第百二話 風が座ったあとに、跡を消さない
翌朝、百番目の余白に落ちていた花は、棚板の上から少しずれていた。
夜のあいだに風が入ったのか、家の誰かが通った時の空気で動いたのか、橙の小さな花は札の端から離れ、木目の細い溝に引っかかっていた。
リクはそれを見て、手を伸ばしかけ、止めた。
「動いてる」
ミナが隣に立つ。
「はい」
「昨日、ここに座ってたのに」
「今日は少し違う場所ですね」
「戻す?」
リオは棚板を見た。
花のあった場所には、ほとんど何も残っていない。
けれど、よく見ると、ほんの少しだけ橙の粉が木目に入っている。
花粉なのか、乾いた花弁のかけらなのか。
風が座った跡。
リオは静かに言った。
「戻さなくてもよいかもしれません」
「じゃあ、掃除する?」
ミナは首を傾げた。
「掃除したくなる日もあります。でも、今日は跡を見てもよい日かもしれません」
リクは棚板をじっと見た。
昨日そこにあった花。
今日ずれている花。
そして、残った小さな色。
「跡って、汚れ?」
セリカが近づき、白盾を壁に立てた。
「汚れになる日もある。記録になる日もある」
リュミナが台所から言った。
「鍋の焦げも同じだ」
セリカは即座に返す。
「お前の焦げはたいてい汚れだ」
「時々記録だ」
「ごく時々だ」
リクは少し笑ってから、札を書いた。
“風が座ったあとに、跡を消さない。”
その札を、百番目の余白の近くへ置いた。
けれど、余白そのものには置かなかった。
そこはまだ空いている。
花は、木目の溝に引っかかったまま。
跡は、消されないまま。
朝食の後、アリアンヌから手紙が届いた。
――リクへ。
――昨日、風で少し動いた母上への手紙の端が、今日も少し曲がっています。
――私は押し花のように平らに戻そうとして、やめました。
――曲がった端は、昨日風が通った跡です。
――乱れではないと決めたのなら、跡も乱れにしない方がいいと思いました。
――でも、破れそうなら直します。
――今日は、まだ大丈夫です。
――今日はアリアンヌ。
――王女の服は、裾に昨日の風のしわがあります。
リクは手紙を読み、すぐに棚板を見た。
「姉さんも跡」
ミナが微笑んだ。
「はい」
リオは札を書いた。
“曲がった端は、風が通った跡。”
その隣に、ミナが、
“破れそうなら直す。”
と書いた。
セリカが頷く。
「跡を残すことと、壊れるのを放っておくことは違う」
リクも頷いた。
「また違うやつだ」
「そうだ」
リュミナが粥を見つめながら言った。
「しわと裂け目は違う。焦げ目と炭も違う」
セリカは少しだけ感心した顔をした。
「今日も冴えているな」
「朝飯を食べたからだ」
「食べても冴えるのか」
「食べる前も後も冴える」
昼前、白盾記録院からの報告が届いた。
八日目。
ヴォルクは名簿を読んだ。
昨日、余白を置かなかったユーロ・ダンの名の後で、今日はごく短く止まった。
記録官が理由を尋ねると、彼は答えた。
“昨日置かなかった余白の跡を、今日は見た。”
審理官が問うた。
“余白を置かなかったことを後悔していますか。”
ヴォルクは首を横に振った。
“昨日は置かなかった。それで終わってはいない。”
さらに沈黙。
“置いた余白にも、置かなかった余白にも、跡がある。”
戻り香の家でその報告が読まれた時、レインは長く黙っていた。
それから、間の棚に札を書いた。
“置いた余白にも、置かなかった余白にも、跡がある。”
その下に、
“昨日は置かなかった。それで終わってはいない。”
セリカが札を足した。
“免罪ではない。”
リクはその並びを見て、少し考えた。
置いたもの。
置かなかったもの。
読んだ名。
読まなかった日。
呼んだ名。
呼ばなかった夕方。
水をやった日。
やらなかった日。
全部に跡がある。
何かをした時だけでなく、しなかった時にも。
彼は小さく書いた。
“しなかったことにも、跡がある。”
それを日々の棚と間の棚の境目に置いた。
午後、レムリア商市から手紙が届いた。
“今日は入口でいい”と言った男は、今日は来なかった。
入口の扉は閉じていた。
料理長は火口を見に行き、灰を整えすぎないように整えた。
サラ・ベルテは入口の床に、小さな砂粒が残っているのを見つけたという。
昨日、男が立っていた場所。
掃いてしまおうとして、手を止めた。
しかし、そのままでは他の客が滑るかもしれない。
サラは砂を小さな紙へ移し、入口の隅に置いた。
札にはこう書いた。
――昨日、入口で立っていた人の砂。踏まれないよう、ここへ。
リクはそれを読んで、目を丸くした。
「砂まで?」
ミナが頷いた。
「跡を残す時にも、安全にする必要があります」
セリカが言う。
「そのまま残すだけが記録ではない」
リュミナが深く頷いた。
「こぼれた豆も踏むと危険だ。皿へ戻すか、捨てるか、別にする」
「豆は捨てろ」
「食べられる豆なら戻す」
「床に落ちた豆は駄目だ」
「床による」
「駄目だ」
今日だけの棚に札が増えた。
“跡を残す時にも、安全にする。”
“踏まれないよう、ここへ。”
夕方、国王から手紙が届いた。
――リクへ。アリアンヌへ。
――昨日、風で動いた手紙の端が、今日も少し曲がっていた。
――アリアンヌは直さなかった。
――私は、曲がった端を見るのが少し苦手だった。
――整っていないものを見ると、整えたくなる。
――だが、曲がりは傷ではなかった。
――破れでもなかった。
――風の跡だった。
――今日は、王妃の机を拭かなかった。
――埃も見た。
――古い傷も見た。
――そして、曲がった端も見た。
――全部を一度に直さなかった。
――今日は、スープを飲んだ人。
――追伸。二杯目は半分飲んだ。匙を置いた跡が椀の縁に残った。拭く前に少し見た。
リュミナが小さく息を呑んだ。
「椀の縁の跡」
セリカが言う。
「お前、泣きそうな顔をするな」
「椀は記録を持つ」
「まあ、そうだが」
リクは今日だけの棚に札を書いた。
“曲がりは傷ではなかった。”
“全部を一度に直さない。”
“匙を置いた跡を、拭く前に少し見る。”
夜、リクは百番目の余白のそばに戻った。
木目の溝に引っかかっていた花は、さらに少し乾いていた。
落ちた場所も、動いた場所も、跡も、全部がそこにある。
しかし、棚板にずっと置いておけば、粉になって広がるかもしれない。
明日は移すかもしれない。
でも、今日はまだ。
「明日見て決める?」
リオが尋ねる。
リクは笑った。
「うん。明日見て決める」
ミナが言った。
「今日は、跡を消さない日ですね」
「うん」
その夜、リオは新しい香りを作った。
百番目の余白に残った橙の跡。
曲がった手紙の端。
破れそうなら直すという慎重さ。
置いた余白にも置かなかった余白にも残る跡。
入口で立っていた人の砂を踏まれない場所へ移したレムリア。
全部を一度に直さなかった王。
匙を置いた跡を拭く前に見た二杯目。
ラベルは、
“風が座ったあとに、跡を消さない。”
その瓶は、百番目の余白のさらに隣へ置かれた。
余白はまだ空いている。
跡だけが、そばにある。
香りは残る。
曲がった端にも。
移された砂にも。
そして、整えたい手を一度だけ止め、これは傷か、跡か、危ないものか、まだ置いてよいものかを見分けようとする朝の棚板にも。
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