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ヒトの値段  作者: 窓末
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第一話:無名の肖像画

美術館の閉館時間みたいな匂いがした。 埃と、床に塗られたワックスと、そして、取り残された者だけが嗅ぎ取れる寂寥感が混じり合った、ひやりとした空気。魂が、まだ肉体という名の借り物に戻りきっていない、あの気持ちの悪い浮遊感のなかで、俺はゆっくりと目を開けた。


視界に飛び込んできたのは、大理石の床に反射する、手術室じみた照明。身体を起こすと、自分が美術館の展示品みたいに、ポツンと置かれた革張りのソファに座らされていることに気づく。見渡せば、そこは巨大なギャラリーだった。壁には一枚の絵画もなく、ただ、俺と同じように魂の置き場所を探しているような、十一人の男女がいるだけ。


まるで、作者不明の現代アートのようだ。『無名の肖像画たち』とでも名付けたくなる。


静寂は、まるで分厚いガラスのようだった。それを最初に、無遠慮な音を立てて叩き割ったのは、威圧的なオーラを、高級スーツという名の鎧で固めた男だった。


「おい、君。何か知らないか」


男は、一番近くにいた気の弱そうな若者の肩を、拒否権など与えないという風に掴んだ。若者は、びくりと震え、か細い声で「何も……」と答えるのが精一杯だった。男は、チッと舌打ちすると、今度はラウンジの中央に立ち、無駄に響く声で叫んだ。


「全員、落ち着け! まずは状況を整理しようじゃないか!」


その暑苦しい声に、何人かがうんざりしたように顔をしかめる。俺もその一人だ。こういう、真っ先にリーダーになりたがる男は、一番御しやすいが、一番面倒くさい。


「整理、ねえ。そのための情報が、どこにあるというのかしら」


冷たい声が、男の熱気を一瞬で凍らせた。声の主は、黒縁メガネの女。彼女は、誰に話しかけるでもなく、壁に近づくと、指先でそっとその表面をなぞっている。まるで、この空間の材質と構造を分析でもしているかのように。その横顔は、人間よりも、精巧な機械に近かった。


俺は、誰とも視線を合わせない。ソファの隅で、ただの背景に徹する。こういう非日常の舞台では、最初に動く奴は馬鹿か、あるいはよほどの自信家だ。そして、どちらも真っ先に死ぬ。


ふと、視界の隅に、看護師の制服を思わせる白いワンピースの女が映った。彼女は、気分でも悪くなったのか、胸を押さえてソファに崩れ落ちた別の参加者の背中を、無意識に、職業的な仕草でさすってやろうとして、はっと気づいたように、寸前でその手を引っ込めた。その躊躇ためらいの数センチに、彼女の人の好さと、この場所への恐怖が、残酷なほどに滲んでいた。


誰もが、互いを値踏みしている。言葉にしなくても、視線が、呼吸が、その人間の価値を探り合っている。この部屋に充満しているのは、恐怖と、警戒心と、そして隠しきれない、下劣な好奇心だった。


その時だった。


『――ようこそ。我がギャラリーへ、無名の肖像画たちよ』


声がした。 プロローグで聞いた、あのベルベットの声。魂に直接ぬめりつくような、不快で甘美な声が、空間そのものから響いてきた。


『諸君は、まだ名もない。だが、心配は無用だ。これから、諸君ら自身の手で、その肖像画を完成させ、自らの価値を証明してもらう』


声の主――『蒐集家』は、姿を見せない。だが、その声だけで、この場の全員の動きを、思考を、呼吸さえも支配した。


『最初のオーディションを始めよう。題して、『告白のテーブル』』


俺たちが座るソファが、まるで意思を持ったように動き、一つの巨大な円卓を形作った。俺たちは、否応なく、全員の顔が見える位置へと強制的に配置される。


『これから一人ずつ、自己紹介をしてもらう。語るべきは、三つのこと。自分に関する、三つの真実だ。ただし』


声は、ここで愉悦に震えた。


『そのうちの一つは、必ず、珠玉の「嘘」でなければならない。諸君は、これから一枚の自画像を、真実と嘘という名の絵の具で描くのだ。我々が評価するのは、その絵の出来栄え。物語の、面白さだ』


ざわ、と参加者たちの間に、ウイルスのような動揺が広がった。嘘をつけ、だと?


『告白が終われば、審判を行う。最も退屈な嘘、価値のない物語を描いた者は、最初の負債者となる。逆に、最も我々を魅了する、価値ある嘘を描いた者には、莫大な報酬を与えよう』


『さあ、始めようか。最初の語り部は――』


声が、一度途切れる。 次の瞬間、ギャラリーの照明が全て落ち、一本のスポットライトが、まるで神の指先のように、円卓の上を無慈悲に滑り始めた。 それは、俺たち一人一人の顔を、まるで検品でもするように、ゆっくりと、ゆっくりと照らし出していく。 威圧的なスーツの男。冷たい目のメガネの女。怯える看護師風の女。そして、平凡なコンサルタントの仮面を被った、俺。


スポットライトの動きが、止まる。


純白の光の円の中に、一人の人間の顔が、くっきりと浮かび上がった。 それは、最初にスーツの男に肩を掴まれた、あの気の弱そうな若者だった。 彼の顔が、これから語られる物語への期待ではなく、最初の生贄に選ばれた者の、絶望と恐怖で、引き攣っていた。


幕は、上がった。 そして最初の演者は、もう後戻りできないことを、その全身で理解していた。

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