第九十六話 土へ返す日にも、さよならとは限らない
翌朝、リクは最初に落ちた金木犀の花を土へ返すことにした。
布の上の花は、もうほとんど香らない。
小さく丸まり、色も淡くなり、花というより、花だったものに近づいている。
それでもリクは、雑に扱えなかった。
「今日、戻す」
彼がそう言うと、ミナは小さな木匙を持ってきた。
リュミナは鍋の火を弱め、セリカは白盾を壁に立てかけた。レインは灰星の棚の前で一礼してから庭へ出た。ノアは弦を持っていたが、まだ鳴らさなかった。
まるで葬儀のようで、リクは少し困った顔をした。
「大げさじゃない?」
セリカが答えた。
「大げさかどうかは、後で決めればいい」
リュミナが真剣に言う。
「土へ返す時は、静かな方がよい」
「食べる時は?」
「にぎやかでもよい」
「わかりやすいな」
金木犀の根元から少し離れた場所に、小さな穴を掘った。
深くはない。
花が土に隠れるだけの、小さな場所。
リクは布の上の花を指先でつまみ、少しだけ止まった。
「さよなら、なのかな」
ミナは首を横に振らず、頷きもせずに言った。
「さよならの日もあります。でも、今日は“返す”日かもしれません」
「返す」
「はい。枝から落ちて、布の上にいて、今度は土へ」
リクは花を見た。
「じゃあ、さよならとは限らない」
リオが静かに頷いた。
「はい」
リクは花を土の穴へ置いた。
花は軽く、音もしなかった。
その上に、ミナが少しだけ土をかける。
全部隠す前に、リクが言った。
「待って」
ミナは手を止めた。
リクは小さな札を置いた。
“最初に落ちた花を、土へ返した。”
それから、もう一枚。
“さよならとは限らない。”
土をかけた。
花は見えなくなった。
だが、消えたという感じはしなかった。
リクは指先についた土を見た。
「戻った」
リュミナが頷いた。
「土は受け取った」
セリカが言う。
「受け取ったが、所有はしていない」
リクは少し笑った。
「セリカまでそういう言い方するんだな」
「この家にいると移る」
朝食の席では、誰も花の話を無理にしなかった。
ただ、リュミナが小さな椀に粥を少し残し、
「これは二杯目ではない」
と真顔で言ったので、リクが笑った。
「何の言い訳だよ」
「残す練習だ」
セリカが驚いたように見る。
「お前が?」
「私は成長する竜だ」
「ついにここまで来たか」
リュミナが残した粥は、後で自分で温め直して食べた。
“残したが、捨てなかった。”
という札が日々の棚に増えた。
昼前、アリアンヌから手紙が届いた。
――リクへ。
――今日、母上への咲き始めた手紙を、温室の椅子から王妃の机へ移しました。
――箱ではありません。
――霊廟でもありません。
――でも、花のそばから少し離しました。
――香りを運んだ布は、手紙の下に敷いたままです。
――離すことが、捨てることではないと少し思えました。
――今日はアリアンヌ。
――王女の袖の土は、洗いました。
――でも、袖が土を覚えている気がします。
リクは手紙を読んで、朝に土へ返した花の場所を見た。
「離すことが、捨てることじゃない」
リオは頷いた。
「はい」
「土に戻すのも、離すこと?」
「そうですね」
「でも、捨ててない」
「はい」
今日だけの棚に新しい札が置かれた。
“離すことは、捨てることではない。”
その隣に、
“袖は土を覚えている気がする。”
ミナが微笑んだ。
「気がする、の記録が増えましたね」
「本当かわかんないこと、多いからな」
リクは言った。
「でも、急いで本当か決めなくていいやつ」
午後、白盾記録院からヴォルクの名読みの続報が届いた。
二日目。
ヴォルクは第三歩兵隊の名を読んだ。
一日目より声は安定していた。
だが、ユーロ・ダンの名で止まった。
記録官が理由を尋ねると、ヴォルクは言った。
“焦げ豆の名が先に浮かんだ。”
審理官は問うた。
“それは不適切だと思いますか。”
ヴォルクは長く沈黙した。
“以前なら不適切と言った。”
さらに沈黙。
“今は、わからない。”
レインは報告書を聞きながら、両手を組んでいた。
「ユーロさんの名と焦げ豆が一緒に浮かんだ」
リュミナが静かに言った。
「よいことだ。名だけでは寒い」
セリカは慎重に言う。
「だが、焦げ豆だけにしてはいけない」
「わかっている」
リュミナは頷いた。
「名と腹と笑い。全部いる」
レインは間の棚に札を書いた。
“ユーロ・ダンと焦げ豆が一緒に浮かんだ。”
その下に、
“焦げ豆だけにしない。”
リクが足した。
“でも、焦げ豆を消さない。”
セリカがいつもの札を置く。
“免罪ではない。”
その並びを見て、リオは胸の奥に温かい重さを感じた。
人を象徴にしない。
でも、象徴になるほど大切な日々を消さない。
それは難しい。
名だけでは寒い。
日々だけでも散らばる。
だから、棚がいる。
椀がいる。
人がいる。
夕方、レムリア商市からの手紙が来た。
――戻り香の家へ。
――今日は名前を言わない者が来ました。
――彼は、見えない棚に置いた空の椀を、今日は見ないと言いました。
――しかし、帰り際に、料理長へこう尋ねました。
――“水は温めた?”
――料理長は答えました。
――“今日は温めていません。灰だけ整えました。”
――彼は少し考え、“それでいい”と言いました。
――その後、“明日、温めてほしいかもしれない”と言いました。
――私たちは、“明日聞きます”と答えました。
リクは読み終えて、深く頷いた。
「明日聞きます」
ミナも頷く。
「いい返事です」
リュミナは満足そうだった。
「灰だけの日の次に、水の日が来るかもしれぬ」
「来ないかもしれない」
リクが言うと、リュミナは頷いた。
「だから明日聞く」
今日だけの棚に札が増えた。
“明日、温めてほしいかもしれない。”
“明日聞きます。”
夜、国王から手紙が届いた。
――リクへ。アリアンヌへ。
――アリアンヌが手紙を王妃の机へ移した。
――私はそれを見た。
――温室から離れたことで、少し寂しくなった。
――しかし、離すことは捨てることではないと、彼女が言った。
――今日、私はエレオノーラの名を呼ばなかった。
――しかし、机に置かれた手紙を見て、呼ばなかったことが逃げではない日もあると思った。
――今日は、スープを飲んだ人。
――追伸。二杯目は今日は飲まなかった。迷ったが、明日また考える。
リクは手紙を読み、今日だけの棚へ札を書いた。
“呼ばなかったことが、逃げではない日もある。”
その下に、少し笑いながら、
“二杯目は明日また考える。”
リュミナが深く頷いた。
「明日考える力」
セリカが言う。
「二杯目から王が学んでいるな」
「椀は偉大だ」
「それは認める」
夜、リクは土へ返した花の場所に立った。
もう花は見えない。
けれど、札がある。
“最初に落ちた花を、土へ返した。”
“さよならとは限らない。”
リクはその札を見て、小さく言った。
「またな、でも変だよな」
リオは隣で答えた。
「変ではないと思います」
「花、戻ってくる?」
「同じ形ではないかもしれません」
「土になって、木に戻る?」
「そうかもしれません」
リクは少し笑った。
「じゃあ、またな」
その夜、リオは新しい香りを作った。
土へ返された最初の花。
離すことは捨てることではないと書いたアリアンヌ。
袖が土を覚えている気がするという言葉。
ユーロ・ダンと焦げ豆を一緒に浮かべたヴォルク。
明日温めてほしいかもしれない水。
呼ばなかったことが逃げではない日。
明日また考える二杯目。
ラベルは、
“土へ返す日にも、さよならとは限らない。”
その瓶は、根元の低い台に置かれた。
土へ返した花の場所が見えるように。
香りは残る。
土に戻した花にも。
王妃の机へ移された手紙にも。
そして、同じ形では戻らないかもしれないものへ、それでも小さく「またな」と言えるようになった朝の指先にも。




