『風の頁をめくる音』
空を伝うかすかな響きに、
湊のまぶたがふるえた。
それは、耳に届いた音ではない。
けれど、どこか懐かしい風が、頬を撫でた気がした。
──しずかに、頁がめくられてゆく。
夢の奥底で見た葉脈の記憶。
名も知らぬ森の木洩れ陽。誰かの声。
いや、声にならない想念の粒。
そのひとつひとつが、
からだの奥深くで幾重にも折り重なっていた
“記憶”の頁をそっと撫でて、
やさしく、風のように通り抜けていった。
*
──爽やかな空気の流れを感じながら
重たく沈んでいた意識が、ゆるやかに浮上していく。
湊はゆっくりとリビングを見まわした。
天井。カーテン越しの朝光。
まだ薄青く湿った空気が、室内にしっとりと漂っている。
昨夜のことは、まるで遠い旅の記録のように曖昧だった。
けれど、確かにあの葉に触れた。
そして、“なにか”が、身体の奥にしみこんだ──。
指先が、まだ微かに痺れている。
まるで、あの“灰”に残された温度が、消えきらずにいるようだった。
*
制服に着替え、髪を整え、顔を洗っても、
この感覚は、どこか皮膚の内側に残っていた。
朝食のパンにかぶりつきながら、チヒロが話しかけてくる。
「湊。なんか最近、ちょっと変わったよね。……顔つきとかさ」
「えっ、そう?」
「うん。……でも、悪い意味じゃない。なんか……大人になった感じ」
「……そっか」
湊は笑ってみせたけれど、
その笑みが、どこか遠い場所から浮かび上がってきたように感じた。
それは、自分でも知らない“何か”が、
ゆっくりと目を醒まそうとしている気配だった。
*
通学路の坂道で、蝉の声が降ってくる。
昨日までと同じ風景。
けれど──見えるもの、聞こえるもの、
肌に触れる空気が、ほんのわずかに“違って”感じられる。
電柱の影。
舗装の裂け目に咲く名もない草の葉。
ふと見上げた空に舞う、朝の鳥たちの軌跡。
──まるで、世界そのものが“語りかけて”くるような。
湊は立ち止まり、深く息を吸った。
ひとつ、確かなことがあった。
あの夜から、自分はもう──ただの“ひとり”ではなくなった。
つながっている。
目に見えない“なにか”と、たしかに。
そう思った瞬間──右の胸ポケットの中で、
ジップ袋に入れた“灰”が、かすかに、熱をもったように感じられた。




