第九十八話 忘れた日にも、土は乾ききらない
翌朝、リクは水をやらなかった。
金木犀の根元を見なかったわけではない。
朝の光の中で、花はまだよく香っていた。枝に残る花は少しずつ薄くなり、落ちた花も増えている。土へ返した最初の花の場所には、札が立っていた。
“またな、と言った場所に、水をやる。”
リクはそれを見た。
見たのに、水をやらなかった。
台所でリュミナが粥を焦がしかけ、ミナが声守草の乾燥棚を直し、セリカが白盾記録院へ返す文書をまとめ、レインが灰星の額飾りを拭いていたからだ。
忙しかった。
というより、日々が来た。
昼になって、リクは急に「あ」と声を上げた。
「水、やってない」
リオは調香台から顔を上げる。
「はい」
「忘れてた」
「はい」
「またなって言ったのに」
ミナが近づき、静かに言った。
「今、見に行きますか」
リクは少し怖そうな顔をした。
「乾いてたら?」
「乾いていたら、水をやりましょう」
「駄目になってたら?」
セリカが書類を置いて言った。
「一日で全部駄目になるとは限らない」
リュミナが鍋の蓋を押さえながら頷く。
「弱火で残るものもある」
「土は鍋じゃない」
「しかし、乾ききらなければ続く」
リクは庭へ出た。
土へ返した花の場所は、朝より少し乾いていた。
けれど、乾ききってはいなかった。
昨日の水の名残があるのか、夜露が残ったのか、土はまだ少しだけ色を含んでいた。
リクは息を吐いた。
「乾ききってない」
リオが隣で頷く。
「はい」
「忘れたのに」
ミナが言った。
「忘れた日にも、土は全部を失わないことがあります」
リクは木匙で水を少し垂らした。
昨日より少なめに。
水は土へ染みていく。
リクは札を書いた。
“忘れた日にも、土は乾ききらない。”
その隣に、もう一枚。
“思い出した時に、水をやる。”
昼過ぎ、アリアンヌから手紙が届いた。
――リクへ。
――今日は、王妃の机を拭きませんでした。
――昨日拭いたからです。
――でも、昼前に少し不安になりました。
――拭かないと、手紙を大事にしていないことになるのではないかと思いました。
――メリッサが言いました。
――“昨日拭いた机は、今日も昨日拭かれた机です。”
――私はそれを聞いて、少し楽になりました。
――母上への手紙は机の上にあります。
――布もあります。
――机の古い傷もあります。
――今日はアリアンヌ。
――王女の服は、今日は汚していません。たぶん。
リクは手紙を読み、少し笑った。
「たぶん」
ミナも微笑む。
「たぶん、もよいですね」
セリカは本文の方を見ていた。
「昨日拭いた机は、今日も昨日拭かれた机か」
リオは頷いた。
「昨日の手入れが、今日に残ることがあります」
リクは今日だけの棚に札を書いた。
“昨日拭いた机は、今日も昨日拭かれた机。”
その下に、
“拭かない日にも、大事にしていないとは限らない。”
リュミナが粥の鍋を見ながら言った。
「昨日煮た出汁は、今日も昨日煮た出汁だ」
セリカが言う。
「少し違うが、今回は近い」
午後、白盾記録院からヴォルクの名読みの続きが届いた。
四日目。
ヴォルクは未確定の名の欄を読んだ。
“名がないのではない。まだこちらが知らない。”
昨日の言葉を、今日は自分で繰り返したという。
その後、記録官が問うた。
“あなたは毎日読むつもりですか。”
ヴォルクは答えた。
“読めない日が来るかもしれない。”
審理官が問う。
“その日は、責任を放棄する日ですか。”
長い沈黙。
ヴォルク。
“読めない日を、隠さない日です。”
レインは報告を聞いて、ゆっくり目を開けた。
「読めない日を、隠さない」
セリカは低く言った。
「それも責任の一部だ」
「はい」
レインは間の棚に札を書いた。
“読めない日が来るかもしれない。”
その下に、
“読めない日を、隠さない。”
セリカが足した。
“免罪ではない。”
リクは札を見て、朝の土を思い出した。
忘れた日。
水をやれなかった日。
読むことができない日。
それらを、なかったことにしない。
それが次の水になるのかもしれない。
夕方、レムリア商市からの手紙が届いた。
“飲むためじゃなくても、温かい”と言った男は、今日は来なかった。
料理長は水を温めるか迷い、温めなかった。
灰だけ整えた。
そして、サラ・ベルテにこう言ったという。
“温めなかったことを、明日聞かれたら答えます。”
サラは記録した。
――準備しすぎないことと、隠さないこと。
――今日は、その二つを並べておきます。
リュミナは真剣に頷いた。
「温めなかったことを答える。よい」
リクは言った。
「何もしなかったって言うの、怖いよな」
リオが頷く。
「はい。だから記録が必要です」
ミナは札を書いた。
“温めなかったことを、明日聞かれたら答える。”
その隣に、
“準備しすぎないことと、隠さないこと。”
夜、国王から手紙が届いた。
――リクへ。アリアンヌへ。
――今日は王妃の机を拭かなかった。
――私は、拭かないことに不安を覚えた。
――だが、昨日拭いた机は今日も昨日拭かれた机だとメリッサが言った。
――私は、長い間、毎日命じ続けなければ物事は失われると思っていた。
――しかし、命じない日にも残るものがある。
――もちろん、放置してよいという意味ではない。
――ただ、すべてを毎日握り直さなくてもよいのだと、少し知った。
――今日は、スープを飲んだ人。
――追伸。二杯目は飲まなかった。飲まないことをメリッサに報告した。
リクは手紙を読み、ゆっくり頷いた。
「握り直さなくてもいい」
ミナが言った。
「はい」
「預かる手を時々開くって、こういうこともある?」
リオは微笑んだ。
「はい。握り直さない日も、開く日です」
リュミナは追伸に深く頷いた。
「飲まないことを報告した。非常によい」
セリカが少し笑う。
「二杯目の棚、本当に作るなよ」
「まだ作らぬ」
「まだ?」
「まだ」
リクは今日だけの棚に札を書いた。
“命じない日にも、残るものがある。”
“すべてを毎日握り直さなくてもよい。”
夜、リクはもう一度、土へ返した花の場所を見に行った。
昼に少し水をやった土は、暗がりの中で静かに湿っていた。
毎日やらなくてもいい。
忘れたら終わりではない。
思い出した時に、水をやる。
でも、忘れたことも隠さない。
リクは札を見て、小さく言った。
「今日は忘れた」
リオが隣で頷いた。
「はい」
「でも、水やった」
「はい」
「明日は、わかんない」
「はい」
リクは笑った。
「明日、見て決める」
その夜、リオは新しい香りを作った。
忘れた朝の乾ききらなかった土。
昨日拭いた机が今日も昨日拭かれた机であること。
読めない日を隠さないヴォルク。
温めなかった水を明日答える料理長。
命じない日にも残るものがあると知った王。
飲まないことを報告した二杯目。
ラベルは、
“忘れた日にも、土は乾ききらない。”
その瓶は、土へ返した花の場所が見える低い台に置かれた。
香りは残る。
水をやり忘れた昼にも。
拭かなかった机にも。
そして、毎日握り直さなくても消えないものがあると知りながら、それでも思い出した時には小さな匙で水をやる、少し遅れた手にも。




