第百四話 預かるなら、返せる形で
翌朝、低い台に置かれた花粉の紙包みを、リクはじっと見ていた。
金木犀だったもの。
風が百番目の余白に置いたもの。
粉になり、紙へ移され、踏まれない場所へ来たもの。
紙包みは軽い。
けれど、見ていると、妙に重かった。
「これ、ずっとここに置く?」
リクが尋ねると、リオはすぐには答えなかった。
ミナも、セリカも、リュミナも、しばらく紙包みを見た。
“床に残さず、捨てず、聞かれたら言う。”
“跡を移しても、なかったことにしない。”
“預かるなら、返せる形で。”
昨日の札たちが、朝の光の中で静かに並んでいる。
リクは小さく言った。
「返せる形って、花粉だと何に返すんだ?」
リュミナが答えた。
「土」
「やっぱり?」
「たぶん」
セリカが言う。
「ただ、すぐ土へ返すか、しばらく紙包みで預かるかは別だ」
ミナが頷いた。
「預かる期間にも、確認が必要ですね」
リオは小さな木札を取り、こう書いた。
“花粉の紙包みは、三日だけ預かる。”
リクが顔を上げる。
「三日?」
「仮です。三日後に、また見て決めます」
「決めきらない約束?」
「はい」
リクは少し笑った。
「それ、便利だな」
「便利すぎると危ないです」
ミナがやわらかく言った。
「だから、日付を書きます」
木札には日付が足された。
“三日後に、土へ返すか、もう少し預かるか聞く。”
リクはそれを見て頷いた。
「これなら、握りしめてない気がする」
朝食のあと、アリアンヌから手紙が届いた。
――リクへ。
――母上への手紙を、王妃の机に置いて三日が経ちました。
――私は今朝、手紙へ尋ねました。
――このままでいいですか、と。
――もちろん、手紙は答えません。
――でも、布は乾いたまま手紙を支えていて、机の上は冷たすぎず、窓の風も今日は強くありませんでした。
――だから、もう三日ここに置くことにしました。
――永久に、とは書きません。
――もう三日です。
――今日はアリアンヌ。
――王女の服は、今日は三つだけ釦を留め直しました。
リクは手紙を読み、少し得意そうに言った。
「姉さんも三日」
ミナが微笑む。
「はい。期間を決めて預かっていますね」
セリカは札を書いた。
“永久に、とは書かない。もう三日。”
リオがその隣に、
“答えないものには、周りを見る。”
と置いた。
リュミナが深く頷いた。
「鍋も答えぬ。しかし湯気と匂いを見る」
「鍋は割と答えてる気がする」
リクが言うと、リュミナは真顔で返した。
「聞く耳があればな」
昼前、白盾記録院からヴォルクの件について、新しい判断が届いた。
未確定の名の空欄の写しを、ヴォルクの手元に置くかどうか。
審理官たちは一晩かけて協議し、条件付きで認めることにしたという。
ただし、写しには名前欄そのものだけを載せ、戦況、部隊番号、作戦図、彼の注記は載せない。
写しはヴォルクの所有物ではなく、白盾記録院からの貸与品とする。
毎日、記録官の前で箱から出し、終われば箱へ戻す。
ヴォルクが箱を開ける時、必ずこう読む。
“これは、私が知らない名であって、私の空欄ではない。”
報告を読み終えた時、戻り香の家はしんとした。
レインは椀を置き、しばらく両手を見ていた。
「私の空欄ではない」
セリカが低く言った。
「重要だ」
ミナも頷く。
「知らないことを背負う時、自分のものにしない言葉が必要です」
リクは小さく言った。
「持つけど、持ち主じゃない」
リオは頷いた。
「はい」
間の棚に新しい札が置かれた。
“これは、私が知らない名であって、私の空欄ではない。”
その下に、
“所有物ではなく、貸与品。”
さらに、
“箱から出し、箱へ戻す。”
セリカはいつものように足した。
“免罪ではない。”
レインは少し震える字で、
“それでも、見ろ。”
と書いた。
午後、レムリア商市からも、預かる形についての報告が来た。
入口の砂を紙に移した件で、男に改めて尋ねたという。
“この砂をどうしましょうか。”
男は長く黙った。
それから言った。
“三日だけ、入口の隅に置いてください。”
サラが尋ねた。
“三日後は?”
男は答えた。
“その時に聞いてください。来なかったら、紙に包んだまま棚へ。捨てないで。でも、床には戻さないで。”
料理長は、それを聞いて火口の灰についても同じ札を作った。
――灰は、今日は整えすぎない。三日後にまた見る。
リュミナはその報告を何度も読み返した。
「三日が流行している」
セリカが言う。
「流行にするな。仮の期間だ」
「三日鍋もあり得る」
「それは保存の問題になるから別途相談だ」
リクは笑いながら、今日だけの棚に札を書いた。
“三日後に、その時に聞く。”
その隣に、
“床には戻さないで。でも、捨てないで。”
夕方、国王から手紙が届いた。
――リクへ。アリアンヌへ。
――王妃の机の手紙は、もう三日置くことになった。
――私は、永久に保管せよと命じたくなった。
――しかし、永久という言葉は、今日の不安を隠す時にも使われるのだと知った。
――もう三日。
――その方が、私には難しい。
――今日、王妃の机の傷の周りの埃を少し払った。
――傷の中には触れなかった。
――三日後にまた見る。
――今日は、スープを飲んだ人。
――追伸。二杯目は半分。今日は三口に分けた。永久ではなく、三口。
リクは吹き出した。
「永久ではなく、三口」
リュミナは深く感動したように頷いた。
「名文だ」
セリカも笑っていた。
「確かに、悪くない」
ミナが札を書いた。
“永久という言葉は、今日の不安を隠す時がある。”
リオがその下に、
“もう三日。その方が難しい。”
と置いた。
リクは小さく、
“永久ではなく、三口。”
と足した。
その札を見て、リュミナが満足げに腕を組んだ。
夜、リクは低い台の花粉の紙包みを見た。
“三日だけ預かる。”
“三日後に、土へ返すか、もう少し預かるか聞く。”
紙包みは相変わらず軽い。
でも、朝ほど重くは感じなかった。
期限があるからかもしれない。
返す道が書かれているからかもしれない。
リクは小さく言った。
「三日後、忘れたら?」
リオは答えた。
「札が思い出させてくれます」
「札も忘れたら?」
ミナが微笑む。
「誰かが見つけます」
「誰も見つけなかったら?」
セリカが静かに言った。
「その時は、見つけた日に記録する」
リクは頷いた。
「隠さない」
「そうだ」
その夜、リオは新しい香りを作った。
三日だけ預かる花粉。
もう三日、王妃の机に置かれる手紙。
“これは私の空欄ではない”と読む箱。
入口の砂を床に戻さず捨てない約束。
永久ではなく、もう三日と書いた王。
三口に分けられた二杯目。
ラベルは、
“預かるなら、返せる形で。”
その瓶は、花粉の紙包みのそばに置かれた。
箱でも、棚でも、土でもなく。
返す道が見える場所に。
香りは残る。
三日だけ預かる紙包みにも。
私の空欄ではないと読む震える声にも。
そして、永久という大きすぎる蓋ではなく、もう三日という小さな約束で今日の不安を少しだけ置いておく夜の棚にも。




