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クランでの甘い朝

「お目覚めですか、ひじり様」


耳に心地よい鈴を転がすような声と、微かに漂う白百合の甘い香りで、俺――白瀬聖は目を覚ました。


高級ホテルのスイートルームすら霞む、やたらと広いベッド。


シルクのシーツから上半身を起こすと、視界に飛び込んできたのは、現代日本の芸能界をひっくり返してもお目にかかれないレベルの美少女二人だった。


一人は、仕立ての良いタイトスカートに身を包み、知的な眼鏡の奥から慈愛と緊張の入り混じった視線を送ってくる黒髪の美女。このクラン(家)の管理兼教育係であり、俺の「姉」役を務める御剣みつるぎ怜華さん。


もう一人は、活動的なショートカットに、どこかあどけなさを残したジャージ姿の美少女。俺の護衛兼遊び相手、つまり「妹」役のツグミだ。


「……ん、おはよう。怜華さん、ツグミ」


「はい、おはようございます、聖様! 本日の体調はいかがですか? ほんの少しでも違和感があれば、すぐに国家特級医療班を呼びますが!?」


「いや、めちゃくちゃ元気。よく眠れたよ」


俺がそう言って苦笑すると、二人は一瞬、信じられないものを見たかのように目を見開いた。


……ああ、そうだった。この世界の男は、目覚めの一言目が「うるさい」か、無言で女を無視するのが普通なんだった。


ここは、現代日本ではない。


男と女の出生比率が『1対50』という、圧倒的な男性希少社会。


男に生まれ、定期的に精子提供の手続きをするだけで、国家から実質年収1千万円以上のベーシックインカムが支給され、働く必要すら一切ないイージーモードの世界だ。

前世でデパ地下の高級惣菜店およびホテルのバックヤードの派遣労働者として、理不尽なクレーマーに毎日ペコペコ頭を下げながらすり減っていた俺からすれば、文字通りの天国。


……のはずなのだが、骨の髄まで染み付いた「接客業仕込みの小市民マインド」が、この「神様扱い」をどうにも落ち着かなくさせていた。


「聖様、お着替えの準備ができております。こちらへ……」


ツグミが恭しく、仕立ての良い高級シャツを捧げ持って歩み寄ってくる。


前世の感覚だと、年頃の女の子に服を着替えさせてもらうなんて羞恥心で爆発しそうになるが、これがこの世界の「クラン制度」の日常だ。


彼女たちは、数千倍の超高倍率を勝ち抜いて「男様のお世話係」に選ばれたエリート。


俺が自分で服を着ようものなら、「私たちの奉仕がお気に召さなかったでしょうか……!」と絶望させてしまう。


郷に入っては郷に従え。俺は大人しくツグミに体を預けた。


ツグミは慣れた手つきで、しかし国宝の磁器でも触るかのように慎重にボタンを留めていく。


その距離、わずか数センチ。現代の十代男子並みに性欲が旺盛だというこの世界の女性の例に漏れず、ツグミの呼吸は心なしか荒く、心臓の鼓動がこちらまで伝わってくるようだ。


「よし、完璧だ。ツグミ、服を着せてくれてありがとう。助かったよ」


俺は、前世のコンビニでお釣りをもらう時と同じ、ごく普通のトーンで、ごく普通の感謝を口にした。


「…………えっ?」


ツグミの手が、ピタリと止まった。


その顔から、すうっと血の気が引いていく。


「ツグミ……?」


「あ、あの……聖様、今、なんとおっしゃいましたか……?」


「え? いや、服を着せてくれてありがとう、って……」


ドササッ。


ツグミの腕から、次に着るはずだった上着が床に落ちた。


彼女の大きな瞳から、大粒の涙がポロポロと溢れ出す。


「ひっ……う、うあぁ……」


「ちょ、ちょっと待って!? 俺、なんか悪いこと言ったか!?」


焦る俺を余計にパニックに陥れるように、後ろに控えていた怜華さんまでもが、眼鏡をガタガタと震わせ、胸を押さえて喘いでいる。


「ひ、聖様……今、ツグミの『労働』に対して、感謝の言葉を述べられたのですか……? 義務でもないのに、命令でもないのに、ただ、彼女が奉仕したという事実に対して……?」

「いや、だって、やってもらったら『ありがとう』って言うのは普通だろ?」

「普通、ではございませんッ……!」


怜華さんが、かつてないほど強い口調で叫んだ。その顔は耳まで真っ赤に染まっている。


「この世界の男性は、私たちが髪の毛一本傷つけぬよう命を懸けて奉仕しても、視線すら合わせてくれません……。それが当たり前なのです。それなのに、聖様は……ツグミを『一人の人間』として認め、その手を煩わせたことを気遣い、祝福の言葉ありがとうを授けられた……っ。ああ、なんという高潔な精神、なんという慈悲深さ……!」


「ひじりさまぁ……っ! 私、もう死んでもいいですぅぅ!」


ツグミにいたっては、感動の過呼吸を起こしそうな勢いで泣きじゃくり、ベッドの支柱に頭をボカボカと打ち付け始めた。尊さが許容量を超えて脳がバグっている。


「落ち着けツグミ! 頭ぶつけるな! 怜華さんも深呼吸して!」


俺の必死の制止により、なんとか部屋が崩壊する事態は免れたが、二人の俺を見る目は、完全に「生身の神(聖母)」を見るそれへと昇華していた。



数分後。


朝食の準備のため、二人がフラフラとした足取りで部屋を出ていった。


ドアが閉まった瞬間、廊下から「お姉様ぁぁぁ!!」「静かにしなさいツグミ!……でも、ああ、あああ、聖様、本当に聖母のようなお方……っ!」という、壁を引っ掻くような悶絶の声が聞こえてきたが、俺は聞こえなかったことにした。


「……ただ『ありがとう』って言っただけなんだけどな」


俺はベッドに腰掛け、大きくため息をついた。


この調子では、朝飯を食うだけで何回彼女たちの命が危機に瀕するか分かったものではない。


ふと、机の上に置いてあったスマホ型の情報端末が目に入った。


この世界のインターネットには、男性に関する情報を共有する、現代日本の5ちゃんねるに酷似した匿名掲示板が存在する。


俺はなんとなく、地元の『第7特別保護区』のスレッドを開いてみた。


『【速報】ナナクの男様、今朝も生存確認』

『>>1 乙。今日も尊顔を拝むことはできなかった。生きてるだけで偉い』

『てか、隣の地区の男様、機嫌悪くて朝食のフレンチトースト床に投げ捨てたらしいぞ』

『うわ、最悪。でも男様だししゃあない。片付けさせてもらえるだけご褒美だろ』

『それに比べて、うちの地区の男様は引きこもってて大人しいよな。一回でいいから、あの屋敷から出てくるところ見てみたいわ。シルエットだけでも尊い』


掲示板の書き込みを眺めながら、俺はふと思う。

(現地の男たちのハードル、低すぎないか……?)


床に飯を投げ捨てるクソ野郎が「男様だししゃあない」で済まされる世界。


そんな中で、前世のデパ地下で培った「極上のお辞儀」と「息をするような感謝の癖」を持った俺が普通に暮らしたら、一体どうなってしまうのか。


お腹の虫がキュウ、と鳴った。


宮廷料理のような豪華な朝食が待っているはずだが、俺の脳裏に浮かんだのは、前世の仕事帰りに毎日のように食べていた、あのジャンクなコンビニのホットスナック――ファミチキだった。


「……ちょっと、外の空気でも吸いに行ってみるか」


クランの過保護な美女たちにバレないよう、俺はクローゼットから一番地味なグレーのパーカーを引っ張り出し、フードを深く被った。元々線が細く色白な俺だ。こうしていれば、誰も俺を「男」だとは思うまい。


これが、外の世界に凄まじい天変地異(経済効果)をもたらす初お出かけになるとは、この時の俺はまだ、微塵も思っていなかったのである。

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