第百三話 跡を移しても、なかったことにしない
翌朝、百番目の余白のそばにあった金木犀の花は、ほとんど粉になっていた。
昨日までは花の形をどうにか保っていた。
けれど、夜の乾いた空気と、棚板を通る小さな風で、花弁は崩れ、橙の粉が木目の溝に細く残っている。
リクはそれを見て、息を止めた。
「粉になった」
ミナが隣に立つ。
「はい」
「これ、もう花じゃない?」
リオは少し考えた。
「花だったもの、ですね」
「花だったもの」
リクはその言葉を繰り返した。
花ではなくなった。
でも、なかったことにはならない。
昨日、風が置いた花。
一昨日、余白に座った花。
今日、粉になった花。
それは同じもので、同じではない。
セリカが棚板を見て言った。
「このままにしておくと、風で散るな」
「散っちゃ駄目?」
「駄目ではない。ただ、ここは人が通る。誰かの袖や書類に移るかもしれん」
リュミナが真剣に言う。
「鍋の粉も、置き場所を間違えると鼻に入る」
「何の粉だ」
「粉は粉だ」
「危ない粉を作るな」
リクは小さく笑ったが、すぐに棚板へ目を戻した。
「移す?」
ミナが頷いた。
「よいと思います。跡を消すのではなく、踏まれない場所へ」
リオは薄い紙を持ってきた。
粉になった花を、息で飛ばさないように、そっと集める。
全部は取らない。
木目には、ほんの少しだけ橙が残った。
リクはそれを見て言った。
「全部取らないの?」
リオは頷いた。
「取れないものもあります。取らない方がいいものもあります」
粉は小さな紙に包まれ、金木犀の根元の低い台へ移された。
木札が増えた。
“粉になった花を、踏まれない場所へ移す。”
その下に、リクが書いた。
“跡を移しても、なかったことにしない。”
百番目の余白は、また空いていた。
けれど、木目の中には少しだけ橙が残っている。
空いているのに、完全な空ではない。
朝食の後、アリアンヌから手紙が届いた。
――リクへ。
――母上への手紙の曲がった端を、今日少しだけ直しました。
――昨日は風の跡として残しました。
――でも、今朝見ると、紙の繊維が少し弱っているように見えました。
――破れる前に、手のひらで軽く押さえました。
――まっすぐにはしていません。
――折れないようにしただけです。
――跡を残すことと、壊れるまで放っておくことは違うのだと、昨日の札を思い出しました。
――今日はアリアンヌ。
――王女の服は、しわを少しだけ伸ばしました。全部ではありません。
リクは手紙を読んで頷いた。
「姉さん、直した」
ミナが微笑む。
「はい。跡を消すためではなく、破れないように」
セリカが言う。
「それが手入れだ」
リュミナが粥を食べながら言った。
「鍋も、割れる前に支える」
「鍋は割るな」
「割ったことは少ない」
「あるのか」
今日だけの棚に札が置かれた。
“まっすぐにはしない。折れないようにする。”
“全部ではなく、少しだけしわを伸ばす。”
昼前、白盾記録院からヴォルクの報告が届いた。
九日目。
ヴォルクは名簿を読んだ。
そして、未確定の名の欄の前で止まった。
昨日までは“名がないのではない。まだこちらが知らない”と読んでいた。
今日は、記録官に尋ねた。
“この空欄の写しを、私の手元にも置いてよいか。”
審理官が問う。
“なぜですか。”
ヴォルクは答えた。
“読む時だけ見るのでは、都合がよい気がする。”
さらに沈黙。
“だが、私が持つことで所有してしまうなら、置かない方がよい。”
戻り香の家の空気が重くなる。
空欄を持つ。
それは、重い。
リクが小さく言った。
「持つと、持ち主みたいになる?」
セリカが頷く。
「なる危険がある」
ミナが続ける。
「でも、見ない場所に置いて逃げる危険もあります」
レインは長く黙ってから、間の棚に札を書いた。
“空欄の写しを、手元に置いてよいか。”
その下に、
“持つことで所有してしまうなら、置かない方がよい。”
さらに、
“読む時だけ見るのでは、都合がよい気がする。”
セリカがいつもの札を足した。
“免罪ではない。”
リオは考え、もう一枚札を書いた。
“預かるなら、返せる形で。”
リクがそれを見て、以前自分が書いた札を思い出した。
“預かる手を、時々開く。”
空欄を持つなら、握りしめてはいけない。
返せるように。
開けるように。
持っている自分を疑えるように。
午後、レムリア商市から報告が届いた。
入口に移しておいた砂の話だった。
昨日、踏まれないように紙へ移した砂を、サラ・ベルテが男に見せてよいか尋ねたという。
男はしばらく黙り、こう答えた。
“見せなくていい。でも、移したと聞いてよかった。”
料理長が尋ねた。
“捨てた方がよかったですか。”
男は首を横に振った。
“捨てられたら、来なかったことみたいになる。でも、床に残っていたら、戻れと言われているみたいだった。”
サラは記録した。
――床に残さず、捨てず、聞かれたら言う。
リクはその言葉を見て、深く頷いた。
「これ、今日の花粉と同じだ」
ミナも頷く。
「はい」
今日だけの棚に札が増えた。
“床に残さず、捨てず、聞かれたら言う。”
“移したと聞いてよかった。”
リュミナが真剣に言った。
「食べ終えた皿も、すぐ見せ続けず、捨てず、洗って、聞かれたら出す」
セリカが首を傾げる。
「皿は出さなくていい」
「皿にも記憶がある」
「それはこの家では否定しづらいな」
夕方、国王から手紙が届いた。
――リクへ。アリアンヌへ。
――アリアンヌが、手紙の端を少し直した。
――跡を消すためではなく、破れないようにするためだと聞いた。
――私はこれまで、直すことと消すことを混同してきた。
――また、残すことと放置することも混同してきた。
――今日、王妃の机の古い傷の周りの埃を少し払った。
――傷の中の埃は、そのままにした。
――まだ、どう扱えばよいかわからない。
――今日は、スープを飲んだ人。
――追伸。二杯目は半分。今日は匙を置いた跡を自分で拭いた。跡を見てから拭いた。
リクは手紙を読み、静かに頷いた。
「見てから拭いた」
リュミナが深く頷く。
「大きい」
セリカが言った。
「確かに、大きいな」
リクは今日だけの棚に札を書いた。
“直すことと消すことは違う。”
“残すことと放置することは違う。”
“跡を見てから拭く。”
夜、リクは百番目の余白を見た。
花粉は低い台へ移された。
けれど、棚板の木目には、少しだけ橙が残っている。
リクは指でこすらなかった。
「全部は取れないな」
リオが頷く。
「はい」
「全部取らなくてもいい?」
「はい」
「でも、広がらないようにはした」
「はい」
リクは少し笑った。
「今日、けっこうできた気がする」
ミナが微笑む。
「はい」
「得意にならないよう注意する」
セリカが吹き出しそうになり、リュミナが厳粛に頷いた。
「二杯目の教えだ」
その夜、リオは新しい香りを作った。
粉になった花を踏まれない場所へ移した朝。
まっすぐにはせず、折れないようにした手紙。
空欄の写しを手元に置くことの危うさ。
床に残さず、捨てず、聞かれたら言うレムリアの砂。
直すことと消すことを分けた王。
跡を見てから拭いた二杯目。
ラベルは、
“跡を移しても、なかったことにしない。”
その瓶は、百番目の余白の隣ではなく、低い台に置かれた。
移された花粉のそばに。
香りは残る。
粉になった花にも。
少しだけ直された手紙の端にも。
そして、そこに残せば重くなり、捨てれば消えるものを、踏まれない場所へ移しながら、それでも「あった」と言えるようにする朝の紙片にも。




