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追放された宮廷調香師は、辺境の村で竜の眠りを解く――香りだけで呪いも戦争も終わらせます  作者: たむ


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第百一話 空けておいた場所に、風が座る

百番目の札を空けておいた翌朝、誰もその場所に触れなかった。


今日だけの棚の端に、小さな余白がある。


そこには札がない。


瓶もない。


椀もない。


ただ、棚板の木目が見えている。


リクは朝食の前にそこを見て、少し不思議そうな顔をした。


「空いてると、目立つな」


ミナが頷く。


「はい」


「何もないのに」


「何もないから、見えることがあります」


リュミナが粥の鍋を混ぜながら言った。


「皿の空きも目立つ」


セリカがすぐに返す。


「お前の場合は、そこに何を盛るか考えているからだ」


「空きは可能性だ」


「食欲の言い換えだな」


リクは笑いながらも、棚の余白から目を離せなかった。


百番目の札。


まだ空けておく。


そう決めたのに、空いている場所を見ると、何かを置きたくなる。


言葉を足したくなる。


これでよかったのだと証明したくなる。


空欄を空欄として読むのは、思ったより難しかった。


朝食のあと、リクは金木犀の根元を見に行った。


最初に落ちた花を土へ返した場所は、少し乾いていた。


今日は水をやる。


そう思った。


しかし、木匙を持つ前に、風が吹いた。


枝から、また小さな花が二つ落ちた。


一つは土へ。


一つは、低い台の上に置かれていた“百番目の札は、まだ空けておく”の端へ。


橙の小さな花が、札の余白に触れている。


リクは息を止めた。


「置いた?」


リオが隣で静かに見ていた。


「風が置きましたね」


「これ、取る?」


ミナがしゃがんで花を見る。


踏まれる場所ではない。


濡れてもいない。


札を汚してもいない。


そこに落ち着いている。


「今日は、そのままでもよいと思います」


リクは少し考えた。


「百番目の場所に?」


「はい。ただし、花を札にしないで」


リオの言葉に、リクは顔を上げた。


リオは続けた。


「風が置いたものを、すぐ意味にしないで。今日は、花がそこにあるだけで」


リクは頷いた。


「意味にしない」


彼は木札を書いた。


けれど、それを百番目の余白には置かなかった。


少し離れた場所に置いた。


“空けておいた場所に、風が座る。”


その札は、金木犀の根元と今日だけの棚のあいだに掛けられた。


昼前、アリアンヌから手紙が届いた。


――リクへ。


――今日は、王妃の机に何も置きませんでした。


――母上への手紙も、布も、そのままです。


――ただ、窓を少し開けました。


――すると、温室の外の風が入り、手紙の端が少し動きました。


――私は慌てて押さえようとして、やめました。


――手紙は飛びませんでした。


――ただ、少し動いただけでした。


――動いたことを、乱れたことにしないでおこうと思いました。


――今日はアリアンヌ。


――王女の服は、風で裾が揺れました。


リクは手紙を読んで、朝の花を見た。


風が置いた花。


風で揺れた手紙。


どちらも、誰かが命じたわけではない。


誰かが片づけるほどでもない。


でも、確かに動いた。


ミナは今日だけの棚に札を書いた。


“動いたことを、乱れたことにしない。”


リオがその隣に、


“手紙は飛ばず、少し動いただけ。”


と置いた。


セリカが頷く。


「動けばすぐ整えたくなる者は多い」


リュミナが鍋を見た。


「煮立ったからといって、必ず失敗ではない」


「それは火を弱めろ」


「見て決める」


午後、白盾記録院からヴォルクの名読みの報告が届いた。


七日目。


ヴォルクは名簿を読んだ。


ただし、昨日余白を置いたユーロ・ダンの名の後で、今日は余白を置かなかった。


そのまま次の名へ進んだ。


記録官が理由を尋ねると、ヴォルクは答えた。


“余白を毎回置くことで、余白を儀式にしそうだった。”


審理官は問う。


“では、余白は不要でしたか。”


ヴォルクは答えた。


“昨日は必要だった。今日は、次へ進むことが逃げではないと思った。”


レインは報告を聞き、少しだけ目を閉じた。


「昨日は必要だった。今日は違う」


セリカが言う。


「よい。ただし、気を抜くな」


「はい」


レインは札を書いた。


“余白を儀式にしない。”


その下に、


“昨日は必要だった。今日は違う。”


セリカが足した。


“免罪ではない。”


リクはそれを見て、百番目の余白を思った。


空けることも、儀式になる。


置かないことも、誇りになる。


見ないことも、正しさになる。


だから毎日、見て決める。


午後遅く、レムリア商市からの報告が届いた。


“火がなくても火の場所”を見た男は、今日は火口のそばに座らなかった。


その代わり、入口でサラ・ベルテに尋ねた。


“火口は、今日はありますか。”


サラは答えた。


“あります。”


男は頷き、


“今日は入口でいい”


と言って、そのまま少し立っていた。


料理長は火口へ案内しなかった。


水も温めなかった。


ただ、入口の扉を少し開けたままにした。


男は帰り際に言った。


“中へ入らない風もある。”


リュミナが静かに言った。


「入口の風」


ミナが頷く。


「入らないことを拒絶と決めない風ですね」


リクは札を書いた。


“今日は入口でいい。”


“中へ入らない風もある。”


それは入口の木札の近くに置かれた。


夜、国王から手紙が届いた。


――リクへ。アリアンヌへ。


――今日は、王妃の机の傷を見なかった。


――見ようと思えば見られた。


――しかし、今日は窓から入る風を見た。


――風が手紙を少し動かした。


――私は押さえようとして、やめた。


――すべての揺れを乱れとして正す必要はないのだろう。


――今日は、スープを飲んだ人。


――追伸。二杯目は半分飲んだ。途中で匙を置き、また持った。これも揺れだと思った。


リクは手紙を読んで笑った。


「二杯目まで揺れてる」


リュミナは真剣に頷いた。


「匙を置き、また持つ。非常に高度な揺れだ」


セリカが笑みをこぼす。


「王の食事が、国の憲章みたいになってきたな」


「椀は法より古い」


「妙に説得力があるから困る」


今日だけの棚には、


“すべての揺れを乱れとして正す必要はない。”


“匙を置き、また持つ揺れ。”


の札が足された。


夜、リクは百番目の余白を見た。


朝、風が置いた小さな花は、まだ札の端にあった。


少ししおれている。


けれど、そこに座っているようにも見える。


リクは取らなかった。


意味にしない。


でも、見なかったことにもしない。


「明日、花が落ちてたら?」


リオが言う。


「明日見て決めましょう」


リクは笑った。


「そればっかりだな」


ミナが微笑む。


「それが、今日まで育った約束です」


その夜、リオは新しい香りを作った。


空けておいた場所に風が置いた花。


動いたことを乱れにしなかった王妃の手紙。


余白を儀式にしなかったヴォルク。


入口でいいと言ったレムリアの男。


中へ入らない風。


すべての揺れを正さなかった王。


匙を置き、また持った二杯目。


ラベルは、


“空けておいた場所に、風が座る。”


その瓶は、百番目の余白の隣に置かれた。


余白そのものではなく、その隣に。


香りは残る。


置かれた花にも。


押さえられなかった手紙の端にも。


そして、空けておいた場所を急いで言葉で埋めず、風が少し座るのをただ見ていた朝の棚板にも。

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