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重力の、その強弱と方向が目まぐるしく入れ替わる。
そういう迷宮の、最下層だった。
輪を掛けてひどい。
視界の外から浮星が体当たりしてくる。小さいものなら息が詰まる程度だが、大きいものでは骨が砕ける。
鼻を突く酸い匂い。
ローサの吐瀉物の臭いだ。
入ってくるなと言ったのに、好奇心に引かれて顔を覗かせたのが運の尽きだった。
そのまま最下層の引力に引きずり込まれ、無重力を泳いだのも束の間。あっという間に上下左右を見失い、ついでに身体の制御も失って先程からぐるぐると回っている。体勢を立て直そうと手足をじたばたさせるが、それが回転に余計な複雑性を与える悪循環だった。
胃液混じりの迷宮食が不定型生物のようにふよふよとしたかと思えば、重力の方向に引き寄せられて星の一つにへばりつく。
「ローサ、――ぁあっ!」
逆さまのリリオンが反応して背後を振り返る。
その途端に重力が反転した。リリオンが体勢を崩し、ローサに似て回転するが、浮星に剣を突き立て己の身体を静止させた。
塗り潰したような闇に無数の星々が浮かんでいる。
その中心に最終目標はある。いや、中心こそが最終目標だった。
不動星。
卵の黄身のような色合いの球体がこの迷宮の主だった。不動星にはぎょろぎょろとした無数の眼と、人のものに似た無数の腕が備わっている。
巨大な天体だった。
腕は己を掻き抱くように畳まれているものもあったが、多くはそれぞれに意思があるかのように好き勝手に動いていた。
爆炎を蹴り上げ、ランタンが闇を切り裂き不動星に接近する。
この異様な空間に早くも適応しているのは、探索者としての資質と経験だった。
爆発を推進力に、戦鎚の振り子によって姿勢と方向を制御する。重力の反転に合わせて瞬時に身体を反転させ、重力それ自体が失われれば爆炎によってその空間を突っ切った。
重力の変動は腕の動きと連動しているようだったが、腕の数があまりにも多すぎて、その規則性を見極めることは不可能だ。
ともあれ近付かなければならない。
長短自在な不動星の腕が、ランタンに向かって突き出される。
肉の柔らかさを思わせる生々しい掌にはしかし一筋の皺もなく、どのような動きをしてもつるりとしている。
こちらへ来るなとでも言うように向けられた手が、ばっと指を開いた。
その瞬間にランタンは自重が倍増するのを感じる。不動星の重力に捕まったのだ。
音を立て血の気が引いた。視界が狭まり、暗くなった。内臓位置が落下し、下腹が膨らんだ。下肢が浮腫み、戦闘靴の内側でふくらはぎが締め付けられる。
自重に速度が殺されてランタンは浮星に墜落するように着地する。その地表が重みに砕けた。膝に嫌な音がする。ランタンは限界までしゃがみ込む。下肢の毛細血管が破裂し、ちくちくとした痒みをもたらした。
だが跳ぶ。
飛んで、不動星に近付く。
べた足にして接地面積を増やす。姿勢の制御。重力の鎖を引き千切る勢いを溜める。不動星への到達経路の確認。ランタンの燃えるような瞳が重力の波を感じ取る。
巨大な影。
不動星の指が、呪印を組むように複雑に絡み合い、そして下方向へ向けられている。
浮星の一つが、ランタンに向かって落ちてきていた。
まさしく隕石だった。膨大な質量が前方の大気を圧し、圧縮された熱量が赤化をもたらす。
行く手を塞がれる。
身を焦がすほどの熱量を発する隕石に飛び掛かったのはルー・ルゥだった。
「ランタンさまっ!」
彼女の有する重力の魔道は、この迷宮の道中を攻略するのに役立った。彼女がいなければもっと攻略に時間がかかっただろう。そして最下層においても彼女の力は遺憾なく発揮されている。
身を任せるしかない重力の奔流を彼女は泳ぐ。
自在に泳げるがゆえに、その激しい流れに身を委ねることができる。
緑の髪が揺れる。千切れるほどの速度で後ろに流れる。肌が引き攣る。眠たげな垂れ目が鋭く吊り上がった。
加速。不動星が罠のように設置した引力を己の加速に利用する。衛星が公転するかのように大きく弧を描く。天文学的な円軌道だった。遠心力に彼女の肉体がさらに速度を増した。
いっそ吹き飛ばされてしまいそうな彼女を引き寄せるのは、より強力な引力だ。
隕石。
今にもそれに押し潰されそうなランタンが、引力の源なのかもしれない。
隕石のように、胸ぐらでも掴まれて強引に引き寄せられるようにルーがランタンに向かって落下する。
女の顔に笑みが浮かんだ。隕石が迫っても少しも身動きをしないランタンの姿は、まさしく自分への信頼そのものだからだ。
祈るように両手の指を絡める。彼女自身が小さな星のように身体を丸める。両肘と両膝がくっつく。
ルーは溜め込んだ力を一気に解放した。引き絞った弓のようにルーの肉体が弧を描く。振りかぶった両手が尾骨に触れる。彼女はその瞬間に、再び肉体を折り畳んだ。
隕石に振り下ろされた両手はまさしく鉄鎚である。打撃音はおよそ肉体の奏でる音ではない。隕石は方向を変えるよりも先に亀裂を発生させ、百を超える破片となって砕け散った。
投網のように広がった破片の隙間をランタンは見つけた。
ランタンは一気に膝を伸ばし、爆炎は長く尾を引く。星の破片の隙間を、ランタンは流星のように貫いた。
ざわざわと不動星の腕がランタンに集い、襲いかかる。
間近で見るとその手は大きい。ランタンを容易に鷲掴みにする。まるで巨人の手のようだった。
その手は彫刻のようだ。砂岩を削り、滑らかに磨いたような。粒子の集積。
速度に回転を与える。戦鎚が迫り来る腕を打ち据える。打撃音がもろもろとしている。
ランタンは手応えのなさに違和感を覚える。柔らかな土塊のような、いや煙のような。
不動星の腕が脆く崩れる。
打ち据えたその微かな反動を利用してランタンは加速し、隙間から隙間へと前進する。
もうすぐそこだ。不動星は大きく、近付くとその全容を捉えることができなくなる。袈裟懸け。ランタンは腕の一つを叩き潰し、その粒子を被りながら戦鎚を逆手に持ち替える。
その先端が熱を発した。
赤く、白く、ただ眩しいほどになる。
不動星の無数の眼が、粒子の影から突き抜けたランタンに一斉に向けられ、そしてあまりの眩しさに瞼を閉じた。
ただ一つ、それが適わぬ眼が一つ。
ランタンは真っ直ぐにその眼の上に着地をし、まったく間を置かずに戦鎚を突き入れる。
不動星の虹彩が真白に濁り、水晶体や硝子体が沸騰する。内側から破裂するように無数の穴が開いた。
その一つだけではない。
伝播した熱量がその周辺の眼さえ焼いた。ぼこぼこと気泡が膨らみ、やぶれ白い蒸気を噴き出した。
それに触れたランタンの露出した肌が見る間に赤く、水ぶくれを引き起こす。
動かぬはずの星が震えた。それは不動星の声なき悲鳴だった。
無数の腕が反射としか言えぬ、人臭い動きで焼かれた眼を押さえつける。
頭上から襲いかかる手をランタンは横っ飛びに避ける。ランタンの手から戦鎚が失われていた。柄の半ばまで埋まった戦鎚は、眼に噛み付かれたみたいにびくともしなかったのだ。
十重二十重に重なる手の群れに戦鎚はすっかりと覆い隠されて、なお止まず手は殺到する。
掌打の雨だった。
不動星は自らを砕くほどに手を叩き付け、だが粉砕の破片も土煙も上がることがないのはそれが重力に押さえつけられているからだった。
ランタンは掌打から逃れようと不動星の表面を獣のように駆けた。
強烈な重力場が発生している。
その重力から脱することは不可能のように思えた。爆発力を持ってしても、速度が足りない。気を抜けば膝を突く。そのまま倒れ込んで、地面にめり込んでしまうかもしれない。
重力の影響を受けるのはランタンばかりではない。
最下層内のあらゆるものが引き寄せられていた。ゆっくりと引きずられるみたいに動き出したかと思えば、それはぬるりと加速し、不動星に近付くほどに速度を増した。
浮星が不動星に叩き付けられる。
「ランタンっ!」
逃れようのない流星群の隙間にランタンの姿があるのをリリオンは見た。
姉は妹の背に乗っている。
「おにぃちゃああぁぁぁあん!」
流星群の中にあってそれは眩しい。
虎の跳躍だった。胃液に口元がぬらつく。重力の波に乗る。引き寄せられるよりも早くそれに近付く。しなやかに伸ばされた四肢。お守りじみて握られた木槍。腹の白い毛が靡く。
どうしてそれが星なのか、浮星の黒や白の灰の色味のなさが不思議でしょうがない。星は夜空で光り輝いているのに。
ローサは追い越した浮星を後足で蹴りつける。
加速し、姉がその背から飛び立った。
美しい背中。硬く編まれた三つ編みが、人ならざるものの尾に見える。
いいな。
憧れの背中だった。
左腕を被う、竜骨の腕甲が隕石と化した浮星を殴りつける。星は大きく三つに分割され、軌道が僅かにずれる。右手に剣。峰は厚く、刃は荒く研ぎ出されるばかり。先端の鋭さも、それを鉄杭に見せるだけだった。
右手に握り、右肩に担ぐ。
ローサはその起点がわからない。
踏み込みか、腰の回転か、それとも右の肩甲骨の開きだろうか。
振り下ろし、斜めに斬り上げ、横一文字に終結する。
断、断、断。
邪魔な浮星を引き千切るように切り裂く。刃の入る角度が悪くともリリオンは無理矢理それを振りきった。星と星の間に挟まれて、切り裂いた後の剣は波打ち、捻れ、歪である。
螺旋し、縒り合わさる。
無数の腕が絡まり一つの腕になる。古木のように太く、呪わしい感じがした。拳に掌が重なり更に巨大な拳となった。それが開いた時、それは一つの巨大な手となってリリオンを握り潰そうとした。
斬。
人差し指と中指の股から小指方向へ斜めに、手首まで刃が通った。
まだ保っている。だがもう危うい。
歪な形のそれを、誰が剣だと思うだろう。
不動星の表面にランタンがいる。その姿が歪むのは強烈な重力せいだ。
リリオンが切り裂いた手の塊がランタンへと向かっていた。小薬中の三指がそれだけでしぶとく拳を作った。握り込み、自らを圧縮する。硬く、重く。
ランタンは蹲るようにして微動だにしない。
リリオンは迷わない。ランタンから視線を切った。着地点を探す。
ルーの緑の髪が逆立った。ランタンの傍らにあって不動星を踏み締める。拳を固める。力比べだった。掌に爪が食い込む。自らを押さえつける重力に反抗する。
「はあぁっ!」
拳を真上に突き上げ、不動星の拳と激突する。表面に亀裂が入ったが、ルーの拳からも血が流れる。その血は逆巻いた。頭上にある不動星の拳へと垂れ上がった。染み込む。膨大な質量を支える。ルーの肩が嫌な音を立て外れ、膝が沈む。
ランタンが顔を上げる。
「リリっ!」
叫んだ瞬間、不動星の一部が破裂した。不動星の内部に埋まった戦鎚を遠隔起爆したのだ。武器を己の一部とするからこその技だった。重力で圧しきれぬ爆炎が膨らんで弾ける。
爆心地は寄り集まった腕の根元だった。不動星が大きく抉れ、腕が根元から引き千切れる。
すり鉢状の大きな窪みに、戦鎚の柄が露出する。
リリオンはその傍らに着地する。手にした剣を墓標のように突き立てる。
代わりに戦鎚を引き抜いた。
自分の手には細すぎる柄をしっかりと握り込む。温かさはランタンの体温に違いない。
リリオンは戦鎚を振り下ろし、一撃で剣を根元まで打ち込んだ。
その捻れが、歪みが、そして厚みが不動星の巨体に亀裂を産み出す。
まさに楔だった。
ローサが炎の尾を引いて駆ける。
いつの間にか不動星に辿り着いていた。
ランタンとルーの身体を問答無用に腕に抱くと、まったく速度を落とさず駆け抜けた。支えを失った拳が不動星に落下する。押し潰されることはない。やってやったと言わんばかりの表情でローサは駆ける。その背後で濛々と土煙が上がる。
亀裂が広がり、深まる。不動星が真っ二つに割れた。
その中心に核がある。それは固体でも液体でも気体でもない。
魔精に基づく生命体、霊体とでも言うべきもの。
いやまさしく天体だろうか。
生半な武器では干渉することのできないものだ。
リリオンはそこに向かって躊躇なく飛び込む。
リリオンの手にあって、戦鎚が白熱化する。
「たああああああ!」
戦鎚を叩き付ける。
「どうしたの?」
「ローサくさい」
へとへとになって帰還した。
ローサは、いつものようにミシャに甘えなかった。もじもじとして、ランタンの背中に隠れたが、もちろんその巨体は隠しきれない。下唇を突き出しているのが丸わかりだった。
「目回して、ゲロ吐いたんだよ」
「あら、そうなの?」
「言うこと聞かずに最下層に入ったんだ。最後の方には慣れてたけど。攻略報告の前に風呂だな」
ランタンは叱るよりもむしろ褒めるように、ローサを振り返って頭を撫でてやった。
ミシャはようやく気が付いたとでも言うように、ランタンたちの姿を改めて確認して眉を顰めた。
へとへとなだけでなく四人ともぼろぼろだった。探索装束は破れ、所々が血に染まっている。探索の過酷さを物語っている。
「大変だったの?」
「大変だったよ、いつも通り」
ランタンは思い出したように靴に装着した突起を外した。低重力、無重力の迷宮内を探索するために、この突起を地面に蹴り込んで身体を固定するのだ。ぴかぴかに研いで探索を開始したのに、鋭さはすっかり失われている。
背後ではルーが跪き、リリオンの爪先からそれを外していた。リリオンは荷車の後端に腰を下ろしている。立っているのも辛いというような感じだった。
「ありがとう、ルーさん」
「いいえ」
ルーはそれを荷車に優しく乗せ、ランタンは乱暴に放り込んだ。ルーは少し笑い、それを丁寧に揃える。
ミシャは爪先立ちになり、荷車を覗き込む。
「重い重いとは思ったけど、ずいぶんな戦利品ね」
「迷宮内だと軽いから、ちょっと調子に乗りすぎた」
迷宮から運びだした戦利品の大部分は不動星の破片だった。正確に言えば金属資源を内包する破片だ。
もっと余計な部分を削ぎ落としたり、選別をしたりすればよかったのだが、迷宮内の低重力のおかげで重さはそれほどではないのでその手間をさぼった。
そのつけを地上で払わなければならない。運ぶこともそうであるし、精錬するのにも余計に金が掛かる。
「ローサ、運べそう?」
「がんばる!」
「わたしも――」
リリオンが荷車から降りようとするのをランタンは止めた。
「いいから座ってな」
戦いで痛めた膝を撫でてやる。その膝頭の小ささが愛おしいが、熱を持っているのは心配だ。リリオンはくすぐったそうにしたが、足をばたばたとはさせなかった。
「ルーもさぼっていいよ。働きっぱなしだろ」
「では、お言葉に甘えまして」
ルーはリリオンの隣に腰を下ろした。もちろんただ座るだけではない。その重力の魔道でもって、積荷の重量を軽減する。こういうことを迷宮内でほとんど休まず続けてくれた。
「よし、ローサ行くぞ」
「おー!」
ランタンが押して、ローサが牽く。
ルーの魔道に気が付いていないローサが自慢げに言った。
「ローサちからもち!」
「ああ、そうだな。がんばれがんばれ」
重量を軽減しても重たいものは重たい。車輪がぎしぎしと音を立てながら回った。迷宮特区の地面に深々と轍が刻まれる。
「段差に気をつけるんだぞ」
「うんっ!」
返事だけはいい。ローサは力強く荷車を牽く自分に気分がよくなっている。
すれ違う名も知らぬ探索者たちが親しげに声を掛けてくるのに、ローサは愛想よくそれに応えた。誰に対してもにこにこできるのは一種の才能だろう。
ランタンの方はランタンで探索者から拝まれたりする。迷宮攻略を成功させ続けるランタンは一種の縁起物だった。ローサのように愛想などよくはないが、それでも勇気づけられるのならばと好きなようにさせている。触ってくるような奴は引っぱたくが。
「あ、照れてる」
「うるさい」
リリオンに指摘され、ランタンは荷車を押す振りをして俯いた。
「そのお顔を見せてくださいませ」
「覗き込むな」
ランタンがそっぽを向くと荷物と化している二人が笑った。
迷宮特区から外殻壁をくぐる際の段差に車輪が跳ね上がった。荷台で破片の山が崩れ、リリオンとルーが尻を荷台に打ち付ける。
リリオンが恨めしげな声を上げる。
「ローサぁ……」
「なにー?」
「――なんでもないわ。がんばって」
ローサは脳天気に返事をし、ずんずんと進んでゆく。舗装路に出ると、もうランタンが押さなくても充分だった。ルーの魔道の補助もないが、その事にもローサは気が付かない。
力強い四つの足運び。目を見張る成長速度だった。
「とうちゃーくっ!」
額に汗、息が上がり、白くなった吐息が白炎のようだ。
「よし、ご苦労。荷車はそこでいいよ。どうせまたすぐ出す」
「うん!」
ローサは慣れた様子で荷車との連結を外した。するとすぐに荷車の後ろに回り込む。
「おねーちゃん、のって、のって!」
「大丈夫よ、そんな大げさなことじゃないんだから」
「だめ!」
躊躇うリリオンを、ランタンは問答無用に抱き上げた。探索の匂いがする。リリオンをローサの背中に座らせる。
「風呂場でもう一度確認するからな」
「心配性なんだから」
「そうだよ。――ルーも風呂はいってくよね?」
「お誘いいただけるのなら、ぜひ」
「誘ってるよ。――ただいま、ガーランド、お?」
ランタンが扉を開けようとした瞬間に、自動的に扉が開き館に引きずり込まれた。
「入れ、入れ」
待ち構えていたガーランドが急かすようにリリオンたちを館の中に招き入れ、すぐに扉を閉めた。
「ガーランド、どうしたんだ?」
ガーランドは武装していた。これから討ち入りにでもいくかのようだ。半透明の触手髪が戦いの先触れのように揺らめき、腰から二振りの曲刀を吊っている。
ランタンは目を丸くする。ガーランドの奇行は珍しいものではないが、このような状況は珍しい。彼女は武力行使をさらりとやってのける。
「留守中、お前を訪ねてやってきた男がいた」
「男? 男の知り合いなんてそんなにいないけど。侵入者か?」
「正面からだ」
「じゃあ強盗か」
「いや、私は知っているぞ。あれは道場破りというのだろう」
ガーランドはもっともらしく告げる。
「道場破り? 道場を開いたことも、看板を掲げたこともないけど。なんか勘違いしてる? まあ、いいや。それで、その道場破りをどうしたの?」
「斬り損ねた」
「斬り損ねた?」
ランタンは道場破りという突飛な言葉よりも、斬り損ねたと言うことに驚きを示した。
「へえ、やるなあ。そいつ」
単純に感心したランタンに、ガーランドは目を細めた。
「怒らないでよ。押し入られた訳じゃないでしょ? 追っ払えたんなら上出来。お留守番ご苦労さま。お風呂の用意できてるよね?」
「……ああ」
「よろしい。じゃあ、先にお風呂入ってきな。ルー、二人の世話をよろしく」
暢気なランタンにガーランドは苛立っている様子だったが、ルーはいつもの変わらぬ微笑を浮かべて頷いた。だがさすがにリリオンが口を挟む。
「ランタンはどうするの?」
「もうちょっと話を聞くよ。強盗でも道場破りでもいいけど、風呂覗かれたら嫌だから」
ランタンは外套を外して、それをリリオンに投げ渡した。
「そんな顔しない。まったく心配性だな。ほら、ローサ。お姉ちゃん運んでやんな」
あっけらかんとするランタンにリリオンは唇を尖らせる。リリオンが小言の一つでも言おうかという時、ローサが姉を浴場に運ぼうかというその時、館に大声が響き渡った。
「――たのもう!」
それはまさしく道場破りの声に違いない。
「わたくしめが、相手をいたしましょうか?」
ルーが控えめに窺う声が、続く大声に打ち消される。
「――ランタンはいるだろうか!」
「用事があるのは僕みたい。しょうがない、行ってくるか」
ランタンは気軽に呟き、戦鎚を手に扉を開いた。背後にガーランドが付き従う。
「あれか?」
振り返りもせず尋ねると、ああ、とガーランドが頷く。
「ふうん、ここで待機。ローサのお守りしてな」
そこには大男がいた。ベリレとどちらが巨躯だろうか。上背も身体の厚みもランタンとは比べものにならない。
荷物を山と詰んだ馬を牽き、見事な鎧に身を包んでいる。それは騎士の鎧だった。
旅の武芸者だろうか。なれば道場破りという表現も頷ける。
力比べに技比べ。己の名をあげるために、武芸者が名のある戦士に勝負を挑むということはままあることだった。それは手合わせだけでは済まず、命のやり取りになることも珍しくない。
面倒な手合いだ、と思う。
ガーランドが斬り損ねたのなら、それなりに腕が立つのだろう。状況は向こうにとっては良く、こちらにとっては悪い。探索終わりをまさか狙ったのだろうか。それならば道場破りと言うよりも、新手の襲撃者ではないか。
しかしランタンは無造作に近付く。それは自信の表れだった。
だが、あれ、と思う。
これはそれなりどころではない。
かなり、とても、すごく、恐ろしく強いのではないか。
ランタンは怪訝な顔をしながら、その騎士の顔を覗き込んだ。見慣れぬ髭面だ。男はにっと笑った。まだ若い笑みだった。
そして親しげな笑みだった。
「やあ、久しいな! 探索に行っていったんだって? 無事に帰ってきたようで何よりだ!」
男は腰の剣に手を掛けることもなく、無防備に腕を広げ、あっさりとランタンの間合いに踏み込んだかと思うと抱きしめるように背中を叩いた。
その髭と一緒に蓄えたらしい、旅の汚れの臭いがした。
ランタンは騎士を押し退ける。まじまじとその顔を見た。
道場破りではない。
流浪の騎士だ。
「……ハーディ?」
「おお、そうだとも! なんだ、わからなかったのか? 薄情だな」
それは昨年、王都で巨人族と戦う権利を賭けてリリオンと競り合った流浪の騎士ハーディだった。
「なんでティルナバンに?」
ランタンの純粋な疑問に、ハーディは胸を張って答える。
「ああ、宿代を浮かそうと思ってな。しかし、そしたら留守だと言うし、メイドは、あれはあの時の海賊だろう。俺でなかったら頭と身体が別れを告げているところだ」
「宿代って?」
「泊めてくれ。土産ならある」
馬が背負う荷物からは、魚の尻尾が飛び出ていた。まるで埋葬し損ねたかのようだった。
どうやら土産の一つの、鮭の干物であるらしい。




