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寝転がり、左の掌を太陽に透かした。
肉の中に滑り込んだ鉄の冷たさは確かだった。ぶちぶちと筋繊維が切断され、刃と骨が擦れる不快な感触は何度味わっても嫌なものだ。
たった二本の指の重みに傷口がじりじりと引き裂かれ、広がっていく痛みは思い出したくもないのに容易に思い出すことができる。
だと言うのに、その記憶が夢の出来事のように傷は失われている。
ランタンは傷があったはずの場所を見つめながら、はあ、と溜め息を漏らす。
肉体の傷は完全に消えている。神経のいくつかは分断され、治ったとしても動かすことが難しくなることを覚悟していたが、そういった不便もない。
ランタンは見つめながら、焦点をずらす。
掌が半透明になったように、血の色が透けてすべてが赤く染まった。真っ赤な掌の中に、髪の毛ほどの細い筋が見える。
魔精の変容は不可逆なものだと考えられており、血肉へと変じたのならば、それはすでに魔精ではなくなっているはずだった。
しかし迷宮では意思を持たない万物が魔精に還り迷宮に取り込まれ、おそらく再利用されている。
ブリューズの居館、あの戦場はそういう力場であったように思える。
「傷を分解して、再構築した……?」
ランタンは何度か手を握ったり開いたりを繰り返した。筋肉の収縮に合わせて押し出されるように血が巡り、指先がぽかぽかと暖かくなった。
掌は真っ赤で、あったはずの筋はもう見えない。
血液に溶けた魔精か、それとも肉体そのものがまだ魔精の性質を帯びているのか。
ブリューズに奪われた魔精はルーのそれによって補填され、さらに転移する直前に自身を包み込み、流れ込んできたものもきっと魔精であり、ランタンは今の自分に不足を感じない。
だが。
ランタンは首を捻った。
太陽を掴むみたいに拳を握り、爆発を発生させた。
木々から鳥が飛び立ち、炎虎が驚きに転がって、人じみた怪訝な顔でランタンを見つめた。
足りてはいるが、満ちているようには感じない。
「まあ、いいか」
ランタンは素っ気なく呟く。
不可解なことはあまりにも多いが、目に見えているものは取り敢えず真実なはずだ。
見知らぬ土地で怪我だらけよりも、見知らぬ土地で怪我が治っていることに越したことはない。
指が落ちかけていてはきっと不便だろう。
完全にちぎれていたらそれはそれで諦めもつくが、中途半端にくっついている状態では極めて邪魔だ。自分自身で千切ろうなどとは、流石のランタンもする気にはならない。
ランタンは足を振り子にして上体を起こした。炎虎もそれを真似するように立ち上がる。
「さてと、ここはどこなんだろうな。ほんとうに」
ランタンはぶつくさと呟き、ぐるりと首を巡らせた。
森の中。ただの森ではない。深い森の中だ。
ランタンは意識を最大限、外向きに広げる。
一瞬、頭がくらりとする。
魔精は遍在する。どこにでもある。もし目が百に、千に増えたのならば。見えぬはずの木々の裏側まで、ランタンの視界に映ったような気がした。
先程の爆発のせいで、生命の数は少ない。逃げ遅れた鳥が枝の間に身を潜めている。小動物は木々の洞や穴の中に隠れてしまっている。
暢気なのは炎虎ぐらいのもので、立ち上がったかと思えばランタンの周りをぐるぐると回り始めた。
見つめていると目が回りそうだったし、自分と炎虎の姿を客観視していると何だか笑えてくる。
ぺたんと座り込みぼろぼろな女物に身を包む自分は生け贄の少女のようであり、のそのそと徘徊する炎虎は贄を捧げられるに相応しい神の御使いの如くだった。
人の気配はない。こんな異様な光景を見られずに済むのは、きっといいことだろう。それだけがいいことだ。
怪我のない肉体が事実なら、転移したことも疑いようのない事実だろう。
ならばここはどこだろうか。
転移、そして森の中。
ここはあの不帰の森か。いや違うだろう。
ティルナバンの近くの森か。
転移がランタンの意思に染まった魔精によって行われたとしたら、出現先はティルナバンか、あるいはその近くであるべきだった。
だが違う。ここはティルナバンでも、その近隣でもない。
ティルナバンの近くは人の臭いに満ちている。街に入れぬ労働移民が形成する集落の臭いは、その集落が見えぬほどの距離でも漂ってくると言われている。
「うーん」
ならばここは、もしかしたら迷宮なのだろうか。
帰る場所と言えば、生まれた場所だろう。そしてランタンが生まれた場所と言えば、どうやら迷宮らしい。
最近の迷宮は、なるほど確かにこんな風に開放的な構造をしていることもある。
「……お前は」
ランタンが呼びかけると、炎虎はぴたりと歩みを止めた。ちりちりと毛皮に舞っている炎の勢いがそっと弱まった。
それは身を潜めていた狩猟動物が狙っていた獲物に感付かれ、息を潜めるのに似ている。
ランタンが手を伸ばすと炎虎は近寄り、掌の匂いをひとしきり嗅ぎ、べろんと舌で舐めあげた。ランタンは撫でるついでに、炎虎の鼻面で涎塗れになった掌を拭う。
炎虎は目を瞬かせた。
虎にも目蓋はあるのか、と当たり前のことを思う。
「お前は本当に、僕の知ってるねこか? 似ている炎虎じゃなくて」
例えば炎虎はリリオンには懐いていたように思うが、自分にこれほど懐いてくる印象はなかった。
もしもここが迷宮ならば、後ろ足の付け根にたまたま同じような花模様を持つ炎虎が出現したという可能性もあった。
「憶えてるか? お前が迷子になった、あの貧民街はもうないんだぞ。お前はずいぶん大きくなったけど、あのおちび二人はまだ小さいままだ」
もっともここが本当に迷宮で、この炎虎が見ず知らずの炎虎であるのならば、それが襲いかかってこないことの方がより不思議なことであったが。
「……お前はねこなんだろうな」
語りかけようとも、これは独り言に違いないとランタンは思う。
疑うように口にしたが、ランタンは炎虎がねこである確信があった。
なぜなら言わずにはいられないからだ。
「お前のお母さんは僕が殺したんだよ」
ランタンは両手で炎虎の頬を挟む。頬の上からでも頭蓋骨の硬さや、牙の鋭さ、ごろごろとした喉の振動が感じられる。
見ているだけでもどうしようもない感情が胸に込み上げてくる。触れればなおのことだ。
「だから怒られるよ。仲良くしたら。親不孝者めって」
この感情を読み解くことは、ランタン自身にもできない。
言葉は懺悔のような響きもあれば、世間話のような軽薄さも備えている。
炎虎、――ねこはランタンの独り言など何も気にならないというように身体を擦りつけてくる。どうにもこのねこは、人の上に乗っかることが好きなようだった。あるいはランタンの上に乗ることが。
ランタンは押し倒され、ねこの身体に腕を回した。ねこはずっしりとランタンに身を預ける。布団のように覆い被さった。
人懐っこく、甘えん坊で、大きく暖かな身体はリリオンを思い出させた。
まだ離ればなれになって半日ほどしかたっていないはずなのに、ひどく恋しい。
もしかして不安なのかもしれない、とふと思った。
見知らぬ土地で独り。その不安はランタンの原初の感情だ。ランタンを蹲らせて、涙さえさせた感情だった。あの当時は自分で自分を抱きしめることしかできなかった。
ねこがべろべろと顔を舐めてきた。
流れてもいない涙を拭うみたいに。
「ずいぶん優しい虎に育ったじゃないか。……僕とは大違いだ」
顔をどろどろにされた。
青空が遠くにあるように思える。雲がずいぶんと低空を漂っており、空を染める青が仄かに淡い色をしているからだろう。
「やっぱり重いな。何を食ったらこんなに大きく、……それもこんな短期間で」
ランタンは感慨深く、少しだけ羨ましそうに呟く。
ねこの毛皮で顔を拭く。獣の臭いがしたが、それは野生の獣の臭いではなかった。
ねこは肉付きも毛並みもずいぶんとよく、それはその鋭い爪の生えた前脚で顔を洗ったり、やすりのようにざらざらとした舌で毛繕いしたりするだけでは手に入れられない清潔さだった。
ねこは良く手入れをされている。
人の手によって。
「ロザリア」
ランタンが人の名前を呟くと、ねこは耳をぴくぴくと動かした。
があ、と鳴く。
それは虎人族の女騎士の名前だ。ねこをつれて孤児院を訪れたこともあるという、サラス伯爵に仕える四騎士の筆頭剣士だ。そしてねこの飼い主はおそらく、彼女なのだろう。
だがしかし。
ランタンは名を思いだし、ついでその姿を思い出した。
まさに虎のように、鋭い目をした女。血の臭いを身に纏い、それがひどく似合う女。
彼女が甲斐甲斐しくねこの世話をする様子は少しも想像できなかった。
だがこの炎虎がたいそう愛情を持って育てられていたのはよくわかる。
リリオンがかつて母親に愛されて育ったように、だからこそこれほど人懐っこいのだろう。
ランタンはねこの脇腹を二度叩いた。ねこは大きな欠伸をして、しぶしぶと身をどかした。
ランタンは立ち上がり、尻を汚した泥と冷気を払った。爪を立ててがりがりと頭を掻く。前髪が涎で束になっている。
ねこが乗っていた腹は汗を掻いているが、地面に付けていた背中はひんやりとしている。
「お前はねこで、あの女がお前の世話をしていると仮定するなら、ここはもしかして伯爵領か?」
転移はランタンの意思によって行われたのではなく、もしかしたらガウルテリオの意思によって行われたのかもしれない。
鎧の中にあった闇を思い出す。あれは肉体そのものが魔精に変質していたのではなかったか。
命を賭してランタンを導いた。なんために。伯爵の命令に決まっている。
ランタンは頭の中に地図を思い浮かべる。
サラス伯爵領は、ネイリング領に負けず劣らずの大領地だ。
王都の東方に位置し、伯爵領から更に東へと進むとティルナバンに辿り着く。
とは言っても伯爵領は地図上では縦長の、南北に広がる土地であり現在地から単純に東へ進むだけではティルナバンには辿り着けないだろう。
「とりあえず」
ランタンは忍ばせておいた懐中時計を取り出した。あれほどの戦闘を経験しても、迷宮探索用の時計は時を刻み続けている。
迷宮を攻略する時ほど神経質に時間を合わせてはいないが、それでもずれは五分に満たないだろう。
時刻は二時を少し過ぎている。
ランタンが文字盤を見下ろしていると、ねこが興味深そうに手元に鼻を突っ込んでくる。ふごふごと熱い鼻息で風防が真っ白に曇った。ランタンはその曇りを毛皮で拭う。
「ちょっと邪魔だよ。ほんとリリオンみたいだな、お前は」
もっともあの子はこれほど毛深くないけど、とランタンはねこを押し退けながら時計の短針を太陽の方へと向けた。
「えっと、十二があっちだから」
ランタンが身体の向きを変えると、ねこがそれに寄り添う。
「南が向こうだから、東はあっちか」
短針を太陽の方へ向けた時、十二時と短針の間がおおよその南である。
ほかに手がかりはないので、東の方へ進むというのは一つの手である。
しかしランタンは途方に暮れるみたいに辺りを見渡す。
先程までの目的はガウルテリオの討伐だった。その一つ前はクァールであり、さらに一つ前はブリューズの首を取ることだった。
そして最大の目的は自分とリリオンを取り囲む状況を好転させることだ。
最大の目的は未だ達成されていないが、さしあたりの目的は達成した。
ならば再び目先の目的を決めるのなら、やはり帰還がそれだろう。リリオンとの約束だ。絶対に果たさなければならない。
ランタンは少しの懐かしさを思い出す。
独り迷宮を攻略していた時には、こんな風に細かく目的を積み上げていた。
あの曲がり角まで、あの影が落ちる場所まで、あと一度戦うまで、あと五十歩歩くまで。
よくそんな面倒なことをしていたな、と思う。そんな面倒なことをしてまで迷宮を攻略していた。きっと他の生き方もあったろうに。
しかし戦うことはやめられないだろう。
ランタンは、くっ、と喉を鳴らした。しゃっくりのように短く、しかしそれは笑い声だろう。
ランタンは広いねこの眉間を掻いてやる。ねこは気持ちよさそうに身体を揺する。
「お前はどこに住んでいる?」
この森で放し飼いにされているわけでもないだろう。炎虎のその燃える毛皮の性質上、放し飼いにしていたら山火事になりかねない。
「他意はないよ。伯爵領かもしれないってのは仮定だし、ここがどこか知るための手がかりがもう少しほしいだけ、ほんとほんと」
「がー」
「あと着替えもほしいしね。ちがうよ、お前のその温かそうなのを剥ぐわけじゃない」
「がおー」
「身体も綺麗にしたいし――、お前は目敏いな。でもだめだ、これは食べ物じゃない」
「ぐーるる」
ねこがランタンの胸元に鼻を押し当てる。ランタンは首に掛けた鎖を手繰り寄せ、胸元から水精結晶を取りだした。それを眼前にかざすと、ねこがやおら後ろ足で立ち上がる。
馬のように大きい。
そして前足をずどんとランタンの肩に掛ける。危うく鎖骨が折れるか、両肩が脱臼するところだった。ランタンは思わずふらつき、どうにか踏みこたえた。
鼻息で水精結晶が大きく揺れる。
「こらやめろ。時計の方は食ってもいいけど、だめだけど、これは本当に食べたらだめだ。壊したら怒られるから。知ってる? 意外とおっかないんだぞ、リリオンは。あの子、噛んでくるし。まあ、お前に噛まれるよりはましか」
水精結晶を挟んでねこと向かい合い、ランタンは厳めしい顔を作って言い聞かせる。
ねこの牙は水精結晶よりも大きい。揺れた結晶が牙にぶつかって硝子のよう音色を奏でる。
「これはお前の喉を潤すためにあるんじゃなくて、僕の身体を綺麗にするためにあるんだよ」
ランタンはそれを親指と人差し指で挟み、ゆっくりと力を込めた。
「うそだよ。壊さないよ」
咎めるみたいな幼獣の瞳にリリオンの眼差しがどうしてか重なり、ランタンは取り繕うような笑みを浮かべて結晶を胸に隠した。
「ちょっとした冗談なのに」
ねこは、がるぐるる、と大げさに喉を鳴らして、それから前脚を両肩から外した。
「さて、じゃあ案内してよ。お前ん家に」
ねこは尻尾をゆったりと立てると、ランタンに背を向けて歩き出す。歩き出したかと思うとすぐに立ち止まり振り返って、ランタンをじっと見つめる。
「独り言だと思ってたけど、もしかして人の言葉がわかるのか?」
もちろん返事はない。しかし言葉はわからずとも、何か通じ合えているのかもしれなかった。
歩み寄ると、ねこはランタンのスカートを甘噛みしてひっぱり、再び歩き出した。さもついてこいと念を押すように。
木漏れ日が心地良い。緑の匂いが濃密で、生命力に満ちあふれている。歩いているだけで元気になるようだった。
「ここは本当にどこなんだろう。リリオンはきっと心配しているだろうな。早く帰らないと」
しかしここがもし本当にサラス伯爵領ならば、もう心配もかけてしまっていることだし、少しぐらい帰りが遅くなってもいいだろう。
最大の目的、そこに辿り着くまでに積み重なる課程。
それは帰還であり、場所を知ることであり、喉を潤すことであり、服を着替えることであり、ねこの後ろを付いていくことだ。
その課程が一つ増えるだけだった。
「なに、少し寄り道をするだけだ。今さら始末するのが一人増えたところで、どうということはないさ。お前には悪いけど」
ランタンはそっと戦鎚の柄を撫でる。
「ま、ご主人さまはいるんだし、ご主人さまのご主人さまがいなくなってもいいだろう」
戦うことはやめられない。
ランタンは大股歩きになって、ねこの横に並んだ。
ちらと見上げるねこは、ランタンに気を取られたせいで木の根に躓いて転びそうになった。
「野生を失ってるな」
慰めるように撫でてやるとねこは少し恥ずかしげに、なーおぅ、と小さく鳴いた。
よいお年を!




