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サラス伯爵領は追われた者の楽園である。
男、――クレイグは昨年の夏頃、ティルナバンで発生した迷宮崩壊戦の折に腕を失っている。クレイグは魔女に雇われた探索者であった。腕を失うということは、職を失うこと、そして魔女からの興味を失うことと同義である。
欠損した腕の代替品として魔道義手も存在するが、魔道義手はおいそれと手に入れることができる品物ではない。極めて希少で、極めて高価な品である。
迷宮での戦闘に耐えうるほどの義手となると、それこそ一端の探索者が手に入れられるものではない。
例えばエドガーの腕に装着される魔道ギルドの試作品は彼が英雄であるから与えられたものであり、騎士クァールの四つ腕は高い技術力を要する秘密結社である黒い卵と通ずるサラス伯爵に仕えているからこそのものだ。
クレイグはそれでもティルナバンに、正確に言えば氷の魔女の側にいることを望んだ。
だが魔女はつれなくも、クレイグにサラス伯爵領に向かうことを提案した。
そして最終的に伯爵領に身を寄せることになった。
それがあの冷血な魔女の優しさであったからだ。
と、言うようなことをクレイグは言ったが、ランタンはどうかなと疑問に思う。
人の純真を踏みにじるのはよくない癖だと反省しつつも、たぶん足手まといに纏わり付かれるのが邪魔だったんじゃないかなあ、と魔女の心を邪推する。
使えない探索者ほど迷宮で邪魔な存在はない。
命を預ける相手として、腕が一つ足りないことは致命的な欠落と言えた。両者の間によほど強い信頼関係があるか、片腕だとしても充分なほどの実力を有してない限り。
情だけで攻略できるほど迷宮は甘くない。
クレイグの助けになりたいと思う気持ちは、きっと迷宮で危険な状況を呼び寄せるだろう。できないことをしようとするのは、最大の悪手だ。
しかし厄介払いの中に、事実、優しさも少しはあっただろう。人として当たり前の優しさが。
追われた者の楽園。
追われた者というのはつまりクレイグのような人々のことだった。
サラス伯爵領の話は風の噂に聞くこともあるし、レティシアあたりに教えてもらうこともある。もっともそれを語るレティシアの口は重く、あまり歯切れがよくないが。
しかしそれでも伯爵領が弱者の受け皿として、社会的に一定の役割を果たしていることが否定されることはなかった。
サラス伯爵領は移民のすべてを受け入れており、その大部分は社会的な弱者であった。
亜人族の中でも特に少数の種族であったり、肉体や精神に不可逆的な瑕疵を持って生まれてきたり、後天的に傷を負ったりした者であったりがそうだ。あるいは親を失った子供であったり、働けなくなった老人であることもあった。
彼らは自らの意思と言うよりも、他に行き場所がなく追われるように伯爵領にやってくる。世界に余裕はまだ少なく、いわゆる健常者であっても日々の生活は保障されていない。
伯爵領では追われてきた者たちのすべてを受け入れ、そして彼らを手厚く保護し、同時に使役していた。
職を与えていた、と言い換えても間違いではない。
伯爵領では農業が極めて盛んである。
クレイグの個人の体験談からでも、伯爵領がかなり効率的な大規模農園制を取っていることが窺えた。
機械の導入無しでそれを維持するためには、領民に相当な重労働を課さねばならない。そのために必要なのは数だったし、あるいは人よりも力に優れる亜人族であったり、戦いの中で肉体を欠損した探索者であった。
そして社会から見放された彼らにとって、その労働は灰色に染まった人生に色を取り戻したのかもしれない。
クレイグ曰く、領民たちは伯爵領での生活に満足していたらしかった。彼自身も魔女と離ればなれになった懊悩が少しずつ和らいでいったと語っている。
人なりの衣服に身を包むことができ、雨風を凌ぐ家があり、空腹を満たす食事があり、同じ悩みを持つ仲間たちが側にいて、労働は心地良い疲労を、収穫は充実感を、そこには彼らが求めて止まない、失った、初めから持っていなかった普通の人の日常の光景があった。
夢の中に、彼らはいた。
歯車の夢なのかもしれない。隣り合って関係し合い、弾き出されることなく、永遠に回り続け、世界を動かし続ける。
小さな箱庭の世界だ。
恒常的な思想誘導があったことは間違いないだろう。
クレイグは批判的な物言いをしながらも、それを庇うような言葉を所々に付け足した。
重労働も収穫量の増大の他に、疲労によって思考能力を鈍化する役割があったのかもしれない。生活に満足感を与えるためのいくつかの仕組みや、集団生活による仲間意識の発生と全体主義的な意識付け、さらには暴力や魔道、治療の名目での手術や薬物による強制的な意識の改変。
ならばきっと脳食いもその一種だろう。
伯爵領は実証実験の場でもある。
あらゆる事に対しての。
「この腕は、二ヶ月前にもらった。もとの持ち主は人族だ。そう見えた」
クレイグは鱗の生えた腕を持ち上げる。
伯爵領での労働に対する給金は一般的な生活を送るには充分であるが、伯爵領内でのみ流通する独自貨幣を用いており、満足感を与えるため額面だけは大きいが、どれだけ働いても魔道義手を得ることは不可能だった。
クレイグはその話に飛び付いた。腕の移植手術の被験者募集の話だ。
伯爵領では時折そういった手術や薬物や、魔道的な儀式の被験者を広く募集しており、参加すると様々な特典を得ることができた。
いわゆる移植技術というものは、魔道を用いてもまだまだ実用段階にはないと言われている。
だが伯爵領では、それがすでに実用化されていた。秘匿している技術は魔道ギルドあたりに比肩するか、それを上回ってもおかしくはない。
「伯爵領では失った肉体の割合によって、生活の度合いが変わる。そいつは両腕とも揃ってたから、片腕の俺をひどく羨ましがった。だから俺にくれた。それはその時、喜んだ。思い出した、どれだけあの方に会いたかったのかを。あいつも喜んでいた。腕がなくなることを。……それがおかしなことだとは思わなかった」
クレイグが指を握ると、砕けた鱗が硝子片のように剥がれて水瓶の底に沈んだ。
右前腕の半ば程から突如、鱗が出現して、鱗は爪の周りまで覆っている。他人の腕だ。だがそうと思えないほど、その蜥蜴人族の腕はクレイグに馴染んでいる。
斬られた自分の腕を自分の肉体に繋げ直す接合手術であってもこうはいかないだろう。
クレイグのそれは指先に至るまで、十全に神経が繋げられている。縫い繋げたという感じではない。断面同士の癒着を助けているのは聖水、つまりは不定型生物の組織かもしれない。きっと針穴に糸を通すことだって難しくはないだろう。
指先が咬傷の痛みを思い出し、冷や汗に濡れているのは人の皮膚だけだ。蜥蜴人族というのはそういうものだ。
クレイグが言葉に詰まり、辛抱強く聞いていたランタンが先を急かそうとするとクレイグの黒目が収縮し、細かく震えた。
「――でも違った」
一瞬、背後を気にして、ランタンが溜め息を吐くと強く水瓶を抱いた。子供がぬいぐるみを抱くみたいに。
「伯爵領は出ていくものを許さない」
クレイグはその時のことを思い出したように、ぞっと肩を寄せる。
「あの目、俺が出ていくと告げた時、そこにいた全員が俺を見た。あれは、――人の目じゃない。俺だって、探索者だ。だからそれなりに場数は踏んでる。だけどあれはダメだ。そこの虎の方がまだましだ。あいつらは狂っている。全員、ひとり残らず」
怖じ気づいたクレイグは、しかしそれでもいつか脱出するための機会を密かに狙っていたようだった。しかしその機会はなかなか訪れない。相互監視が集団生活の中に根付いているからだ。
喜びを分かち合い、罪と罰を共有する。脱走は重罪だった。
だが今のクレイグは脱出の道半ばにあった。
「七日前」
ようやく、とランタンは思う。
「ブリューズ王子の死が伝えられた。その日はすべての仕事が取りやめになって、お祭り騒ぎだった。王子の死を喜んでいるんじゃない。王子のことを知らない奴の方が多かった。ただその日は御馳走だった。あたり一面が血の海になるほど次々と家畜を潰して、出荷用の穀物庫も開かれて麦から芋から次々と運び出された。酒も振る舞われ、酒池肉林といった有様だ。みんな狂ったように食って飲んで、騒いだ」
クレイグが唾を呑む。
その時の食事の味を思い出したのか、それとも恐怖に喉の渇きをおぼえたのか。クレイグは水瓶に手を浸し、唇を拭う。
「脱出のチャンスだと思った。この勢いなら遠からずみんな酔いつぶれるはずだった。俺は飲んだふりをして、その時を待っていた。わかっていたんだ。飲むべきじゃないと」
クレイグの服は汚れている。日々の労働によるものか、それともここに来るまでに汚れたのか、それとも食べこぼしのせいかもしれなかった。
「気付けば、……いや、気付かなかった。いつしか俺も食って、飲んで、その場の一部になっていた。みんなと同じ、牛のように食べ、蛇のように飲んでいた。段々と気分が高揚して、そうだお祭り騒ぎだったんだ。俺は眠ってしまっていた。いや眠ってない。いや、いや……」
ぶつぶつとクレイグが呟く。
ランタンは掌で、自分の太股を叩いた。ぱんぱんと跳ねる音に、つまらなそうに伏せていたねこが顔を上げる。クレイグもランタンの顔を見上げ、その目を見て幾許かの正気を取り戻した。
ランタンは冴えた目をしていた。
「気が付いた時、俺は歩いていた。周りもみんな、手に手に鍬を、鋤を、鎌を、斧を、槍を、剣を、銃を持ってる奴もいた。俺も何かを持っていた。鱗だ。その時、この手に鱗が生えていた。俺は人族だ、親父も、親父の親父も、人族だ。蜥蜴の血なんて混ざってない」
食事に何かを混ぜ込まれたのか、それとも状況がすべて変わっているのか。
それまでの生活のすべてが、その状況へ至るための準備だったのだろう。
「周りもみんなそうだ。毛皮が厚く、牙が太く、爪が鋭く、鱗が硬く、角がぎりぎりと音を立てて尖っていた」
魔物化と呼ぶよりは、獣化と言うべきだろうか。亜人化、いや、亜人族たちの中に流れる獣の血、獣の遺伝子の強化か。
「獣みたいに唸り声を上げて、ああ、戦いの中に俺はいた。目の前には敵の大群がいて、それは人で、俺の知っている戦いは魔物とのそればかりだったけど、俺は戦ってやろうって気になったんだ。声が聞こえたきた」
戦え。
奪え。
戦い、奪え。
相手の肉体を、精神を、命を。
解き放て。
「誰もがそれを聞いていた。周りで仲間が倒れても気にしない。腕がなくなろうと、足がへし折れようと、目が潰れようと、死んじまおうとな。狂ったように戦った、死んでも平気だった。あれは、そう、亡霊だ。陽の光の下を蜻蛉みたいに飛び回って、死体に取り憑いていた。俺はふと気が付いた、戦っている場合じゃないと。俺は逃げ出した。もう俺が逃げ出すことに気が付く奴はいなかった。俺は走って、走って、そしてここにいる」
「……ほんとに気が付かれなかったのか? 何かに追われてここに来たんじゃないのか」
「あれはきっと妄想だ。幻覚だ。俺は誰にも付けられてない。お前に会えてよかった。お前なら何か襲ってきても問題ないだろ」
ランタンは妙な疲労を感じて、ねこの上に腰を下ろした。二つの肩甲骨の間あたりは、尻の納まりがよい。
小屋が取り囲まれている、と言う感じはしない。逃げ出すという行為そのものが、クレイグに追跡者を幻視させたのかもしれない。
しかし走って辿り着ける程度の距離で戦争と表現する規模の戦いが起きていて、その音色が聞こえないことはあるだろうか。
すべてが妄想だったらどうしよう。
ランタンはクレイグの顔を見る。嘘は言っていないだろう。勘違いはあるかもしれないが、主観的な事実を全て吐き出したという感じだった。
どれぐらい頭がまともなのか、ランタンには計り知れない。
しかし伯爵は何のため、戦いを起こしたのだろう。
伯爵領は閉ざされた箱庭であり、楽園であり、彼の王国と言っていいはずだった。内にこもっている限りにおいて、彼のすべての悪行は見過ごされてきた。
わざわざそれを壊す必要がどこにあるのか。
「そう言えば、何をきっかけに正気を取り戻したんだよ」
ランタンは尻に敷いたねこの温かさを感じながら尋ねる。
そのきっかけを明らかにしたならば、その戦いを止めることができるかもしれない。
「死んでられるか。再びあの方の下へ行かねばならん」
クレイグは確信を込めて宣言した。
「つまり愛の力が俺を目覚めさせたんだ」
ランタンは鼻に皺を寄せ、舌打ちをした。
最も確実な手段は、ここに留まっていることかもしれない。
ランタンの手首には探索者証が嵌められており、これは位置情報を探索者ギルドに伝える役割があるとされている。
ここに留まっていれば、いつか探し出してもらえるだろう。
伯爵領の力場がひどく乱れていなければ。
クレイグは現在地を知らなかった。伯爵領の中にいることは知っていても、伯爵領のどの位置にいるかを知っている領民は少ない。
伯爵領を半分に割った北側か南側かと言えば、南側だと言うことだけが判明している。領主館は伯爵領の中心に位置しており、その方向だけを知っているからだ。
戦争が起きたとなればレティシアは動かざるを得ないだろう。
リリオンは布団を被ってめそめそするよりも、自分を探すためにめそめそしながら戦争に出張ってくる姿の方が想像しやすい。
もしも自分から動くとして、その場合は伯爵領全土で発生していると思われる戦闘の一つ一つに顔を出すよりかは、中心部に行った方が色々な意味で効率はいいだろう。
それに戦争下では普段、許されないことが許される。
「褒められたいわけじゃないけど……」
ランタンはぽつりと呟いた。
理由を求めていた。諸悪の根源を断ち切るための。それが目の前に転がっている。
伯爵は反逆者となった、と考えて間違いはないだろう。
今まで様々な理由から手出しできなかった命を奪うことを、今は誰に咎められることはない。
「北へ行くか」
ランタンはそう決めて、膝を叩いた。
クレイグは水瓶を抱き、顔を青ざめさせている。ねこに抉られた二の腕の出血がひどいからだろう。しかしそれ以上の理由があるようだった。
クレイグは歯の根をかたかた鳴らし、全身に鳥肌を立ててぶるぶると震えている。寒い、と小さく囁く唇が割れて血を滲ませた。
「おい」
ランタンが心配して声を掛けた瞬間、水瓶が砕けた。
反射的に身体が動く。しかし尻に敷いたねこが自らの下肢のように感じる。
抱え跳ぶにはでかすぎる。いや、しかし、きっといずれリリオンもこれほどの大きく重たくなるだろう。その時に、一人だけ身を躱すのか。
ランタンはねこに抱きつくと後ろに跳んだ。ねこの後ろ足は床を引きずり、爪が絨毯を台無しにする。
茹で卵を剥いたみたいに、凍った瓶の中身が剥き出しになった。
氷を抱くクレイグがそのままごとりと床に倒れた。右腕の鱗は金属のように霜付いている。
警戒するランタンとは裏腹に、ねこはランタンを心配するように、がおう、と穏やかに喉を鳴らす。クレイグが小屋に飛び込んできた時とはまったく違う反応だった。
ランタンは硝子窓に視線を向ける。夕焼けは深くなり、夜は近い。窓が結露し、白く曇っている。
まるで冬のように。
ぎい、と音を立ててドアが押し開かれた。手を離せば閉まるはずの扉が開きっぱなしになっている。蝶番が凍り付いた。
ドアの向こうから凍えるような冷気と共に、女が入ってくる。
「ここにいたのね。せっかくガウルテリオが門を開いたというのに、姿を見失うなんて思っても見なかったわ」
その女の顔はすっぽりと兜に覆われている。その兜は鏡面のごとく、向かい合うランタンの顔を反射して映している。
「あれほどの戦士が溜め込んだ魔精も、あなたを招く門を作るには至らなかったということね。王子の器を空にして満たされないんですもの、それも仕方のないことだわ」
それは残り二人となった伯爵の騎士の一人、シーリアだ。
ランタンは戦鎚を抜いた。ねこに座っていたおかげで身体は冷えていない。
シーリアが手に持つ短杖を彩る宝石が、蛍のように光を放った。クレイグが抱える氷が音もなく、その大きさを増してゆく。
「戦いに来たのではないわ」
「知るか」
ランタンの膝が踏み込みのために僅かに沈む。
先を取ったのはねこだった。
ランタンが呆気に取られるような暢気さで、のたのたとシーリアに近付いた。
「行くな!」
心配を込めてランタンが言った。ねこは振り返りもせず、立てた尻尾を手みたいに振った。
「ずいぶんと優しい。大きな生き物が好きなのかしら?」
ねこはシーリアの足に身体を擦りつけ、ごろごろと甘えるように喉を鳴らした。シーリアは撫でもしなかったが、ねこは完全にシーリアを信頼しているのが見てわかった。
「あなたを招待するわ。伯爵の下へ」
「行かない」
ランタンの天邪鬼な心がそれを言わせた。一種の駆け引きでもあった。
仮面の下で、笑ったような気配がした。
「すぐそこよ。ガウルテリオのそれとは比べものにならない立派な門があるわ。あなたの大きな身体でも、通り抜けるのに苦労はない。領民が苦労をして作ったのよ。無駄にするなんて、哀れだとは思わない?」
「知ったことか。お前の目的は何だ」
「目的? あなたを伯爵の下へ連れて行くことが目的よ。だからわざわざ探して、来たの」
「違う。すべての目的だ。伯爵の」
透明な氷が白く濁る。びきびきと罅の入る音がして、クレイグの呼吸が次第に弱まってゆくのが白く可視化される。
「あなたに見せること。あなたを見ること。あなたを手に入れること。あなたの大事なものも含めて。そして世界を変えること」
硬く強固な氷が溶け出し、その表面が滴る。
熱はランタンから発生している。
短杖の宝石が明滅を繰り返し、ねこが鼻の奥で甘い鳴き声を漏らす。
「もしかしたら、先に着いて待っているかもしれないわ。それでも来ない?」
誰がとは言わなかったが、たった一人しか思い浮かばなかった。
「もしあの子になにかあったら……」
シーリアの言葉が挑発であり、誘いであり、罠であることは理解していた。
だがそれでも行かないわけにはゆかなかった。
そこにリリオンがいなければ、それでいい。きっとみんなと一緒にいるから。だがもしいるのだとしたら、それを救い出すのは自分に違いない。
「案内しろ」
「言われずとも」
氷がすべて溶け、水は湯になり、湯だまりに横たわるクレイグの肌に赤味が戻る。ねこはシーリアに寄り添い、小屋を出た。その後を追うランタンの足首をクレイグがどうにか掴む。
溺れるように何かを呟いた。
ランタンは蹴り剥がすみたいに指を解く。
「……のっぺらぼう?」
鏡面の兜には、なるほど確かに目も鼻も口もない。
「何だっていいよ」
ランタンは戦鎚を振り上げた。
殺意を持った氷の塊を砕き、破片がクレイグに降り注いだ。
「……余計なお喋りは不要だわ」
夕焼けを反射して鏡面が赤く染まっている。それが怒りのように感じられたのは、気のせいではないだろう。
一度凍り付いた蝶番は壊れて、ランタンは力任せにドアを閉めた。
ねこが手招くように顔を洗う。
湖の一面を霧が覆っており、それは真白く濃く、闇のように渦巻いている。
「さあ行きましょう。……お前も」
促されるようにねこが、まず最初に霧の中に身を投じた。




