346
ただいま!
346
明け方から吹き始めた風に海面はひどく波立った。
白波が風に浚われて海面から浮き上がる。
その風は漁師たちの頭にも戦いの延期を想像させたが、しかし夜が近付くにつれて風は次第に弱まっていった。
長老衆の予測が当たった。
安心するよりも、がっかりしたのかもしれない。
そこで気が付く。
戦いの延期を心のどこかで望んでいたのだ。
湾は魔物に支配され、漁もままならない。蓄えは今しばらくあるが、これが続けば食ってゆけなくなる。しかしそれでも怖いものは怖い。
戦いに参加する船長たちは商人ギルドに呼ばれ、ドーフに戦術を叩き込まれた。
皆それぞれが熟練した腕前を持つが、戦闘に関しては素人だった。
もっとも時折、海賊と戦うようなこともなくはなかったし、魔物相手もしたことはあるが、あれほどの大物は海軍任せにするのが常のことだった。
教えられたのは戦う術というよりも、心構えだった。
「安心をしよ。切った張ったは彼らの仕事。我々のやるべきことは、いつものように波に負けないように漁場を確保することだけだよ。慣れた仕事だろう? それをするだけで充分さ」
ランタン、リリオン、ハーディという武力はそれ自体が戦術となり得た。
まだ若い商人ギルド長は余裕の表情を崩さなかった。上の人間が落ち着いているだけで、下の人間は安心するものだということをよく知っていた。
「そうだそうだ!」
エスタスが檄を飛ばして戦意を煽った。選ばれた五人の船長で最も熱意がある。
「さあ、そろそろ時間だ」
ドーフはあくまでも落ち着いた口調で彼らを送り出した。
表には出さなかったが、彼女もまた不安を感じていた。
魔物に船を沈められたサリエの父は死体すら上がっていない。
未だに海を漂っているか。それとも魔物に食われてしまったか。
彼は勇敢な男だった。仲間のために命を投げ打ったのだ。最期に最高の仕事をした。
そんな言葉は慰めでしかない。
自分もそうなるかもしれないという不安は、なかなか取り除けるものではない。ドーフが不安を隠したように、彼らもまたそれを抱えているに違いなかった。
「もう少し、乱暴者ならばよかったのだが」
ドーフは部屋で独り言ちる。
ランタンたちはリヴェランドに来て、まだ一度もその実力を見せていなかった。唯一、ドーフの前でエスタスを組み伏せたことがあるだけだった。
酒場で喧嘩でもしれくれれば、誰もがその実力に納得するだろうに。
現に力の一端を垣間見たドーフはすっかりランタンを信頼している。男惚れと言うほどの熱の入れようだった。
「さあ、やるぞう!」
どやどやとギルドから出る船長たちの中でエスタスが闘志に燃えている。
仲間内でも荒っぽく、虎人族の気質かやや傲慢なところもあるエスタスの心酔っぷりは仲間から見て不可解ですらあった。
しかしエスタスの熱意は本物だ。この男の熱意にどうしようもなく動かされて、彼らは死地たる海へ出るのだから。
騙されていなければいいが、とエスタスに視線を向ける。
この男だけではない。ギルド長のドーフにしても、流れ者の三人の戦士をずいぶんと信用している。
まさか彼女まで騙されているのでは勘ぐりたくなるが、彼女を騙しきれるような男ならむしろ信用に値するのではないかとも思う。
不安は余計なことを考えさせる。
エスタスが惚れたのがランタンではなく、ハーディやあるいはリリオンならば、もう少しは納得しやすい。あの二人の戦士たる体格は、それだけで説得力がある。
ううむ、と唸るがもう後には引けなかった。
すっかり陽の落ちた海岸沿いには既に人がいっぱいいた。
湾の魔物はリヴェランドの住人全ての不安の種だった。今日、それの討伐戦が行われることを街の誰もが知っていた。
炊き出しが行われ野次馬たちに一杯のスープが配られている。具はほとんどないが、魚介の出汁がよく出たスープだった。風はないが気温は低い。
「船長たちが来たぞ!」
「頼んだぞ!」
「がんばって!」
人波を掻き分けるほどの肩や背中を叩かれて声援を送られる。
魔物が棲み着いてから待てども暮らせどもアラスタ王子は軍船を出してくれなかった。住人の不満は募り、そこに湧いて出た勇者たちに期待は膨らんでいる。
船長たちは戸惑ったような表情を浮かべて浜まで降りた。そこには一緒に海へ出てくれる櫂の漕ぎ手や家族が待っていた。
朝方に空を覆ってきたはずの鉛の雲は吹き散らされ、夜空には薄雲が疎らに広がっている。浜の砂を一握り撒いたような星々が微かに瞬いていた。
海面が光っていた。
忌々しい魔物が発光している。それはぼんやりと海面を照らしながら、ゆっくりと回遊していた。まるで海を自分のものだというように。
震えそうになるのを堪えた。
漕ぎ手、部下たちがどういう訳か、やる気に満ちた顔をしている。まるでエスタスのようだった。
その中心にランタンたちがいた。
ハーディが振り返る。
「やあ、来たな」
精悍な顔立ちににっと人懐っこい笑みを浮かべる。伸ばしかけの髭に妙な愛嬌のある男だった。
「はい、どうぞ」
女たちに混じってリリオンがスープを回してくれる。巨人族の血が混じっているという話だが、対面してみれば恐ろしさなどない。
戸惑いながらスープを受け取った。指先が温められる。戦うものの特権だろう、白身魚で作ったつみれがたっぷりよそわれていた。
「ほら、返せ。おもちゃじゃないんだから」
ランタンが子供の手から戦鎚を奪い取った。
自分たちの半分もないような少年の身体。戦鎚を手にするその姿がいやに様になっている。一度、戦鎚を振って、それから腰に結ぶ。
一連の動作が流れるようだ。何百、何千と繰り返したような。
そして、それが血振りの動作だと気が付いた瞬間に、目の前の少年が何か見知らぬ生き物のように思えた。それが生活の一部になっているのだ。
「はーい、ランタン。あーんして」
リリオンがランタンの口につみれを運ぶ。
ランタンは恥ずかしそうにして、冷やかす子供たちを蹴散らし、それからつみれを食んだ。はふはふと白い息を零しながら、噛み締めている。
「ランタンは果報者だねえ。あんなかわいい顔して、ま! 見かけによらないねえ」
女の一人が意味深に囃し立て、目配せし合った。きゃあきゃあ嬌声を上げる。
昨晩ランタンとハーディが男衆と呑んでいる間、リリオンは女衆と一緒にいた。
女のもっぱらの関心ごとと言えば色恋沙汰であり、このリヴェランドへ突如やってきた女一人男二人の関係性は話題の種だった。
女衆の執拗な追及をリリオン一人でかわせる筈もなく、ランタンとリリオンの関係はつまびらかにされたのだった。
ランタンは嫌そうな顔をしてリリオンを睨んだ。リリオンは誤魔化すように微笑む。
年相応の少年の姿だが、もう単純にそうとは見られなかった。
「腹ごしらえしなくてもいいの? もう時間はないよ」
見ていた船長たちにランタンが声をかけた。思い出したようにスープをがっつく。魚肉をよく叩き、卵を入れて練ったつみれはふわふわして甘みがある。
「ああ美味え……」
慣れ親しんだ味だった。今日も、明日も食べ続ける味だ。
そのためにも戦わなければならない。
遅れて浜に降りてきたドーフは、船長たちの顔を見て感心し、同時に畏れも抱いていた。
これが英雄というものだ。
自分の周囲にあるものたちを、喜びとともに死へと駆り立てる。
ドーフは白い毛に覆われた項を温めるように撫でた。
「さあ、お三方。みんなも準備はいいか?」
おおう、と腹ごしらえをすませた集団が吼えるように声を張り上げた。
「ほら、これを持っていって」
虎人族の女がエスタスの腕を掴み、そのたくましい胸に何かを押しつけた。
安全祈願の模様が刺繍されたお守りだった。
エスタスばかりではない。戦いに行く男たちに、女たちが思い思いのお守りを渡している。
エスタスは礼を言いながら受け取り、その視線はサリエを探していた。サリエは離れたところで海を見つめている。虎の女が寂しげな、恨めしげな視線をエスタスにぶつけた。
「はい、ランタン」
ランタンにはリリオンから海鳥らしき模様が刺繍されたお守りが渡された。
「わあ、ありがとう。でも僕なにも用意してないよ。なんかあったかな」
ポケットを探るランタンの腕をリリオンが取った
「ランタンはいてくれるだけでいいの」
真面目な顔をしてそう言って、人目も憚らず抱きついた。もう冷やかしすらなく、呆れるしかなかった。
「――俺には誰もなにもないのか?」
ハーディががっかりしたように呟いた。
女が一人思い出したように進み出る。
「騎士さま、ちゃあんと用意してありますよ。どうか、どうかあの化け物を、きっとやっつけて下さいませ」
「おお、やった。――もちろんだとも、約束しよう」
ハーディは大げさに喜んだかと思うと、見事な騎士の作法で女の前に跪いた。
ハーディが女を見上げると、女はたちまちに赤面した。
「貴女のために、この海をやつの血で染め上げて見せよう。青く、豊かな海を貴女に捧げると誓う」
面と向かって告げられた女ばかりではない、ともすればあたりを囲む男たちまでも、遠巻きの野次馬たちさえもがその一幕に見惚れた。
「……おっと、いかん」
ドーフが我に返って顔を振った。
「――さあさあ海軍も尻込みする化け物退治だ。男を上げる絶好の機会だよ。このままじゃあ騎士さまに惚れた女をみんな持ってかれちまうよ!」
啖呵を切って、若い男の股間を握り潰すみたいに鷲掴みにした。
「ぎゃあ!」
「はっは、なんて声を上げてんだ。よおし、びびっちゃいないね! リヴェランド漁師の勇気を見せておやりよ!」
ランタンが指を弾いた。
すると浜に用意された五艘の船の先端に火が灯った。
煌々と燃える漁り火だった。
「さあ、行こうか」
船長も漕ぎ手も、その表情に怖れなど少しもなかった。
男たちが船を浜から海へと押し出した。
寄せて返す波を踏み付けて、下肢が濡れることを少しも厭わない。最後の一押しをして船を浮かべ、船長が最後に乗り込んだ。
船は五艘。
二艘は囮であり、予備でもある。
船首にはそれぞれ獣頭の飾りがあり、その額から長く突き出た角の先端に漁り火が下げられている。
三人はそれぞれ別の船に乗り込んで船首近くに位置した。
ランタンが乗った船の船首には虎の頭が飾られている。勇ましく牙を剥いた虎は沖合を睨みつけている。船長はもちろんエスタスだった。 櫂の漕ぎ手は左右に五人ずつ計十人、大柄な亜人族の男たちだ。
狐頭にリリオンが、熊頭にハーディが乗っている。
「エスタス、一番銛をもらうよ」
船に積み込んである銛は鯨漁用のものだ。三本用意された内の一本をランタンは拾い上げた。
ランタンの要求にエスタスは鼻を膨らませた。虎毛が興奮に逆立った。
「おうともよ! 野郎ども行くぜ!」
浜からドーフが戦太鼓を叩いた。
どん、どん、どん、とそれは砲声に似て勇ましい。
音に合わせて一糸乱れずに櫂を漕ぐと、船は海面を滑るかのように進んだ。穏やかな波の波頭を踏む、踊るように船首が跳ねた。
船乗りでも転落するような衝撃にランタンはびくともしない。小さな背中が頼もしかった。
魔物はエイの姿をしており、怖れを込めて漁師たちは月魚と呼ぶ。
それは海面に映った月の姿に似ていた。
鯨のような大きさで、妖しく光り、近付く船を沈め、魚を食い荒らす悪魔である。恐ろしいのはその巨体で飛魚のように飛ぶことだった。
サリエの父の船は、飛んだ月魚の腹に帆柱を引っ掛けられて、そのまま海中へと引きずり込まれた。帆のない船を使うのはそのためだ。
長期戦ならまだしも短期決戦。機動力を融通の利く人力に任せた方が利が多い。
沖合に近付くと、海一面が光っているように見える。遠くからはあれほど目立っていた月魚の位置を確認するのが不思議なほどに難しい。
「西へ切り上がるぞ!」
だがエスタスは迷うことなく命令を下した。
戦太鼓の音がよく耳に届く。漕ぎ手の拍子を合わせるためのものから、月魚の位置を教えるための信号に変わっている。片側の漕ぎ手が逆進をかけると、船は独楽のようにその場で旋回した。
波が変わった。
泳ぐ月魚が発生させた波だった。
「これか」
ランタンは船首の虎頭を踏みつけにして海面を睨みつけた。
直径十メートルはあろうかという巨大な円形。揺らめく光の鰭の縁を船は進んでいる。
光のせいで海面すれすれを泳いでいるように錯覚するが、数メートルも下にいる。暗い海の中で流れ星の軌跡のような長い尾がいかにも不吉だった。
「こっちだ」
ランタンの言葉で漁り火が破裂した。衝撃が海面を叩いた。月魚が反応した。尾がくねり、方向を変える。緩やかに浮上し始める。
ランタンたちと正面から向かい合う。その背に押し上げられた海面が、のそりと盛り上がって波となった。船首を波へ向ける。
「そのまま交差しろ!」
「ぶつからないか!」
「びびって速度が落ちなきゃ背に乗り上げるだけだ! 僕は跳ぶ!」
「よおし、さっそく見せ場だ。野郎ども、手を緩めるなよ!」
ぐん、と速度が更に上がった。
風が頬を叩く。
ハーディと比べればランタンの体重は半分もない。軽い分だけ船は速かった。波頭を踏み付け、船が跳ねた瞬間にランタンは虎頭を踏み切って跳躍した。
銛を振りかぶる。
上から見ると月魚がよくわかった。鰭を貫いてもさしたる傷にはならないだろう。エイと言うよりは、鯨や鮫に半月形の鰭を与えたような印象が強い。
「とりゃぁ!」
海面に露出した背の中心を狙って銛を打ち込む。
がり、と岩にぶつかったような音だった。銛の先端が砕け散り、柄が半ばからへし折れた。
慣性に従って前進したランタンは、背後から追いついた船に着地して振り返った。漕ぎ手は櫂を、エスタスは舵を浮かしている。
通り過ぎ様に月魚の尾の付け根に船尾が擦った。
「おおっと、危ねえ! 浸水なし、漕ぎ方始め!」
鯨のように尾で海面を叩く。水柱が立ち上り、土砂降りのように海水が落ちてきた。巻き起こった渦に飲み込まれそうになるのを必死の櫂漕ぎで脱出する。
「硬い。一番銛だったけど決まらなかったな」
後から追ってきたリリオンとハーディの船が月魚と接近する。一部始終を見ていたようで、二人は既に銛から剣へと持ち替えている。
「どうする?」
「背が通らないなら腹だ。追える?」
「足は向こうの方が早えからな。旋回、回り込む!」
月魚はリリオンの乗る狐船へと向かっている。
先程の光景を確認したのだろう。尾を避けるために斜めに交差しようとしている。行き足をわざと緩めた。ランタンたちのように背の上を行くのではない。
跳躍を誘導した。
月魚の巨体が露わになる。数トンはあろうかという魚体が、海を巻き上げながら弧を描くように跳んだ。狐船の速度が急激に上がった。帆がないからこそできることだ。月魚の腹下に潜り込んだ。
リリオンがその長身を活かして大上段に剣を構えた。その鋒が艶めかしく白い月魚の腹に触れる。リリオンはいっそ背伸びをするように身体を伸ばしたままで、船の方が危うく沈みかねないほどに海面へ押しつけられた。
刃が通らない。
魚特有の柔らかさが切れ味というものを包み込んでいる。
リリオンは咄嗟に反転し、剣の先端で腹を押し船を加速させた。着水の大波で船が大きく揺れる。リリオンが踏鞴を踏んだ。
「やったか!?」
「いや。硬いやら柔いやらで刃が通らん」
「斬れないのか?」
「あの子なら斬れる。だけど足場が悪いな」
ハーディの熊船から一本の銛が投擲された。それは海面を貫いて月魚の鰭を貫通した。しかし月魚はまったく意に介さぬように悠々と泳ぎ回っている。
海面からロープが伸びる。銛に結ばれたロープをハーディが握り締めていた。熊船が月魚に引きずられる。船長が必死に舵を取り横転を防ぎ、漕ぎ手は櫂を抱きしめて身体を丸めている。
月魚が跳んだらお終いだ。
しかしハーディはロープをむんずと掴み、手繰り寄せていた。船がじりじりと月魚に接近している。月魚の速度が落ちようにさえ思えるのは気のせいだろうか。馬鹿げた力だった。
月魚が振り解こうと尾を上下させた。向こうの船長の神がかり的な操船技術で柱のような波を回避する。
この距離でもわかる。ハーディは笑っている。船長の顔は引き攣っていた。
再び尾が振り上げられる。光が強くなった。鯨のようだった尾びれが形を変えた。文字通りに海面を割って、一条の光が振り上げられた。ロープが切断された。物理的な破壊力を持つ魔道の光だった。
ハーディが吼える。身体を丸めていた漕ぎ手が全速力でそれに応える。突き動かされるように船を前進させた。ロープをすでに手放したハーディの手に剣が握られている。
熊頭から突き出た角が光に触れ切断された。漁り火が海中へ没し、なお燃え続ける。
ハーディの横払いが光の剣と交差し、一瞬視界の全てが真白く焼き付き、それを斬り払った。光がほどけるように霧散して、月魚の尾の先が切断されている。
「よせろ!」
ハーディは無事でも、船員の目が眩んでいる。船は惰性で進み、傷つけられた月魚は反転し熊船を狙う。体当たりをして沈めようとしている。海面から透ける鰭の動き。身体の沈みと、尾のうねり。
リリオンの船の位置。
「やめてくれ!」
エスタスが悲鳴のような声を上げた。仲間の船が沈められる。そう思うのも無理はない。
「跳ぶ!」
ランタンが叫んだ瞬間に、月魚が跳んだ。そしてランタンも。
月魚は空中で身体を捻る。硬い背中から熊船へぶつかろうかというように。
ハーディだけならば、そのまま彼に任せていただろう。だが斬ったとしても、その余波で船員はひとたまりもない。
ランタンは戦鎚を振りかぶった。斜めになった月魚の背中に戦鎚を叩き付ける。鱗を持たない魚だった。
細かく鋲を打ったようなエナメル質で構成されている。硬く、それでいて柔らかいのは魚の肉質のせいだろう。濡れた皮膚。何らかの粘液を出している。糸を引き、それが微かに発光している。
爆炎が迸った。
炎が月魚の表面を走った。粘液が焼き付き、海水が塩となって焦げる。
月魚の巨体が見えざる巨人の手に押し込まれたように空中でずれた。熊船への直撃が免れる。爆音に眼を覚ました船員が居眠りをどやされたように櫂を漕いだ。
ランタンは爆発の反動を蹴り出して、リリオンの船に着地する。
大柄な漕ぎ手で構成されたランタンの虎船と違い、リリオンの狐船はやや小柄な十八名の漕ぎ手を有している。船長は寡黙そうな狐人族の男だ。サリエの親戚のはずだった。
「すこし無茶を頼んでいいか?」
「どうぞ」
言葉とは裏腹に目は血走っている。
ランタンはリリオンの尻を引っぱたいた。
「最初と同じことをする。ただし場所はあそこ。どんぴしゃで着けれる?」
「お任せ下さい」
「リリオン」
「まかせて!」
「よし」
エスタスが船を寄せ、ランタンはそちらへ移った。
囮の二艘が必死になって月魚を引きつけている。煌々と燃える漁り火に、鍋釜鈴をじゃんじゃん鳴らし、撒き餌を大盤振る舞いしている。生きた心地がしないだろう。
その間にランタンはハーディの船へと寄せた。
「――俺は構わん。いけそうか?」
「もちろん! 挽回させてくれんだろ。このままじゃドーフの姐さんに顔向けできんからね」
熊人族の船長が気合いを入れるように顔を叩いた。
三艘の船が一つの意思によって動き出した。信号を送り、囮の二艘に戦域からの離脱を促す。
ランタンが爆発を巻き起こして、囮船から月魚の注意を引きつけた。狐船が予定の場所に停泊する。残りの二艘で月魚を誘導する。
リリオンを挟んで月魚と対角線上に並んだ。そしてリリオンの向こう側に熊船がいる。月魚に船体を晒して予定場所に導いている。
距離と速度。
初動はハーディの銛打ちだった。
月魚は海中に潜っている。深くはないが、このままでは斬ることはできない。跳ぶことの不利を悟ったのかもしれない。船の近くの海面にちょっと顔を出すだけで、船をひっくり返すことなど簡単なことだった。
海面に対して浅い角度で銛が放たれた。先端の炎はランタンのおまけだった。
それは海中に潜む月魚の、正面寄りに付いている右の目に真っ直ぐ向かっている。炎の赤が月魚にはよく見えたはずだった。そして更に角度をつけて二投目を数秒遅れで放った。
更に潜って躱すことはできない。
急浮上を余儀なくされた月魚が、勢い余ってその魚体を空中に投げだした。浅い弧を描いて跳ぶ。リリオンの頭上を覆い、そのまま跳び越すだろう。
その時には――
狐船が動き出す。虎船はすでに全速力だった。漕ぎ手の腕は編み目のように血管が浮き、痙攣や内出血さえ起こしている。
「漕げ漕げ漕げ漕げ! 腕が千切れても止めるなよ!」
月魚の寄せ波に船首を合わせる。
波に乗り上げて船首が跳ねる。
ランタンは最初の最初と同様に、虎の頭を踏み付けて跳躍した。月魚の上を取る。そして月魚を挟んで向こう側にリリオンがいる。寸分のずれもない。見えずともわかる。完璧だった。
月魚の背中。一番銛の砕けたところにランタンは戦鎚を叩き込む。ぬるりとした感触、海の冷たさそのものが、戦鎚を通じて伝わってくる。
強烈な爆発が、上下から発生した。
背中に押しつけられた爆発が月魚の身体を沈める。
大剣の鋒が月魚の腹の柔らかさを貫いた。
そして海中に沈んだ熊船の漁り火が、海底火山のように炸裂して沈むはずの狐船の船体を海面ごと押し上げる。腹を貫いた鋒が、骨を割り、月魚の背からぬっと覗いた。
雷鳴に似た背骨が縦に断ちきられる音が弾ける。
リリオンは尾の付け根までを一気に割った。
月魚の腹から内臓が零れた。そしてそのまま海へと還っていく魚体を潜って二艘の船が波に煽られながら生還した。
寄せ波に尻を押されて危うくランタンを背後に置き去りにするところだった。
船尾に位置する虎の頭を踏み付けて、ランタンが船に着地する。
「おっと、ごめんね」
エスタスは船上に立ち竦み、背後を振り返っている。
エスタスばかりではない。漁師たちは皆、陸にいるリヴェランドの住人も皆、海を見ていた。
月魚の光が海面に溶け、湾一面に広がる。
その血で青々と染まったリヴェランドの海が照らし出された。
どこに隠れていたのか、次第に月魚の内臓を突きに魚が集まってくる。
豊穣の海だ。




