第百話 百番目の札は、まだ空けておく
翌朝、リクは金木犀の根元を見た。
土は、少し乾いていた。
昨日よりは乾いている。
けれど、乾ききってはいない。
水をやるか、やらないか。
リクは木匙を持ったまま、しばらく黙っていた。
今日は第百話だった。
そんなことを、物語の中の誰かが知っているわけではない。
けれど、戻り香の家には、数えられるものが増えていた。
瓶。
札。
椀。
椅子。
返事。
未送信の手紙。
読んだ名。
読まなかった名簿。
飲まなかった水。
温めなかった水。
見ないと決めた火口。
そして、土へ返した最初の花の場所。
リクはふと、今日だけの棚を見た。
「百番目の札って、どれだろ」
リオが少し目を瞬かせた。
「数えますか」
「数えたいような、数えたくないような」
ミナが微笑む。
「数えることで落ち着く日もあります。数えないことで守られる日もあります」
リュミナが鍋の蓋を持って言った。
「肉は数えるべきだ」
セリカが即座に返す。
「お前は数えても多く取るだろう」
「公正に多く取る」
「公正ではない」
少し笑いが起きた。
それから、リクは土をもう一度見た。
「今日は、少しだけ水」
そう言って、木匙に半分だけ水を入れた。
たっぷりではない。
昨日の“見て決める”の続きの水。
土へ垂らすと、ゆっくり染みていった。
リクは札を書いた。
“今日は、少しだけ水。”
その札を置いた時、リオが静かに言った。
「百番目にしますか」
リクは手を止めた。
百番目。
区切り。
名前をつけたくなる。
記念にしたくなる。
瓶にしたくなる。
王都へ送って、レムリアへ知らせて、白盾記録院の入口に掲げたくなる。
でも、リクは首を横に振った。
「百番目って決めると、偉くなりすぎる」
セリカが頷いた。
「番号が札を支配することがある」
ミナが言った。
「百番目にふさわしくしようとして、今日の札でなくなることもあります」
リュミナは真剣に考え、
「百杯目の鍋は危険だ」
と言った。
「どう危険なんだ」
「皆が食べすぎる」
「それはお前だけだ」
けれど、誰も完全には笑い飛ばさなかった。
区切りは、人を急がせる。
百番目だから、何かを言わなければならない。
百番目だから、深くなければならない。
百番目だから、特別な香りでなければならない。
そう思った途端、今日の土は見えなくなる。
リクは新しい札を書いた。
“百番目の札は、まだ空けておく。”
それを今日だけの棚の中央ではなく、端に置いた。
空欄のように。
昼前、アリアンヌから手紙が届いた。
――リクへ。
――今日は、王妃の机の上の手紙を数えました。
――数えたら、母上への咲き始めた手紙が一通であることが、少し寂しくなりました。
――一通しかない。
――でも、一通ある。
――私は、増やしたくなりました。
――何かを書き足して、二通目にしたくなりました。
――けれど、今日は書き足しませんでした。
――一通を一通のまま見ました。
――今日はアリアンヌ。
――王女の服は、今日は数えません。
リクは手紙を読み、今日だけの棚に札を置いた。
“一通しかない。でも、一通ある。”
その下に、
“一通を一通のまま見る。”
リオは静かに頷いた。
「百番目の話と似ていますね」
「うん」
「増やさない日もあります」
「でも、あるんだよな」
「はい」
ミナが言った。
「一つしかないものは、少ないのではなく、一つとしてそこにあることがあります」
リュミナが深く頷いた。
「最後の肉も同じだ」
セリカが睨む。
「最後の肉を例えに使うな。争いになる」
「だから大切なのだ」
午後、白盾記録院からヴォルクの報告が届いた。
六日目。
ヴォルクは名簿を読んだ。
前日に読まなかったことを、冒頭に自分で記録したという。
“昨日、私は読まなかった。少し逃げた。隠さなかった。”
それから名を読み始めた。
オーウェン・マルク。
ハイネ・ロス。
テオ・バル。
サナ・イリス。
ミル・コート。
ユーロ・ダン。
焦げ豆、とは言わなかった。
ただ、ユーロ・ダンの名の後に、少しだけ黙った。
記録官が理由を尋ねると、ヴォルクは言った。
“名の後に、余白を置いた。”
審理官が問う。
“余白は、あなたのためですか。”
ヴォルクは答えた。
“わからない。だが、すぐ次へ行くのが怖くなった。”
レインは報告を聞き、ゆっくり頷いた。
「すぐ次へ行くのが怖くなった」
セリカが言う。
「初めて怖がる方向が合ったかもしれんな」
レインは間の棚に札を書いた。
“名の後に、余白を置いた。”
その下に、
“すぐ次へ行くのが怖くなった。”
セリカが足す。
“免罪ではない。”
リクはしばらくその札を見て、もう一枚足した。
“余白にも、踏み込まない。”
ミナが静かに頷く。
「よい札です」
夕方、レムリア商市からの手紙が届いた。
料理長は、“火がなくても火の場所”の札を見に来た男に、今日は火口を見せなかった。
男が言ったからだ。
“今日は、火口があると知っているだけでいい。”
料理長は答えた。
“あります。”
男は尋ねた。
“灰は整っていますか。”
料理長は少し考えた。
“今日は、整えすぎないようにしています。”
男は笑った。
“それでいい。”
サラ・ベルテはこう結んでいた。
――整えすぎないことも、場所を残す手入れです。
リュミナが目を閉じて深く頷いた。
「整えすぎない灰」
セリカが言った。
「お前の鍋周りはもう少し整えろ」
「そこは別問題だ」
「都合がよすぎる」
今日だけの棚に札が増えた。
“あると知っているだけでいい。”
“整えすぎないことも、場所を残す手入れ。”
夜、国王から手紙が届いた。
――リクへ。アリアンヌへ。
――今日は王妃の机の傷を数えそうになった。
――数えれば、把握した気になれる。
――把握すれば、扱える気になる。
――扱えれば、治せる気になる。
――しかし、傷は私の所有物ではない。
――今日は数えなかった。
――ただ、一つの傷を見た。
――エレオノーラが薬湯をこぼした跡。
――それだけを見た。
――今日は、スープを飲んだ人。
――追伸。二杯目は見て、半分飲んだ。得意にならないよう注意した。
リクは手紙を読み、少し笑った。
「得意にならないよう注意した」
リュミナが厳粛に頷く。
「成長の危険を知っている」
セリカが笑った。
「王の追伸が、だんだん教育記録になっているな」
リクは今日だけの棚に札を書いた。
“数えると、扱える気になることがある。”
“ただ、一つの傷を見る。”
それから少し迷って、
“得意にならないよう注意した。”
と小さく足した。
夜、リクは金木犀の根元の低い台を見た。
“百番目の札は、まだ空けておく。”
その札は、他の札より目立たない。
でも、空いた場所を守っているように見えた。
「百番目、いつ書くんだろ」
リクが言うと、リオは答えた。
「書きたくなった時かもしれません」
「書かないかも」
「それも、よいと思います」
「百番目が空いてても、棚は困らない?」
「はい」
ミナが微笑んだ。
「空欄にも椅子がいる、とリクさんが言いましたから」
リクは少し照れた。
「言ったな」
その夜、リオは新しい香りを作った。
少しだけ水をやった朝。
百番目を空けておいた札。
一通しかないけれど一通ある母への手紙。
名の後に置かれた余白。
整えすぎない灰。
数えずに見た一つの傷。
得意にならないよう注意した二杯目。
ラベルは、
“百番目の札は、まだ空けておく。”
その瓶は、棚の中央ではなく、端に置かれた。
空いている場所の隣に。
香りは残る。
数えなかった傷にも。
余白を急がなかった名の後にも。
そして、区切りだからといって特別な言葉で埋めず、今日の土には今日の水だけをやり、百番目のための椅子をそっと空けておく朝にも。




