エルネスト・ヒンクシーの証言
姉が。姉が里帰りしてきた。結婚十年目、五人目の子を、おなかの中に隠している。
「いい子にしていましたか、エルネスト」
エルネストは年若くしてすでに四人の甥姪の叔父様で、ていのいい子守だった。
三人の王子と一人の姫君。
姉はこの国の王妃陛下であり、若くして義兄である国王陛下に嫁いだ身だった。
そしていつまでも、末弟のエルネストを自分の子供たち同様に、子どもだと思っている節がある。
「ドーラ姉上! エルネストはこれでも学院に学ぶ年になったのですよ! 子ども扱いなさらないでください!」
自国の王妃陛下とはいえ、まぎれもなく姉であるその人は、うっかり年を取り忘れたような少女じみた容貌をしている。四人の子持ち主婦であるのに、さらにもう一人生まれてくるというのに、同年代の少女にしか見えないのは、いったいどういうことだろうと不思議に思う。
女とは、狐狸妖怪の類だと、エルネストは思っている。
「そうねえ、あなたももうそんなに大人なのですね。あのちっちゃなちっちゃなエルネストが学院生だなんて……わたくしも年を取るはずだわ……」
「……」
エルネスト・ヒンクシーは、ヒンクシー公爵家の三男である。上に兄が二人と、長姉姫であったこの王妃陛下が一人。
末っ子だが、かといって自由を満喫できる立場でもない。王妃陛下の末弟という立場はそれなりに重い枷であり、その他にもエルネストには困惑すべき首輪がかけられていた。
「それで、ディシルバ家のドーラちゃんとは、その後睦まじくしているのですか」
姉は歌うような口ぶりで、のんきに手投げ弾を放り投げた。
「姉上、カサンドラを、姉上のようには呼びませんよ。あれはただのサンディです!」
「まあ! 婚約者をただのサンディ、だなんて。嘆かわしいこと、女の子は大切になさいと口を酸っぱく言い聞かせてきましたのに……」
わざとらしく悩まし気に、ソファにゆったりと腰かけた大きなおなかの姉は、嘆かわしい……と眉根を寄せて困ったわ、と続けた。
「あなたには、小さい王子たちの良い見本の叔父様でいてほしいのですよ。ディシルバ公爵家には姉様も本当によくして頂いているのです。それに、いずれ南の港の総督となるのであれば、カサンドラちゃんには大切に大切に、押し戴くように接しなければなりませんと何度も申し上げてきたというのに、あなたったら……!」
二人の兄は、ヒンクシー家がもつ二つの公爵領の跡継ぎであり、エルネストはうっかりすると冷や飯食いの三男坊となる可能性だって十分にあった。
いずれ兄たちが二つの爵位を継ぐのであれば、自分はせいぜい陸軍士官にでもなってそこで出世していくしか栄達の道は開かれていないかもしれない。自分は学院を出れば陸軍士官学校へ行くのかもしれない、いや、それしかないのだと幼いなりに将来設計を描いていた。
それがどうだ。
有為転変は世の習いといえど、二年前ディシルバ公爵家のカサンドラ姫との婚約がなってしまったことで、エルネストの将来設計図は大幅な改変を迫られることになった。
ちょっと待って、それ、聞いてない。
婚約者とは、ある日突然引き合わされた。それは家同士が縁続きとなるため、あるいは今ある関係をより強固にするための政略の一つであると、エルネストも知っている。
学院に入学直前のことだった。
二人の兄たちにも、それぞれ名家出身の令嬢が婚約者となった。
エルネストたちの父、ジラルド・ヒンクシー公爵は陸軍大臣の席に長年座る枢密院の重鎮であり、何より王妃陛下の父であり、国王陛下の従兄であり、王家の外戚として栄華を極めている。
貴族社会において、是非とも仲良しになっていたい人物であることは明白だ。
兄たちの婚約が調った後、ついにエルネストにもお鉢が回ってきた。よくよく考えればそれだけの話なのだが……。
エルネストが、お前の婚約者の姫君だと父に紹介されたのはカサンドラ・ディシルバ公爵令嬢。
ディシルバ家は海軍大臣を務めていた彼女の祖父君が家督をご長男のお父上にに譲って、まだまだお元気な身を南の港湾都市の初代総督に投じた、と評判になっていた。
南や西の港湾都市整備は、国王陛下や、この姉陛下の肝いりの事業で、陣頭指揮を執るための人出が国の上層部の勇敢な方々から排出されていた。
その、孫姫が、エルネストの婚約者に決まっていたのである。
ディシルバ公爵家は、海軍の家柄だ。
元海軍大臣ともなれば、大きな港の総督府の長たるに、過不足ない人材だ。
王家直轄の港には海軍陸軍の屯所が置かれ、税関に憲兵隊に、行政府の出先機関に、と言った全てを統括する総督府が置かれている。
ご長男は、つまり婚約者の父上は世襲となったが海軍大臣を賜るに相応しい経歴の持ち主であり、ご次男やご三男、ご四男、三人いる婚約者の叔父君方は、いずれも海軍属の軍人である。
それぞれが艦船に乗り込む現役の海将であり、陸にいるより海の上で過ごされることの多い方々だ。
海軍籍の軍人は、陸の上が相当お嫌いらしい。
いずれ総督府の後継を、とディシルバ総督が見繕い始めたころ、三人の海将のいずれもがそれを拒否した。
ディシルバ総督は、「陸の者なら跡継ぎになるのか!」とじつに短絡的に、長年親交のある陸軍大臣ヒンクシー公爵に打診した。
父は父で、至ってのんきに、我が家に三男坊がおりますが、そちらへやりましょうか、とかなんとか、気軽に請け合ってしまったらしい。
かくて、ディシルバ家の一の姫と、エルネストが縁づき、エルネストは学院を卒業したら王都から四日の距離の南の港の総督府へやられることになったのだ。
婚約者のカサンドラ姫と共にである。
かわいい末っ子がそんなに遠方に! と大騒ぎしたのはヒンクシー家のご隠居のお祖父様だけだった。
お祖母様はディシルバ家の出身の海の女であり、ご自分の従弟君のところならエルネストも安心してやれると言った。また、母は、かわいい子には旅させろ、との信念を持っている。
義兄の国王陛下や、王妃陛下は言うに及ばず。
自分たちの推進した事業に、弟のエルネストが携わってくれるならと大喜びした。ディシルバ家との縁組にもだ。
「いいですか、エルネスト。これはよい好機です。南と北の物流をつなぐのは、この姉の長年の夢なのです。いいですか、北の海と南の海を水路で繋ぐことは、ひいてはヒンクシー領やお隣のクライシュテルス領に多大な利をもたらすのですよ! 水路の周辺地域にもです!」
その日も姉は妊娠中であり、里帰り中であり、力強く言い終えた後、破水した。
大騒ぎになった。
王宮から小さな甥姪を引き連れて飛んできた義兄は、もう姉の出産の度の騒動にも手慣れた様子で、ずっとその傍らで手を握っていたらしい。
エルネストのような少年でも、はたで見ていてちょっと恥ずかしくなってしまうような仲のよさなのだ。
普段、多少は豪胆な少女にしか見えない姉が、その時ばかりは母にも見え、義兄の妻に見え、恋人のようにも見え、昔から変わらず、出産の痛みに頭が混乱すれば、おじ様、おじ様、と自分の夫のウィルヘルム二世陛下をそんな風に呼ぶ。
女とは、七変化の得意な、やはり狐狸の類だとエルネストは思う。
そして、エルネストの婚約者となったカサンドラ姫は、そんな姉の強烈な信奉者だった。
エルネストと引き合わされた際にも、エルネストのことなど眼中になさそうに、
「テオドラ陛下の義妹になれるなんて……!」
との感激に涙したほどだ。
義兄と姉の結婚のいきさつは、民衆にも広く知れ渡った恋物語として姉の手により、出版されている。多くの国民は、姉の著作によって文字を学んだ。
王妃陛下の物語シリーズとして、それは有名だ。
姉は、識字のためなら、と自分の私生活の切り売りを惜しまない。
儲けは小学校や上級学校の建設や、教師の確保に回されているという。ついに刊行物文化が花開いたわ、と姉は私生活の暴露本執筆に余念がない。
それによって、王族は民衆にも近しい存在と認識され、子育てに奔走する王妃陛下の日常や、両陛下のちょっとしたいさかいなどに近親感を覚えるものらしい。
そしてまた、面倒な外交や王族として守らなければならない節度なども、具体的に分かりやすい説明が加えられ、自分たちの家庭を維持するのと同様に、それ以上に王族というのは面倒で大変なものらしいとの理解が進んでいる。
婚約者のカサンドラ姫は『姉上シリーズ』の熱心な読者だった。
時折、作中に登場する末弟エルネストのことは、物語の登場人物か何かと考えているらしい。
エルネストが、男装を好んだ若い頃の姉を、兄上と呼んでいたエピソードなどを気楽に持ち出してきては、エルネストの少年の心に痛恨の打撃を与えてくる。
カサンドラ姫は、そういった意味でたいそうな武闘派だ。
エルネストの急所を、いとも簡単に突いてくる。
ぐさりぐさりと鋭利な言葉の矢で、エルネストを突き刺してくるのだ。
同じ年、十五歳同士の婚約者とはいえ、まだまだ色っぽい雰囲気には、そういったわけでなることはない。
カサンドラ姫にとってエルネストは、王妃陛下の末の弟君、に他ならず、憧れの物語の登場人物としての興味しか抱かれていない。
……別に何も。ひがんだりしているわけでは、断じてない。
「カサンドラちゃんは、いついらっしゃるの。お夕食はこちらで召し上がっていかれるの」
臨月に入った姉が王宮から里帰りしてくると聞いたカサンドラ姫は、さっそくエルネストにヒンクシー家への訪問を打診してきた。いつだって、姉のついでのエルネストなのである。
「知りませんよ。『お姉様のご到着に合わせて伺います』と言っていましたけどね」
むすっとして、エルネストは応える。
「まあ、じゃあ、そろそろお見えかしらね。あなた、ずいぶん不機嫌なのねえ。カサンドラちゃんに嫌われてしまってよ?」
姉はエルネストを見上げて、心配げに首を傾いだ。
「男の子もかわいいのが一番よ。わたくしのおじ様ったらね……」
この惚気がいったん始まると、姉はもうエンドレスに、ご自分の夫君がいかに愛くるしいか、おかわいらしいか、それは幼いころからちっとも変わらず、いつまでたっても少年の様で……と、恐れ多くも国王陛下の真実をぼろぼろと、説いて口説いて止まらない。
「ああ、どうしましょう。旦那様のお顔が見たくなったわ。今度の出産も王宮でするわけにはいかないのかしら……」
王妃や王太子妃の里帰り出産というのは、王家の伝統的なしきたりの一つらしい。
妻の実家を大切にしていますよ、出産前後は公務を離れてのんびりしてほしいのですよ、との国王陛下の思し召しを広く世間に認知させるためらしいのだが、ヒンクシー家の屋敷は王宮にも近く、馬車を飛ばせばものの数分で行き来ができてしまう。
義兄はこのたびも、ちょくちょく王宮を抜け出しては通いなれたこの屋敷にやってくるのだろうし、そうすれば姉の物思いも霧散してしまうはずだ。
それどころか、お顔が見たいわ、と姉がこぼしただけで飛んできそうな義兄ではあるのだ。
……結婚十年、両陛下の仲がよろしくていらっしゃるのは多分、国民にとっても幸せであることには違いない。
休日ではあったが、上の兄二人は父に連れられて陸軍の軍事教練に参加しており、母は以前から予定されていたご近所の奥様会の茶会に出かけている。
祖父母や執事長や家令たちと姉陛下を出迎えた後、結局はなんだかエルネストが姉の相手をしている。
祖父母たちは過去に何度もヒンクシー家が『王妃の里』としての役割を果たしているとのことで、手慣れたものだ。
出迎えから、物品や消耗品の用意から、抜かりない。
母も、これが五度目ともなれば気楽らしく、今日も自分の年頭からの予定を優先させていた。
大掛かりな里帰りでなくても、気のむくままにふいに子供たちを連れて実家に寄ったり遊びに来たりするような気ままな姉のことであるので、皆、どちらかというと放任気味なのだ。
カサンドラ姫は別だ。
昨日、姉が帰ってきて、などと馬鹿正直にポロリと漏らそうものなら、この役立たず、どうして私を招待しないのと人差し指を一本たてて、散々な有様だ。
エルネストにとって親しい、近しい女の子たちと言えば、カサンドラ姫に出会うまで、それは従姉妹の八人の大公家の姫たちだった。
あちらは一種独特な女の子たちの世界であり、ほんわかとしていながら、おままごとのお父さん役や子供役を一挙にエルネストに押し付けようともする、いわばある種の圧力団体のようなものでもあった。
お花や小石のシリアルや泥団子などを、平気でエルネストに今日の朝ごはんですよ、食べなさい、と強要する。
豪腕のロビイストたちが雁首をそろえた世界なのだ。
そこへきて、カサンドラ姫の相手である。
熱心な姉のフォロワーの登場である。
エルネストは閉口した。そして間違いなく、女とはすべからく魑魅魍魎の類であると知る。
女の子なんて、嫌いだ。
サンディなんて、大嫌いだ。
かといって、彼女たちが学院でそれを披歴している姿などは見たことがない。
いかにも淑女の入り口に立った、名家のご令嬢然としている。大公家や、ディシルバ公爵家の令嬢ともなれば、各家独自の淑女教育も行き届き、どこにいても完璧な令嬢風情を披露してみせる。
どうして、エルネストにだけああなのだろう。大いなる謎である。
女とは、百鬼夜行の世界に住んでいる。
そういえば、かつては姉もそうで、エルネストが物心ついたときには、学院に在学中の女学生の身でありながら、凄腕の貴族院顧問であり、枢密院参与であった。
男装していたものだから、時には一番年上の兄だと思ったりもした。
兄たちに倣ってドーラ姉さまと呼んでも、姉さまは兄さまでもあるのだ、と思っていたものだ。
『姉上シリーズ』を読めば何か気づきのきっかけにはなるかも知れないが、『末弟エルネスト』の過去恥部や黒歴史が描かれていると知っただけでそれは忌避の対象だ。
それでなくても、カサンドラ姫が、ああでこうでと詳細を吹き込んでくるものだから、わーと叫び出してそのたびにエルネストは逃げ出したくなるような思いを味わっている。
面白い文学なら、他にいくらでもある。深淵に飛び込んでいく気には毛頭なれない。
そんなカサンドラ姫と。サンディとエルネストは、学院を揃って卒業したあかつきには、結婚をして、二人で南方へ発つことになる。
……あのサンディと、僕が……?
三年後は、エルネストにとっては到底想像もつかない遠い未来のことだった。
あの調子のサンディと、どう結婚して、どう旅立つというのだろう。
同い年の、婚約者。
学内で嫌でもすれ違うし、すれ違えば、あらアーニーお姉様はご機嫌いかがかしら、と始まる。昨年は同じクラスで、いくつもの授業を共に受講した。
学院中の生徒が、エルネストとサンディが婚約者同士であると知っている。
その気恥ずかしさもまた、困惑という名の重石だ。
結婚して、うまくやっていける未来がどうしても想像できない。
けれど姉の手前、結婚、離婚とはならないのかもしれないな、とカサンドラ姫の様子を見ていてエルネストは思う。
小姑というのだっけ。小姑と、未来の妻(?)の仲は今のところ良好過ぎるくらいだ。
あの姉でさえ、小舅というのだったか、国王陛下の兄君であられる大公殿下とは何度もいさかいがあったと聞く。カサンドラ姫から吹き込まれた情報だ。
主に政策や国事への取り組みについて、摂政であった大公殿下と王妃陛下の意見が合わず、盛大にやり合った後、翌朝何事もなかったかのように朝食の席でのんきに朝のあいさつを交わす、とかいった様子についてだ。
サンディは多分……とエルネストは途方もない未来の想像をしてみる。
エルネストと破談になって、姉との縁が切れれば大泣きするのではないか、と思えた。――――それは、困る。多分、エルネストにとっても。
学院中の誰もが、カサンドラ姫とエルネストの婚約を知っている現状で、あなたなんか嫌いよ、と破談に持ち込まれるのはどうしてもさけたい。恥ずかしくてたまらない。
サンディに振られた男だとか、誰かに笑われるのは勘弁だ。
逆にサンディを振ってやるというのも、男らしくないような気がした。
女の子を泣かせる男なんて、男じゃないと姉に諭されて育ったエルネストは、そのあたり、まっとうな倫理観の持ち主だった。
それで結局エルネストの思考というのは、振出しに戻る。
あのサンディと結婚し、子供を作ったりするような、姉と義兄のような夫婦生活を送る未来が、どうしても想像できない。
今のまま、会えば会話を交わすような友達の関係のままじゃダメかな、と思う。
サンディにとってエルネストは、姉の弟で物語の登場人物で。
エルネストは彼女に気ままに姉について話してあげたりする。昨日遊びにきたよ、とか明日里帰りしてくるそうだよ、とか。
彼女はそれを聞いて、遊びに来たいなら遊びに来ればいいのだ、このように。
やがてヒンクシー家の屋敷に、カサンドラ姫と一名の侍女を乗せた馬車が届いた。
出迎えたエルネストに、カサンドラ姫はいつものように、つんと鼻先を反らして、
「あら、アーニー。今日はお招きありがとう」
つん、と澄ましてそう応じた。
エルネストは頭が痛くなる。
「お招きありがとうって! お前が無理やり招待させたんだろうが……」
「お姉様はもうお着きなのね。――――きゃー、お姉様、赤ちゃんのおなかが大きくていらっしゃるわ、こんなに!」
ずかずかとカサンドラ姫はサロンへ入っていき、仰座した姉とさっさと対面を果たしている。
「ドーラちゃん。いらっしゃい、こんなでお迎えなんて、ごめんなさいね」
姉は姉で、やがて義妹となるカサンドラ姫には大甘だ。女の子はやっぱりかわいいわねえ、と、愛し気なまなざしの王妃陛下然、としておいでだ。
「当たり前です! 陛下はお里帰りでのご出産のさなかなのですもの、お体をゆっくり休まれて、大切にいたわって差し上げるのは当然のことですわ」
「あら、陛下なんて嫌だわ。お姉様と呼んでくれる約束よ、ドーラちゃん」
「はいっ……お姉様!」
カサンドラ姫と、姉と来たら、会えばたいていこの調子で、エルネストを閉口させる。
姉には何か、女の子を夢中にさせる特別な装置でも備わっているのではないか。
大公家の姫たちも、姉の前では構われたがりの猫のように大人しく、あけっぴろげになるものだ。
かつてヒンクシー家には、お祖母様の愛した猫の『男爵』がいた。『男爵』は、老猫でありながら構われたがりの猫で、ごろーんと横になり、お祖母様におなかを撫でてとやるのが好きだった。
姉に構ってとまとわりつく彼女たちは、猫の『男爵』をエルネストに思い出させ、何とも切ない郷愁を持って胸に迫る何かを運んでくる。
あれ? 結局姉の女の子たらしにほだされてる?
その上、懐かしさも相まっての受け入れ態勢?
つんと一本で立った百合の花か何かのようなサンディが、姉の前では猫のようなドーラちゃんになってしまう。
女の子とは……いいや、もうやめよう。
この常ならざるひと時、姉の言うようにかわいらしい男の一つでも披露してやろうではないかとエルネストは意気込んだ。
ところで、姉の言う義兄がかわいらしいのはわかった。なんどもなんども繰り返し口説かれてきたことだから、義兄のかわいらしい姿というのは想像もできる。
で、それをエルネストはどうやってそれを実践すればいいのか。
兄たちが、婚約者相手にかわいい男の子をしている姿など、エルネストは垣間見たこともない。
エルネストは困った。
かわいい男なんて、知らない。想像上の生き物だ。
男とは常にたくましくあれと、おもに父にそう言われて育ってきたのだ。かわいい、なんて。
「もう、アーニーったらぼんやりしないで。お姉様の赤ちゃんにプレゼントのおもちゃをお持ちしたのよ」
その箱持って、早くこっちに来て、といつもの調子のカサンドラ姫は、そのようにお望みだ。
その箱、と、彼女のお付きの侍女が抱えた小さな箱、リボンがかかったそれを引き取って、やれやれ、と二人のもとにエルネストは移動する。
「女の子か男の子か、わからないから。黄色のおもちゃならどちらでも好まれるって、母が助言をくれたんです」
「まあ、ありがたいわ。この子にも、上のお姉様やお兄様たちのお下がりばかりでは気の毒だものね。新しいおもちゃは大歓迎なのよ」
「そうですか? お持ちしてよかった!」
未来の妻(?)と未来の小姑は、至って平和に会話を交わしている。
妻と小姑の板挟みに悩む夫というのは、ここには生まれないかもしれない。それでは、求められる男の甲斐性とやらも発揮できない。悩ましいことだ。
「ね、アーニー。早く開けて」
「待ってよサンディ」
複雑な形でもないのに、リボンの結び目が堅い。これを結んだ人は、よほどぎゅっとやったのに違いない。
しばし苦闘ののちエルネストはリボンをほどき、箱を開けた。
中には木製の、一部布の巻かれた知育玩具が収まっていた。
木のボールがいくつも連なり、円く形作られた木の棒に通されている。綿で覆われ黄色い布が巻かれた部分を持ち手にからからと振れば木のボールが音を立てる。そんなおもちゃだ。
「あら? なんだか見覚えがあるわ……」
姉は不思議そうに首を傾げる。
「実はこれ、バックリーウッド領の工芸工房製の物に手を加えさせていただいたんです。持ち手のところに綿を巻いて、布で包むのはわたくしが……」
勝手に改変してしまって申し訳ありませんと、サンディは姉に首を垂れる。
「まあ、ドーラちゃん、素晴らしいわ! 確かに持ち手が綿でくるまれている方が、赤ちゃんの手には握りやすいわね。優しいのね、ドーラちゃん」
「嬉しい、お姉様にそう言っていただけるなんて……!」
サンディは姉に褒められた感激に目を潤ませているが、姉は自領の工芸工房へ送る品質改良の設計書を描くので脳内を目まぐるしく動かしているに違いない。そういう人だ。
あとで正式に改良品が出回り、ドーラちゃんの特許料の一部よ、とサンディに何かかわいらし気な贈り物でもするだろう。
かわいいらし気か……かわいらしい、か。
またもエルネストは立ち止まる。わからない。
そして諦めた。わからないものは仕方がない。
とりあえず、妻(?)と小姑の関係がこじれて板挟みに悩むような日がやってこないのは納得済みだ。
今は、とりあえず。
想像できない未来が、やがて目の前に訪れれば、いやでも実感してそれを受け入れなければならないに違いない。
女の子とは、男をうまく操縦して導く、うまく言えないが船頭のようなものだ。
そして、その掌の上でころころと転がされてやるのがかわいい男なのかもしれない。
自分は今、彼女にころころされているな、と自覚しながら。
それでいうなら、サンディにうまく転がされているような自分は、それだけでかわいい男だとエルネストは思う。
休日の午後。
ヒンクシー公爵家のサロンは姦しい女の子たちの柔らかな嬌声が絶えない。
エルネストはふう、とため息を一つこぼして目の前の平和すぎる光景を眺めた。
王家にもう一人の姫君が誕生したのはそれから二週間後のことだった。
エルネストはこれで五人の甥姪の叔父様になった。
「早く姫様にお会いしたいわ!」
と、昼休みの廊下で盛大におねだりするカサンドラ姫とは、相変わらずである。
少し時間も開いてしまいましたが、後日談一篇投稿しました。
まもなく完結の別連載についても、合わせてご一読いただきますと幸いです。