08 孤独な王女
残り時間【9:42】
ショットクロック【12.00s】
弍估の鼓動が、静かに、しかし鋭く加速していく。
奪われたポゼッション。
先行を許したスコアボードの【0-2】という屈辱的な数字。
審判の笛が地下会場の湿った空気を切り裂き、リスタートの合図が鳴り響いた。
(……外れていい。体力を温存しつつ、アークラインの外から時間を消費しながら、2ポイントを狙うことにしよう)
弍估がそう結論付け、アウトサイドで足を止めた刹那。
「——いけッ! あの女を2ポイントエリアから絶対にシュートを撃たせるな!」
少女が描いた遅攻&体力温存プランを上書きするように、熊埜御堂の鋭利な号令が鼓膜を叩いた。
弍估を包囲せんと、Résistancの3人が巨大な扇状の網を展開し、彼女から「最も効率的な解」である2ポイントエリアを物理的に遮断しようとしてくる。
(……鬱陶しい。外を捨て、3人がかりで私を内側へ追い込む算段ですか。いいでしょう、ならばその『檻』ごと食い破って差し上げます。それが最も早く、確実に、貴方たちの心を折る最短ルートになるだろうから)
少女の視界に、12秒のショットクロックと『8億Gold』の残高が重なる。
(……時間を稼ぎ、後半に備える。そのために、味方には5分間を使わせるはずだった)
だが、七合目の強引なシュートとリバウンドの失敗が、その計算を崩した。
弍估は一瞬だけ七合目へ視線を向け、すぐに前へ戻す。
(……考える必要はない。味方は不確定要素。ならば、私が全ポゼッションを処理する)
ドッ、バォンッ!!
爆発的な初動。
重低音を響かせ、少女の右足がコートを深く抉っていく。
2ポイントラインの外側、死角から迫る199cmの巨躯。
その長い腕が鎌のように振るわれた刹那、弍估の重心はブラックホールに吸い込まれるように沈み込んだ。
「撃たせるかよッ……!」
敵の指先が、少女の視界を遮る。
171cmという『未完成な身長』と、モデル体型に似つかわしくない100kg近い高密度な質量。
その重すぎる慣性は、跳躍の刹那、コンマ数秒の『ラグ』を発生させた。
カメラは、弍估のわずかな予備動作を捉えた熊埜御堂の虹彩をクローズアップする。
彼はその致命的な『澱み』をミリ単位の精度で見抜き、ブロックの頂点へ至る最短軌道を完璧に読み切っていた。
逃げ場のない空中で、巨大な壁が少女の視界を塗りつぶす。
(……読みが鋭い。だが、その先読みすらも私の「餌」に過ぎません)
弍估は踏み込んだ勢いを一瞬だけ殺し、肩を起こした。
シュートの予備動作へ入った瞬間、熊埜御堂の膝が沈み、反射的に身体が跳ね上がるが、
撃つことなく動作を止める。
つぎの瞬間…
少女はさらに深く沈み込み、空中へ浮いた熊埜御堂の脇を一気に踏み抜いた。
バシュッ!!
2ポイントを捨て、あえて敵の密集地帯へ。
長距離砲を封じられたのではない。
弍估自身が、最短の突破口としてゴール下を選んだのだ。
「トリプルチームだ! 逃がすな、足を削れ!」
背後から熊埜御堂の声が飛ぶ。
少女は一度だけ瞬きをし、向日葵の声も七合目の動きも意識から切り捨てた。
(5分後に反転する毒は、喰らわなければ問題ない)
ドリブルを刻みながら、弍估は前へ出る。
3人に囲まれたまま、Résistanceの檻の奥へ踏み込んだ。
ショットクロック【9.43s】。
加速する思考に合わせ、迫るディフェンダーの動きがスローモーションへ変わっていく。
右斜め前から迫った一人目の重心が外へ流れた瞬間、弍估がジャブステップを叩き込んだ。
ドッ!!
「右」へ誘われた敵の身体が止まり…
その刹那、逆への切り返し。
時間にしてコンマ3秒。
1人目を置き去りにした。
ショットクロック【8.05s】
死角から2人目が立ちはだかる。
少女はレッグスルーで重心を揺さぶり、右、左、そして再び右へ切り返す。
カクッ!
相手の膝が崩れることが分かっていたのか。
迷いなく、その脇を弍估が一気に抜けていく。
(……思っていたとおり、脆い。群れるだけの雑魚に、私の軌道は追うことなんて出来ないでしょう)
ショットクロック【6.20s】。
最後の防波壁、199cmの巨躯が覆い被さるように跳ぶものの…
弍估は逃げず、その胸板へ身体ごとぶつかった。
衝突で崩れた体勢を逆に利用し、敵を踏み台にして、もう一段だけ高く浮く。
(思考、並列同期。軌道、再演算――)
「……これが、貴方たちへの解答です」
放ちかけたボールを胸元へ引き戻し、敵の腕の下へ潜り込ませると…
そのまま空中で身体を捻り、指先からボールを柔らかく送り出した。
パスッ。
吸い込まれるような快音と共に、網が踊った。
その刹那、地下会場の静寂が弾けた。
天井を埋め尽くすドローン群が一斉に反応し、赤い警告灯を点滅させる。
世界中から流れ込む賭博師たちの熱狂が、運営の予測値すら上回ったのだ。
ドローンが吐き出す青白いホログラムは、もはや称賛ではなかった。
『BUY(購入)』
『LIMIT BREAK(限界突破)』
『EAT THE MONSTER(怪物を喰らえ)』
弍估の足元には、彼女を競り落とそうとする電子の入札額が、滝のような数字の羅列となって降り注ぐ。
着地した弍估の視界に、一機のドローンが強制介入してきた。
レンズが彼女の剥き出しの殺意を、網膜の震えまでを、世界中の飢えた獣たちに生中継する。
彼女は、そのレンズの向こう側にいる数百万の「豚」たちを、氷のような眼差しで射抜いた。
「……鬱陶しい。私の価値を、お前たちが決めるな」
システムをパージする。
視界を覆うノイズが消え、残ったのは焼き付くような肺の痛みと、絶望的なまでに冷徹な熊埜御堂の笑みだけだった。
わずか6秒足らずの蹂躙。
だが、その対価として、彼女のスタミナは急速に磨耗しつつある。
スコア【1-2】
「……ハァ、ハァ……」
肺を焼く呼気を吐きながら、弍估はチャージまで仕掛けた強引な突破で、想定以上に体力を削られたことを悟った。
(……この1点のために、これほどのリソースを吐かせた。これが貴方の狙いですか、熊埜御堂)
対峙する男の口角が、微かに吊り上がっていく。
1点を奪われたことなど意に介さず、弍估の消耗だけを確かめるような冷徹な目だった。
(……このペースで5分間? 冗談ではない)
弍估は呼吸を整えながら思考を切り替える。このまま独力突破を続ければ、スパイが暗躍する5分を耐える前に体力が尽きるだろう。
ならば――この5分間は、あえて決定的な抵抗を捨てる。
そう判断し、弍估は方針を変えた。
「——リスタートだ。集中を切らすな!」
熊埜御堂の号令で、Résistance側のボールから再開される。
196cmの七合目が、巨体を活かしてインサイドを死守している影響だろうか。
敵の放ったスカイフックは、焦りからかリングに嫌われ、虚しく弾け飛ぶと…
落下するオレンジ色を確保したのは、Kingdôm(王国軍)だった。
残り時間【9:30】。
ボールが、2ポイントラインの外側に立つ弍估へと戻されると、再び、Résistanceの陣形が猛然と収縮を開始した。
ダブルチーム。
もはや彼女に一瞬の自由も、1点のシュートも許さないという、殺意に近いプレッシャー。
だが、弍估の瞳に迷いはない。
彼女は既に、この「欺瞞の5分間」をどう歩むかの脚本を書き終えていた。
手を上げ、無邪気な、あるいは邪推など微塵も感じさせない透明な瞳でこちらを呼ぶ女。
179cmのシューター、向日葵。
(……このまま独りで打ち続ければ、私の心臓が先に弾ける。ならば、利用できるものは全て使い倒すまで。例えそれが、5分後に牙を剥く毒針であろうとも)
弍估は、最も『純粋な瞳』でパスを要求する向日葵へ、冷酷なまでに正確なボールを放出した。
(……さあ、踊りなさい、向日葵。あなたのその熱意が、後にどれほどの絶望に変わるかも知らずに)
放たれたボールの軌道を見つめながら、独裁者の唇が、冷ややかに弧を描いていく。




