ろに立っていた。
「うわぁ、美味しそうだ。毎朝こんなに用意してもらうの、なんだか申し訳ないな」
「滅相もございません! 聖様の血肉となり、その尊き命を繋ぐための食事です。私どもの全霊を捧げるのは当然の義務でございます」
怜華さんが熱っぽく語る。
これがこの世界の「普通」だ。男はただ、用意されたものを無言で消費するか、「口に合わない」と撥ね退ける権利だけを持つ。
だが、俺の前世はデパ地下の高級惣菜店およびホテルのバックヤードの派遣労働者だ。
厨房のシェフたちがどれほどのこだわりを持って料理を作り、フロアの人間がどれだけ神経をすり減らして温度や盛り付けを管理しているか、その「裏側の苦労」を嫌というほど知っている。
俺はナイフとフォークを手に取り、まずは美しく透き通ったコンソメスープを一口運んだ。
……美味い。雑味が一切なく、素材の旨味が極限まで引き出されている。
「……すごく美味しい。このスープ、牛骨と香味野菜の寝かせ方が完璧だね。温度も、口に入れた瞬間に一番香りが広がる絶妙なラインだ。怜華さん、厨房の料理長に『素晴らしい技術ですね。ごちそうさまです』って伝えてもらえる?」
「っ……!!」
その瞬間、怜華さんが胸を押さえて激しくよろめいた。
眼鏡がズレるのも構わず、彼女は信じられないものを見る目で俺を見つめる。
「聖様……今、料理の『工程』と『温度管理』を理解された上で、厨房の者たちに労いの言葉を……?」
「え? いや、だってこれだけのもの作ろうと思ったら、前日から相当仕込みをしないと無理だし。作ってくれた人に感謝するのは当然っていうか……」
「当然ではございません……!!」
怜華さんの声が、感動のあまり細かく震えている。
「この世界の男性は、味が気に入らなければ皿ごと床に投げ捨てます。
料理が美味しいのは当たり前、自分を満足させられない料理人は無能、それが彼らの認識です。それなのに、聖様は厨房の裏方の苦労にまで思いを馳せ、その技術を称賛されるなんて……っ。ああ、なんという深い慈愛……なんという『神の視座』……!」
「ひじりさまぁ……! 厨房のシェフ、嬉しさで卒倒して今頃泡吹いて倒れてますよぅ……!」
ツグミがボロポロと涙を流しながら叫ぶ。
大袈裟ではなく、本当に倒れていないか心配になってきた。
「……ふぅ、ごちそうさまでした。本当に美味しかったよ」
俺が完璧に洗練された所作(前世でホテルのVIP対応を盗み見て覚えたテーブルマナー)でナイフとフォークを斜めに揃えると、怜華さんは拝むようにして皿を下げていった。
食後、俺は自室に戻り、ベッドに寝転がって情報端末を起動した。
地元のネット掲示板『第7特別保護区スレ』の勢いは、さらに加速している。
『【悲報】隣の第6居住区の男様、機嫌が悪くてお世話係のメイドを全員解雇。理由は「なんか顔が気に入らない」とのこと』
『うわぁ……第6区の女子、全員お通夜じゃん。明日は我が身だな』
『それに比べて、我が第7区の男様は今日も静かだ。一歩も外に出ないけど、それだけで素晴らしい。余計なトラブルを起こさないの、マジで聖母』
掲示板の書き込みを見て、俺は小さくため息をつく。
他のエリアの男たち、本当にやりたい放題だな。
顔が気に入らないという理由でクラン全員を解雇するとか、前世のブラック企業のワンマン社長でももうちょっと自重するぞ。
そんな現地の男たちと比べられたら、俺が「普通にありがとうと言って、綺麗に飯を食う」だけで聖母扱いされるのも納得だった。
だが――。
贅沢すぎる宮廷料理を綺麗に平らげた後だからこそ、俺の胃袋はある「禁断の欲望」を訴えかけていた。
(美味かった。確かにめちゃくちゃ美味かったんだけど……違うんだ……)
俺が求めているのは、あの、油ぎった、ジャンクな、体に悪い味がする食べ物だ。
前世、サービス残業まみれの派遣仕事を終え、ボロアパートに帰る途中のコンビニで買った、揚げたてのホットスナック。
ザクッとした衣を噛みちぎると、口の中にじゅわっと広がるジャンクな脂の旨味。あのコーラや缶チューハイで流し込む、庶民の味――。
このクランのメニューには、絶対に載らないタイプの料理だ。
もし怜華さんに「コンビニのチキンが食べたい」なんて言おうものなら、「聖様の聖なるお体に、そのような不純物を入れるわけにはまいりません! 私たちの不徳です!」と、クラン総出で切腹しかねない勢いで絶望されるだろう。
(……よし、ちょっとだけ、外に行って買ってこよう)
思い立ったら吉日だ。
幸い、今の時間は怜華さんが国家への定例報告(俺の健康状態の提出)で書斎に籠もっており、ツグミは裏庭で警備のトレーニングをしている。
俺はクローゼットの奥から、以前「一応」ということで支給されていた、最も地味なグレーのパーカーを引っ張り出した。
それを羽織り、大きめのフードをかなり深く被る。
鏡を見てみる。
元々、前世の不健康な生活の反動か、今世の俺は驚くほど色白で、線が細く、中性的な顔立ちをしている。フードを深く被り、前髪を少し下ろせば、顔の大部分は隠れてしまう。
(よし。これなら、この世界にありがちな『めちゃくちゃクオリティの高い男装女子』に見えるはずだ)
この世界では、男が一人で街を歩くことなどあり得ない。もし「男」だとバレたら、SPや警察、果ては通りすがりの女性たちに囲まれて大騒動になり、即座に連れ戻される。
だが、「男装女子」のコスプレだと思われれば、誰も俺が本物の男だとは疑わないだろう。
俺は端末と、一応支給されている電子マネーのカードをポケットに突っ込むと、裏口の勝手口から、音を立てずにすっと外へと抜け出した。
クランの敷地を囲む高いフェンスの隙間(ツグミがたまにサボりで見落とす死角)を通り抜け、ついに俺は、外の公道へと足を踏み入れた。
五月の爽やかな風が、パーカーの隙間を吹き抜けていく。
前世以来の、完全に自由な「お出かけ」だ。
「目指すは……一番近いコンビニだな」
俺はフードの端を少し引っ張り、地元の住宅街を歩き始めた。
これが、第7特別保護区の女子たちを根底から狂わせる、伝説の『お忍び聖母事件』の幕開けになるとは、この時の俺はまだ、微塵も知らなかった。
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