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緑がどんどん濃く、生命の匂いが濃密に香ってくる。
肌寒く、しかし見上げる緑の色はまるで真夏のようだった。
爆発音に逃げ出した生き物たちもそろそろ戻ってきたのだろう、辺りからは小鳥のさえずりや、四つ足の歩行音が聞こえてくる。
ずいぶんと豊かな森なのかもしれない。この森に暮らしているのなら飢えることもないだろう。
ねこの耳が音を捉えてぴくぴく動く。
もしランタンが居なかったら早速、狩りに出かけていただろうか。
ねこはずっと耳を動かしながら、しかし忍耐強くランタンを案内した。
「いいところだな」
薄氷の張った湖の側に小屋があった。
肌寒いことは肌寒いが氷が張るほどだろうか。
吐き出した息に色はなく、ねこに案内されて歩くうちに身体は少し汗ばんでいるが、それが冷えることもない。
朝方は寒かったのかな、とランタンは思う。
木々の影が落ちる湖の縁は気泡を孕んで白く染まった氷が張っており、中央へと向かうにつれて氷は透明さを増して、真ん中はもう溶けているのかもしれず蒼い水の色がはっきりと透けていた。
魔精の色だ。
陽の光がきらきらと反射する。
ランタンは足元の石を蹴っ飛ばした。氷の上を転がった石は、急に跳ねたかと思うとひどく軽い音を立てて氷に穴を開ける。
小さな水柱が立ち、ぽこぽこと泡を吹くように押し出されるみたいに水が湧き、氷の上に広がった。
氷上に広がる水も、やはり蒼く見えるのは気のせいではないだろう。
ねこは水際に近づき、氷をぴちゃぴちゃと舐め始めた。
ランタンは戦鎚で氷を砕いた。ねこが驚いたようにランタンを見上げ、しかし割れた氷に鼻先を突っ込んでがぶがぶと噛むみたいに水を飲み始める。
「まあ、いいけど」
ランタンはもう一カ所、氷を砕く。腰を屈め、指先を水に触れさせた。
きりりと冷たく、引き上げた指先が赤く悴んでいる。戦鎚を腰に戻し、両手に水をすくった。
掌の中にあり、水は薄青く色づいている。単純な光の反射や散乱によってそう見えるわけでも、藻や微生物が発生しているからそう見えるわけでもなかった。
ある種、湖すべてが魔精薬であると言えた。
木々の緑の濃さは、森の中に満ちる魔精の濃さがそうさせるのだろう。もしかしたら生き物たちは半分魔物と化しているのかもしれない。植物でさえ。
「やっぱり迷宮なのか……?」
あるいは森が、不帰の森のように迷宮の気配を帯びつつあるのか。
顔を洗った。身を強張らせながら何度か繰り返し、一息吐く頃には頬も鼻も真っ赤になっていた。口をゆすぎ、口をすぼめてびゅうと吐き出し、それを飲むことはなかった。
吐き出した息がようやく白い。
「やめろって」
ねこが顔を振って、水気を払った。水滴を浴びせられたランタンは声を荒げる。
ランタンは、リリオンがそれをすると咎めるのに、スカートの裾を大胆に捲り上げるとそれで手も顔も拭った。
どれほど冷たかったのだろう、白々とした内腿の肌が粟立っている。
「あれがお前の家か?」
そうだ、と言うようにねこは小屋に近付いた。
家畜小屋という雰囲気ではなかった。窓は大きくよく陽を取り入れそうで、茜色の屋根は鮮やかでそこだけ秋を切り取って持ってきたみたいだった。
けれど扉の造りは、普通と違っていた。
取っ手はなく、頑丈そうな焦茶色の木造りで内にも外にも押し開く造りをしている。
ねこが額を扉に押し当て、そのまま小屋の中に入っていった。
ランタンはねこが尻尾を挟んだりしないように扉を押さえてやり、ねこがすっかり小屋の中に入ってからその後に続いた。
鬼が出るか蛇が出るか、そんな風に少し思っていたランタンは拍子抜けした。
「ほんとにお前の家なんだな」
誰か、あるいは何かがいるかと思ったがなにもいなかったからだ。
焦げ臭さと獣の臭いに満ちていて、人臭さはほとんど感じられない。
手を離すだけで、ばね仕掛けのように扉が閉まった。ぎい、ぎいと蝶番が軋む。
扉の下部にはもう使われていない、ランタンも通れるかどうかという大きさの小さな扉が備えられていた。何ヶ月も前、ねこはこの扉を通っていたのだろう。使われた形跡があった。
扉を入ってすぐには泥を落とすための粗布が敷かれており、その先は暗色の絨毯が敷き詰められていた。所々爪を引っ掛けたのだろう解れているが、踏み心地はなかなかよい。
外から見るよりも部屋の中が広々としているように思えるのは、天井が高く、家具がほとんどないからだ。
解放感溢れる室内だった。
壁の一方は全面に爪跡が刻まれている。
悪戯をしたのではなく、壁そのものが爪研ぎになっている。
天井から途中を何カ所か結んだ太い綱が垂れており、それは噛み付いたりぶらさがったりして遊ぶためのものだろう、今にもちぎれそうになっている。
絨毯の上にもそういったねこの遊び道具がいくつか散らばっていた。
骨の形をした模型や、革張りの鞠や、はみ出た綿が焦げ付いた大鼠のぬいぐるみが。
完全にねこの為に作られた家だった。人が暮らすには少し殺風景すぎる。
「藁、じゃないか。なんだこれ?」
ねこの寝床とおぼしき場所は、藁に似た何かが敷き詰められている。不燃素材なのだろう感触は少し硬めで、しかし程良い弾力があり、枕に詰めると良い感じになりそうだとランタンは思った。
ねこはどかりと寝床に身体を横たえた。そうするとなんだか貫禄を感じる。ねこと呼んでいるが、やはりこれは虎だ。前腕の太さと言ったらランタンの太股よりも太い。爪は鉄すら裂きそうだ。
「家捜しをしてもいいか?」
ぐわあ、と返事のような欠伸が帰ってくる。ランタンはねこの頭を撫で、部屋の中を見て回った。
水瓶に飲料水を見つけたので、それでようやく喉を潤し、ついでに身体を清めた。
部屋の中は肌寒かったが、しばらくすると炎虎の高い体温によって温められたのだろう、暖炉の火を入れたように温まった。
「あ、服みっけ」
遠慮がちに備えられた棚を漁ると衣服がしまわれていた。
ランタンはそれを恐る恐るといった感じで取り出し広げてみる。
悪くない。スカートでないだけで、それだけで充分だった。スカートはランタンに妙に似合っていたが、ランタン自身は無防備な感じがして落ち着かなかった。
「まさか泥棒をすることになるなんてな……」
ほとんど気にならないが、袖が少しだけ長い。身幅や腰回りはあつらえたように丁度よく、肌触りも悪くなかった。
いや、かなりよい。
敏感肌のランタンが満足するとなると、そこいらの仕立屋で購入できるものではない。しかも単純な服ではないことを、袖を通したランタンは理解していた。なにかしら魔道的な加工が施されている。燃えず破れず、そういった加工だ。
「ん、なんだ? ほしいのか?」
ランタンは脱いだドレスをねこにくれてやった。ねこは喜んでそれの匂いを嗅いだり、びりびりに裂き始めたりする。
「気に入ってもらって何よりだよ。ま、交換って所だ。外套までもらっちゃもらいすぎか」
ランタンは装いも新たになって、ようやく一息吐いた。
それから再び家の中を捜索し始めた。
地下には食料庫があって、そこには真冬のように冷えていた。いくつもの半分凍った枝肉が吊られていて、それはねこの餌だと思われる。
それ以外は地下になかった。
「ほんとうにただのねこ小屋なのか……?」
研究施設でも併設されてはいないかと勘ぐっていたのだが、手術台も魔精薬で満たされた円筒容器も異形の標本も何もない。
ランタンは食料庫から戻り、奥の部屋に入った。
そこは狭く、書き物をするための机があった。インクの匂いがあり、紙の匂いがある。
すっかりドレスをずたぼろにしたねこは、遊んでほしそうにランタンに近付いたが、その部屋には入ってこなかった。
「立入禁止か」
「がー」
「入ったら怒られる?」
「がーう」
「なに言ってるかわからんな」
「ぐるる」
いくつかの本があり、綴じられた紙の束を手に取ったのはそれだけが机に横たえられているからだった。
ランタンはぱらぱらとそれを捲る。
文字と数字が記されている。
「飼育日記、……にしては情がないな。成長記録かな。――やっぱりお前はあのねこなんだな」
それはねこの出生からこれまでの、日々の成長が記録されていた。
母虎はランタンが仕留めたあの炎虎がやはりそうだ。その死体からねこは取り上げられた。母体には三匹の胎児がおり、唯一生き残ったのはねこだけだ。
「備考、強烈な特性の発現は胎児時に魔道の影響を受けたからだと思われる」
炎虎の特性と言えば炎熱に対する高い親和性だろう。
「火だるまで生まれたって、そりゃ大変だな。身長体重、……血中魔精濃度? これは高いんだか低いんだか。小っちゃい頃はずいぶんやんちゃだったんだな。ふうん、……あれ、日付が跳んでる? ああ――」
逃げ出した時か、とランタンは昔を懐かしむ。
「後記、胎児時に浴びた魔精に引き寄せられたものと思われるが、周辺環境の外的要因が大きい。要注意。飼育場所の変更。魔精親和性の著しい成長が見られる。――成長期か。鉄を溶かす、意図的な魔道の行使の初観測、へえ、おめでとう」
これをきっかけにしたのか、ねこの身長体重はまるで倍々にするみたいに成長していく。
「研究対象なのか、ねこは。なんのために?」
この場所がどこであるかを知るための捜索だったが、そういったことは書かれていなかった。ただねこの健やかな成長だけが記されている。
備考、所感、走り書き。そういったものにだけ観測者の感情が僅かに滲んでいる。
「情を移さないようにしているのかな。ちょっと待ってろ。あとで遊んでやるから」
ぐるぐると唸るねこを一瞥もせず、ランタンは紙を捲る。
読み進めていくほどにこの成長記録が矛盾をはらんでいるようにランタンは思えた。
ねこは完全に研究の対象であり、書かれている数字などには少しの情もない。だがねこを見てわかるように、ねこは愛情を持って育てられている。
「……同一の特性、及び適合の確認。何の適合だよ。んー」
ランタンは他の紙束や、書物に手を伸ばした。
ねこは向こうの部屋で、骨の模型を食みながらいじけている。
「あとでね」
「混合獣か……」
腹が鳴った。
大きな窓からは強烈な西日が差して、ねこはその中で腹を丸出しに仰向けになっている。骨の模型は消し炭になり、壁の爪研ぎには暇つぶしの爪跡が深々と刻まれていた。
ランタンは疲れた目を押さえ、紙束を机に放り出す。
一瞬、西日がちらついた。太陽の前を燕が通り過ぎたように。
ランタンとねこが、同時に顔を上げた。
長く文字を追っていた、長く暇をしていた気怠げな目付きが獣の鋭さを帯びる。
生命の気配。
だが野生動物ではない。二足歩行だ。
ランタンは息をひそめ、部屋の壁に身を寄せた。
ねこも身を伏せる。ランタンには見せることのなかった狩猟動物の身のこなしだ。
先程までは大きなねこでしかなかったが、今の姿は誰が見ても魔物そのものだ。
西日よりも鮮やかな炎の毛皮。ねこは完全に炎を制御している。ねこの周囲の大気は陽炎に揺らめき、しかし絨毯は焦げる素振りも見せない。炎は静かに、燃えさかるのを待っている。
どうして自分は襲われなかったのだろう。
その疑問を解消する手がかりは記録の中にあった。
妊娠した炎虎は、生殖行動の結果としてのそれではない。ならば胎内にある時、ねこはどのような存在であったのか。
もしかしたら魔精そのものだったかもしれない。
母虎の胎内でねこはランタンの炎を浴びている。ねこはその影響を強く受けている。ランタンの魔精の気配を、生まれる前から擦り込まれている。ランタンが殺した母虎や兄弟虎の魔精によって、ねこは命を得て、そして肉体を得た。
ランタンがリリオンを好きだから、ねこはリリオンに懐いたのか。
ぬるり、と扉が押し開かれ、何かが転げ込んできた。
「――はあっ、はあっ、はあっ……!」
激しい息遣い。汗と土の臭い。
それは人で、男で、ひどく消耗していた。
何も知らずに飛び込んできたように、そして実際そうなのだろう、まったく背後の警戒をせず、ねこにも気付かず、扉に額を押し当て暴れる息を整えようとしている。
ねこが無防備な背中に飛び掛かった。
巨体が音もなく跳躍し、それが放つ熱量に男が気付いた時、ねこはすでに男を組み伏していた。
「ぐわああっ!」
鋭い爪が男の肩を抉り、しかし血が流れないのは傷跡が焼けているからだ。そして男が死んでいないのは、虎口に腕を突っ込んで、首への噛み付きを防いだからだった。
探索者のみのこなしだ。
それに、あの腕。
男はランタンやねこを狙ってこの小屋に飛び込んできたと言うよりは、何かから逃れるためにこの小屋にやってきたのだろう。
ランタンは奥の部屋から姿を現した。
驚愕と絶望の眼差しでねこを睨んでいた男の視線が、ちらとランタンの姿を捉えて大きく見開かれた。
「ラン、……タンっ!」
絞り出すように言った。
「待て。殺すな。本を読むのに夢中で忘れてた、ここがどこか知りたいんだった」
男は人族に見える。だがねこの噛み付きを防いだ腕だけが、亜人族のそれだった。濃い緑色の鱗に覆われた蜥蜴の腕をしている。ねこの牙に鱗は割れても、しかし鎧のようにそこで食い止めていた。
ねこは興奮した様子だったが、ランタンが尻尾を引っ張るように腕から口を離した。涎が太い糸を引き、前腕にぽっかりと開いた傷口からは紫の血が流れている。
男はひゅうひゅうと引き攣るような呼吸を繰り返し、身を丸めるように傷口を押さえた。
血の気の引いた顔に脂汗が浮かんでいる。
「僕のことを知っているのか?」
ランタンは男をいたわる素振りも見せず、ひどく落ち着いた声で尋ねた。いちいちそれを尋ねることも面倒な気がしたが、ここはティルナバンではない。
男はランタンを見上げ、一瞬呆けたような顔をする。
「……おぼえていないのか?」
「知らない。そんな腕してる人は、知ってたら忘れないと思う」
「この腕は、つい最近だ。お前とは迷宮崩壊戦であった。あの方と――」
急に記憶が蘇った。蜥蜴の腕は、なるほど確かにランタンが知らないはずだ。ランタンが出会った時、男の腕はすでに無いも同然だった。
氷の魔女の取り巻きの一人だ。
迷宮崩壊戦で腕を失い、そして。
「ああ、そうか。確かそんな話を聞いた気がする。腕を失って、なるほど、ならここはサラス領で間違いないのか。サラス領ならば手厚い保護があるとかいって、移住したんだったか」
「保護なんてくそ食らえだ。あの方の側にいたかった。……いや、今はそんな話をしている場合じゃない。むしろランタン、お前は何でこんな所に」
「事情は色々ある。気が付いたらここにいた。ここはサラス伯爵領であってるか?」
「そうだ。ああ、くそ。混乱している。お前は幻覚じゃないよな」
「何をそんなに怯えているんだ? なんでそんなに焦ってる」
「なんでそんなに冷静でいられるんだ。あの時も!」
「ひとりではしゃがないで。落ち着いて。今と昔がごちゃごちゃになってる。あの時のことは今は無関係だ」
「落ち着いていられるか。戦争だ! 戦争が始まったんだよ!」
あまりにも突飛なことを言われたので、ランタンはむしろ冷静になった。
こめかみに指を当てて小首を傾げる様子は、わざとらしい演技のようだった。
「なんでそんなに――!」
「それはさっきも聞いた。いまいち現実感がない。戦争って言っても、どことどこの戦争だ。そこいらの破落戸どもの縄張り争いじゃないだろう?」
口にした戦争という言葉が、どうにも口に馴染まずにランタンは唇を舐めた。
「……サラス伯爵領と、他のすべてだ。――おい、どこに」
「――大人しくしてな」
ランタンはむしろねこにそう言い聞かせて、男に背を向けた。
戦争。
言葉だけが上滑りしている。ランタンの知る闘争とは、基本的に個人のものだ。戦争が始まったと言われても、それがどのような戦いであるのかを想像することができなかった。
言葉や意味だけを知っている。
ランタンの中にある、ここではないどこかの知識のように。
男はランタンを冷静だと言ったが、ランタンは本当に自分は冷静なのかと自問する。それを受け入れ飲み込んだのではなく、理解していないだけだ。
戦争ってどんな戦いなんだろう。
伯爵領とその他すべて。それはつまりリリオンたちも巻き込まれていると言うことだろうか。そう考えると、ようやく嫌な気持ちになった。
中身のたっぷり入った水瓶の口の縁を掴むと、それを片手で提げて男の目の前まで持ってくる。
どん、と自分と男の間に置いた。
「飲め。それから詳しく聞かせて。なんで戦争になった」
男は瓶の中に顔を突っ込んで、溺れるみたいに水を飲んだ。顔中を濡らして、しかし顔を上げた時、男は僅かばかりの冷静さを取り戻している。
「七日前、ブリューズ王子の訃報が公布されたことはさすがに知ってるだろう」
「……」
ランタンは言葉を失った。
ねこが心配そうにランタンを見上げ、力無く下ろされた手に自らの頭を擦りつけた。
温もりを感じ、我を取り戻す。
「七日前。ブリューズが死んだのが、七日前か」
「いつ死んだかまでは知らん。公布が、……おい、ランタン、大丈夫か?」
「……詳しく教えろ、知っていることすべて」
胸の中にリリオンの顔ばかりが思い浮かぶ。
リリオンは眼に涙をいっぱい溜めて、けれど唇を必死に結んで泣くのを堪えている。




