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追放された宮廷調香師は、辺境の村で竜の眠りを解く――香りだけで呪いも戦争も終わらせます  作者: たむ


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第九十九話 明日見て決める、という約束

翌朝、リクは金木犀の根元を見に行った。


前の日に水をやり忘れ、昼になって思い出し、少しだけ水をやった場所。


そこは、湿りすぎてもいなければ、乾ききってもいなかった。


土は土らしい色をしていた。


リクはしゃがみ込み、木匙を持ったまましばらく黙っていた。


リオが隣に立つ。


「今日は、どうしますか」


リクは土を見た。


昨日の水がまだ少し残っている。


夜露もある。


今日の朝の空気は冷たい。


すぐに水をやらなくてもよさそうだった。


「今日は、やらない」


言ってから、リクは少し不安そうにリオを見た。


「忘れたんじゃなくて」


「はい」


「見て、決めた」


「はい」


ミナが微笑む。


「それは、大切な違いですね」


リュミナが後ろから重々しく頷いた。


「鍋を火にかけない日にも、鍋を見て決める」


セリカが言う。


「お前の場合は火にかけたくて見ているだけだろう」


「見て決める竜だ」


「食べて決める竜でもある」


リクは小さく笑い、札を書いた。


“今日は水をやらない。見て決めた。”


それを根元の低い台に置いた。


すると、その札は昨日の“忘れた日にも、土は乾ききらない”の隣で、不思議と穏やかに見えた。


忘れた日。


思い出した日。


見て、やらないと決めた日。


どれも、同じではない。


朝食のあと、アリアンヌから手紙が届いた。


――リクへ。


――今日は王妃の机を見ました。


――拭きませんでした。


――昨日も拭いていません。


――けれど、今日は“拭かない”と決めました。


――埃が少しありましたが、手紙の上ではなく、机の端でした。


――古い傷の中に入り込んだ埃は、今すぐ取らないことにしました。


――メリッサが“それは怠けではなく、今日の判断です”と言いました。


――少しだけ、救われました。


――今日はアリアンヌ。


――王女の服は、今日は袖口だけ整えました。


リクは手紙を読んで頷いた。


「姉さんも見て決めてる」


ミナが言った。


「はい」


「拭かないことも、決めるなら手入れになる?」


リオは少し考えて答えた。


「手入れの一部になる日があります」


セリカが言う。


「ただし、毎日それを言い訳にして埃だらけにするな」


リュミナが真剣に頷く。


「鍋も同じだ」


「鍋は洗え」


「洗う。しかし育った味は残す」


「都合よく言うな」


今日だけの棚に札が置かれた。


“拭かないことも、今日の判断。”


“怠けではなく、今日の判断。”


そして、ミナが小さく足した。


“言い訳にしない。”


昼前、白盾記録院からヴォルクの報告が届いた。


五日目。


ヴォルクは第三歩兵隊の名を読まなかった。


記録官に、こう言ったという。


“今日は読むと、読むことを終えたという安心だけを得ようとする。”


審理官は尋ねた。


“では、今日は何をしますか。”


ヴォルクは答えた。


“名簿を前に置いて、読まないことを記録する。”


記録官はその通りにした。


ヴォルクは名簿を開き、目を伏せず、しかし声に出さなかった。


一刻ほど座り、最後に言った。


“読まなかった。”


審理官が問う。


“逃げましたか。”


長い沈黙。


“少しは。”


さらに沈黙。


“だが、隠さなかった。”


戻り香の家は静かになった。


レインは、深く息を吐いた。


「少しは逃げた。だが、隠さなかった」


セリカが腕を組む。


「甘く扱うな」


「はい」


レインは頷いた。


「でも、これは消さない方がいい」


ミナが言った。


「逃げたことを隠さない日は、次の責任へ続くことがあります」


リュミナが低く言う。


「焦げた鍋を隠さなければ、洗える」


セリカが少しだけ目を細めた。


「今回は、本当に正しい」


レインは間の棚に札を書いた。


“今日は読むと、安心だけを得ようとする。”


その下に、


“名簿を前に置いて、読まないことを記録する。”


さらに、


“少しは逃げた。だが、隠さなかった。”


セリカはいつものように足した。


“免罪ではない。”


リクはそれを見て、自分の木匙を思い出した。


水をやらない日。


でも、見て決めた日。


それと、読まない日。


でも、隠さなかった日。


同じではない。


でも、どこかでつながっている。


午後、レムリア商市から手紙が来た。


料理長は、前日に水を温めなかったことを、今日来た男に伝えた。


男はしばらく黙り、


“昨日は来なかったから、それでいい”


と言った。


料理長は尋ねた。


“今日は温めますか。”


男は答えた。


“今日は、温めないでください。でも、火口は見たいです。”


料理長は火口の灰を見せた。


灰は整っていた。


男はそれを見て、少し笑ったという。


“火がなくても、火の場所だ。”


サラ・ベルテは最後にこう書いていた。


――火がない火口を、火口と呼んでよい日があります。


リュミナはしばらく黙っていた。


その言葉は、竜の胸にも深く入ったようだった。


「火がない火口」


リクが言う。


「空の椀みたいだ」


ミナが頷いた。


「はい。そこにあったもの、またあるかもしれないものの場所です」


セリカが言った。


「だが、火がないから安全とは限らない。灰の下に熱があることもある」


リュミナは真剣に頷いた。


「だから見る」


今日だけの棚に札が置かれた。


“火がなくても、火の場所。”


“灰の下に熱があるかもしれない。”


“だから見る。”


夕方、国王から手紙が届いた。


――リクへ。アリアンヌへ。


――今日は王妃の机を拭かなかった。


――埃を見た。


――古い傷も見た。


――拭くべきか考え、今日は拭かないと決めた。


――私は、何もしないことを命令で埋めたがる。


――しかし、何もしないことを、見て決める日があるのだと知った。


――今日、温室でエレオノーラの名を呼ばなかった。


――呼ぶべきか考え、呼ばないと決めた。


――今日は、スープを飲んだ人。


――追伸。二杯目は、見て、飲まないと決めた。少し得意になったので、反省している。


リクは最後で笑った。


「得意になって反省してる」


リュミナが大きく頷く。


「非常に高度だ」


セリカも笑みを隠せなかった。


「二杯目が王を鍛えている」


「椀は教師だ」


「そろそろ本当に棚ができそうだな」


「作るべきか、見て決める」


「やめろ」


今日だけの棚に札が置かれた。


“何もしないことを、見て決める日。”


“呼ぶべきか考え、呼ばないと決めた。”


“少し得意になったので、反省している。”


最後の札は、リクが勝手に書いた。


国王が知ったら苦笑するかもしれない。


夜、リクは金木犀の根元にもう一度行った。


朝に水をやらなかった土は、まだ大丈夫だった。


乾いてはいる。


でも、乾ききってはいない。


「明日は?」


リオが尋ねると、リクは土を見た。


「明日見て決める」


ミナが微笑んだ。


「はい」


「約束っぽいけど、決めきらない」


「それも約束です」


リクは首を傾げた。


「決めきらない約束?」


「はい。明日の土を、明日見るという約束」


リクは少し考え、それから札を書いた。


“明日見て決める、という約束。”


その札は、根元の低い台の中央に置かれた。


その夜、リオは新しい香りを作った。


水をやらないと見て決めた朝。


拭かないことを今日の判断としたアリアンヌ。


読まないことを記録したヴォルク。


少しは逃げたが隠さなかったという苦い声。


火がなくても火の場所であるレムリアの火口。


呼ぶべきか考え、呼ばないと決めた王。


見て飲まないと決めた二杯目。


ラベルは、


“明日見て決める、という約束。”


それは、根元の低い台と今日だけの棚のあいだに置かれた。


決めることと、決めきらないことの間に。


香りは残る。


水をやらなかった朝にも。


読まなかった名簿の前の沈黙にも。


そして、明日の土を今日の不安で握りしめず、明日見るとだけ約束した小さな木匙の影にも。

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