07 知略の怪物
—————地下会場を支配する白々とした光の下、運命の10分間が刻まれ始めた。
残り時間【10:00s】
ショットクロック【12.00s】
審判の手から離れたボールが、弍估の手へと吸い込まれていく。
その瞬間、空気が凍りついた。
天井高20mの闇を、巨大なホログラムが焼き切っている。
【Kingdōm残高:800,000,000 Gold】
暴力的な数字が、少女の網膜に「毒」として突き刺さっていた。
――味方が決めた得点が、5分後、敵のスコアへ『反転』する。
向日葵か、七合目か。どちらかが「スパイ」である以上、パスを回す行為そのものが、自分の首をしめるに他ならない。
仲間が得点を重ねれば重ねるほど、彼女は自らの手で首を絞めることになるのだ。
現時点で……この矛盾した地獄を共有しているのは、弍估自身と、対峙する熊埜御堂――ただ2人。
視線が交差する。
地下会場を飛び交う無数のドローン。
その無機質なレンズが捉える2人の姿を、世界中の視聴者が固唾を呑んで見つめていた。
熊埜御堂がスッと右手を挙げる。
「——いけッ! あの女を潰せ!」
号令とともに、正面と右45度の死角から199cmの巨躯が滑り込み、弍估の逃げ道を塞いだ。
だが、少女は減速しない。
——ドッ!!
鈍い衝撃が地下会場の床を震わせた。
少女の肩が、正面に立ちはだかった199cmの巨躯へ滑り込んでいく。
ギィッ!
男が踏み急停止しようとするものの…
その足が止まりきるより早く、弍估の右足がさらに前へ入り、肩を当てたまま、腰が沈んでいく。
超高密空間にで…
一瞬だけ、2人の身体が重なった。
次の瞬間——
ズンッ!!
199cmの巨体の方が後ろへ流れた。
一歩。
二歩。
床を踏み直そうとした足が、また滑ってしまう。
少女は肩を抜くと、そのままボールを右手へ落としていく。
ダンッ!
ドリブルの音だけを残し、身体が弾丸のように抜けていた。
「……」
男は追おうと踏み出した足が、一拍遅れてしまう。
その僅かな間に、弍估はもう三歩先へいる。
ダンッ、ダンッ
低いドリブルが、白々とした照明の下で一定の間隔を刻んでいく。
巨体を押し飛ばしたわけではない。
ただ、接触した瞬間から——少女の足だけが止まらなかった。
床を捉える。
腰が沈む。
肩が入る。
そして、次の一歩へ移る。
それだけだった。
「……遅い」
少女の声が、背後へ落ちる。
男が歯を食いしばり、再び床を蹴るが・・・
——もう届かない。
弍估の視線、意識は、すでにゴールへ向いていた。
それはデータ上の「ダブルチーム」を超越した、弍估という『質量』による一方的な粉砕といえた。
しかし、この強引な突破すら、熊埜御堂にとっては想定内の「時間の略奪」に過ぎない。
刻一刻と削られる12秒の制約。
その貴重な数秒を物理的な衝突に費やさせた時点で、知略の怪物は少女の思考を半分支配したも同然だった。
この極限の短時間、かつ逃げ場のない圧迫感にさらされれば、どれほど強靭な精神でも「早くこの檻から逃げたい」という本能に負け、不用意なパスを放り出してしまう。
それは熊埜御堂の計算通り、向日葵か七合目――どちらかに潜む「毒」へとボールを誘導するための、残酷な強制執行に他ならなかった。
弍估の思考は、加速するノイズの中で驚くほど静澄だった。
本来なら、179cmのシューターである向日葵、あるいは196cmの七合目へパスを捌くのが最適解。
だが、その一投が、5分後に致命的な「裏切り」となって自分を刺すかもしれない。
「こっちだ、弍估! 出せ!」
「弍估ちゃん、フリーだよ! 早く!」
必死の形相でパスを呼び込む2人の声が、地下の静寂をかき乱してくる。
果たしてそれは、純粋な勝利への渇望か。
それとも、恩賞を狙うスパイの演技か。
ショットクロック【8.00s】
潜航している裏切り者を見極めるためのリソースが、決定的に足りない。
「……どちらがスパイなのか、分からない」
「それにしても、ほんとに鬱陶しいディフェンスだ」
確信を捨て、少女の重心が一気に沈むと、一瞬で、171cm、約100kgの身体が弾けていく。
バババンッ!
低いドリブルが床を叩き、弍估は左へ踏み込んだ。
Résistanceの選手・影走の視線が肩を追う。
188cmの身体も同時に動き、進路を塞ぐように腰を落としていく。
その瞬間、弍估の手元でボールが外へ跳ねる。
――神速の切り替えし。
左足へ乗せた重心が、一気に右へ返っていた。
影走の足が半歩だけ遅れる。
少女はその遅れを見逃さず、右足で床を蹴り込ませ・・・
沈み込んだ腰が伸び、肩が男の横をすり抜けていく。
追おうとした188cmの身体が振り返ったときには、弍估はすでにその背中側へ回っていた。
ズッ――!
靴底が床を噛み、弍估の歩幅が伸びていく。
その先で、Résistanceの選手たちが一斉に足を動かす。
左右から伸びる脚へ視線を走らせながら、少女は進路を僅かにずらし、迫る肩と肩の間へ身体を滑り込ませていく。
ボールは低い。
一定の間隔で床を叩き続ける。
2ポイントラインの外まで運んだところで、弍估の視線がゴール脇の角度ゼロへ向いた。
その刹那――
キュッ!
右足が床を捉えた。
加速していた身体だけが、まるで見えない壁に触れたように止まる。
超絶の急停止。
遅れて髪が揺れ、ボールを包んだ掌だけが静かに残り、沈黙が、一拍遅れて落ちてくる。
弍估は止まったまま、ゴールへ視線を送っていた。
ショットクロック【4.00s】
少女がステップ一つで抜き去ったはずのディフェンダーが、執念深く背後から影を落としてくる。
同時に、逆サイドの巨躯が死角から「ハ」の字を描くようにスライドしてきた。
ダブルチーム――否、弍估の退路をミリ単位で削り取る「トラップ」だ。
(……チッ、しつこいですね)
本来なら、この包囲網のわずかな「重心のズレ」を見抜き、強行突破できたはずだった。
「――左へ流せ」
再び、熊埜御堂の冷徹な号令が響く。
その刹那、少女の視界に生じた「計算された綻び」。
三人の巨躯が作る檻、その包囲網に囚われたのだ。
だが、向日葵へのパスコースだけが、まるで導火線のように一筋だけ空けられている。
(……罠か、あるいは)
地下特有の澱んだ空気が、わずかに揺らいだ。
味方へ向けた視線。
そのコンマ数秒の迷いが、一定のテンポで刻まれていたドリブルのリズムをわずかに狂わせる。
ダン――ダンッ!
開いたパスコースの向こうで、熊埜御堂が半歩だけ重心をずらす。
パスを誘うように開いた身体とは裏腹に、その瞳は弍估の指先を射抜いていた。
弍估の視線が、その道へ向く。
同時に、ドリブルのバウンドがわずかに手元へ引き寄せられた。
――その一瞬。
熊埜御堂の身体が沈む。
跳ね返ったボールが弍估の掌へ戻る、そのわずかな間へ、巨漢の脇を抜けた腕が滑り込んだ。
(――来る)
(止まれ――)
だが、弍估の指が戻らない。
その刹那——
熊埜御堂の指先が先にボールへ触れていた。
パシィィィィィンッ!!
「――貰ったぞ、お嬢さん」
静寂を切り裂く乾いた破裂音とともに、オレンジ色のざらついた感触が掌から弾け飛んでいく。
――感触の、消失。
指の腹を焼くような強烈な摩擦熱だけを残し、王女の聖域が力ずくで剥ぎ取られてしまう。
ダンッ! ダンッ!
冷えた地下空間に遠ざかっていくボールの不規則な跳ねる音を追うように、ドリブルしていた足をピタリと止めた弍估の瞳が、その軌跡を冷徹にトレースする。
味方への視線、誘発されたパスコース、そして自分の指先に生じた微小な「迷い」。
敗北に至る物理的・心理的な因果のすべてが、一瞬にして脳裏で噛み合った。
(――この私が、スティールされるとは…)
弍估の指先が、ゆっくりと下へ垂れていく。
沸騰しかけた心臓の鼓動を、冷たい意志の力で意識の底へと瞬時に押し沈め、紅い熱を絶対零度の氷へと転じていく。
(――熊埜御堂という選手について、認識を改める必要があるということか……)
目の前の男――熊埜御堂。彼は単なる「名選手」ではない。
相手の「思考の癖」すらも戦術のリソースとして組み込む、盤上の悪魔。
弍估の頭脳が高いほど、彼はその高精度の思考に「ノイズ」を混ぜて自壊させる。
屈辱も敗北感も、今の彼女には不要なバグに過ぎない。
弍估は、自分を呼び込む向日葵と七合目を、視界の端から完全に排除した。
(スパイという毒、情報の欠落……これら不確定要素を計算式に組み込むのは、もはや時間の無駄です。ならば、答えは一つ)
荒い呼吸を整え、剥き出しになった殺意を内側へと折り畳む。
それは、自分自身を完璧に制御しきれなかった未熟さへの戒めであり、同時に、この場を支配する「全員」への決別でもあった。
(駒に頼るから、読みの綻びが生まれる。ならば——このコートに、私以外の『個』は必要ありません)
「……ハァッ、ハァ……ッ!!」
深く、静かに息を吐いていく。
敗北の汚泥にまみれたはずの少女の瞳には、かつてないほど透明で、冷徹な光が宿っていた。
(従うフリは、ここで終わりです。熊埜御堂。あなたの手のひらごと、その傲慢な戦術を食いちぎってあげましょう)
敵も、味方も、ルールさえも。
すべてを独りで飲み込むための、孤独な「反撃」が、静かに産声を上げた。




