第九十五話 役目が変わるものを、捨てない
拾われた最初の金木犀の花は、布の上で一晩を過ごした。
翌朝には、さらに小さくなっていた。
花弁は内側へ丸まり、橙は少し褪せ、昨日よりも軽そうに見える。リクが息を吹きかければ飛んでしまいそうだった。
でも、まだ捨てる気にはならなかった。
「これ、どうする?」
リクは布の上の花を見ながら言った。
ミナが隣にしゃがむ。
「土へ戻すこともできます」
「瓶にする?」
リオは少し考えた。
「香りは、もうほとんどありません」
「じゃあ瓶じゃない?」
「香りの瓶ではないかもしれません。でも、別の形で残すことはできます」
リュミナが鍋の蓋を持ったまま言った。
「粉にして土へ混ぜる」
リクが振り返る。
「料理じゃなくて?」
「肥やしだ」
セリカが少し笑った。
「まともだな」
「花は食べぬ。土に返す」
リクは布の上の花を見た。
土へ返す。
それは捨てるのとは違う気がした。
けれど、今日すぐではない気もした。
「今日は、まだ布の上」
彼は言った。
「明日、土に返すか考える」
ミナは頷いた。
「はい」
木札が増えた。
“今日は、まだ布の上。”
その下に、リオが小さく足した。
“役目が変わる途中。”
朝食のあと、王都からアリアンヌの手紙が届いた。
――リクへ。
――母上への咲き始めた手紙の下に敷いた布は、今日もそこにあります。
――もう香りはしません。
――けれど、手紙が直接冷たい机に触れないようにしてくれています。
――私は、布に謝りたくなりました。
――香りがなくなったから、もう役目が終わったと思いかけたからです。
――役目が変わるものを、終わったものと決めないようにしたいです。
――今日はアリアンヌ。
――王女の袖の土は、少しだけ残しました。
リクは読み終えて、布の上の花を見た。
「姉さんも同じこと考えてる」
ミナが微笑む。
「香りが通って、帰ってきたのでしょう」
リクは今日だけの棚に札を書いた。
“役目が変わるものを、終わったものと決めない。”
そしてもう一枚。
“袖の土を、少しだけ残した。”
セリカがそれを見て、穏やかに言った。
「王城の洗濯係は困るだろうが、今日はそれでいいな」
リュミナが頷く。
「土は記録だ」
昼前、白盾記録院から報告が届いた。
ヴォルクが、第三歩兵隊の名を読む時間を始めたという。
監視のもと、毎朝、彼は記録官に渡された名簿を読む。
オーウェン・マルク。
ハイネ・ロス。
テオ・バル。
サナ・イリス。
ミル・コート。
ユーロ・ダン。
ペトラ・エイン。
ロイ・カナ。
ダム・リース。
イルマ・セイ。
ガット。
そして、まだ確定していない名の欄。
一日目、ヴォルクは途中で声を詰まらせた。
記録官が止めようとすると、彼は首を横に振った。
“止める資格はない。”
そう言って、最後まで読んだ。
戻り香の家でその報告が読まれた時、レインは椀を持ったまま動かなかった。
リオはそっと尋ねた。
「椀を置きますか」
レインは首を横に振った。
「持ちます」
「食べますか」
「少し後で」
「はい」
レインはしばらくして、間の棚に札を書いた。
“止める資格はない。”
その下に、少し時間を置いて、
“止めずに読むことと、償うことは同じではない。”
セリカが頷き、いつもの札を足した。
“免罪ではない。”
リクはその札の横に、別の小さな札を置いた。
“でも、読め。”
レインはそれを見て、小さく息を吐いた。
「はい」
リュミナが静かに言った。
「苦いものは、苦いまま噛む日がある」
誰も笑わなかった。
午後、レムリア商市から手紙が届いた。
料理長が、空の椀のそばに置いていた温めるだけの水について書いたものだった。
――戻り香の家へ。
――今日は名前を言わない者は来ませんでした。
――私は水を温めませんでした。
――火口の灰だけ整えました。
――水を温めないと、何もしていないようで不安でした。
――サラ所長に、“灰を整えるのも仕事です”と言われました。
――私は少し納得しました。
――水を温める役目がない日には、灰を整える役目があるのかもしれません。
リュミナは何度も頷いた。
「非常によい」
リクは言った。
「料理長、もう戻り香の家の人みたいだな」
セリカが小さく笑う。
「遠いが、棚はつながっている」
ミナは札を書いた。
“水を温めない日は、灰を整える。”
リオがもう一枚。
“何もしていないようで不安な日。”
それは日々の棚に置かれた。
何もしていないように見えることにも、役目がある日がある。
夕方、国王からの手紙が届いた。
――リクへ。アリアンヌへ。
――温室の布が、香りを運ぶ役目から手紙を支える役目になったと聞いた。
――私は、役目が変わった者を扱うのが下手だった。
――王として使えなくなったものを、不要とした。
――役目を終えた人を、退けた。
――役目が変わった悲しみを、記録しなかった。
――今日、温室の椅子を、空の椀を守る椅子ではなく、私が何も命じないための椅子として使った。
――同じ椅子だが、少し役目が変わった。
――今日は、スープを飲んだ人。
――追伸。二杯目は半分。今日は少し温かいうちに飲んだ。
リクは手紙を読んで、椅子を見た。
戻り香の家にも、空を守る人の椅子がある。
ミナが座った椅子。
誰かが休むための椅子。
何かを入れないための椅子。
聞く力を戻すための椅子。
役目は一つではない。
リクは札を書いた。
“同じ椅子でも、役目が変わる。”
その隣に、
“何も命じないための椅子。”
リュミナが追伸を読んで満足そうに言った。
「半分でも温かいうちに飲む。よい」
セリカが笑う。
「二杯目の記録が、日に日に細かくなるな」
「細かい火加減が命を救う」
「大げさだが、少し正しい」
夜、リクは布の上の最初の花を見に行った。
「明日は土に戻すかも」
彼は言った。
リオは頷く。
「はい」
「戻したら、なくなる?」
「形は変わるでしょう」
「でも、土になる?」
「はい。たぶん」
「金木犀の土?」
「そうですね」
リクは少し考えた。
「じゃあ、捨てるんじゃないな」
「はい」
「役目が変わる」
「はい」
リクは花を見て、小さく言った。
「おつかれ」
それは、花へ向けた言葉だった。
誰も笑わなかった。
その夜、リオは新しい香りを作った。
布の上で小さくなった最初の花。
香りを運ぶ布から手紙を支える布へ変わった王都の温室。
袖に残された土。
第三歩兵隊の名を止めずに読んだヴォルク。
水を温めない日に灰を整えた料理長。
同じ椅子が、何も命じないための椅子になった王。
温かいうちに飲まれた二杯目の半分。
ラベルは、
“役目が変わるものを、捨てない。”
その瓶は、根元の低い台と今日だけの棚のあいだに置かれた。
役目が変わるものは、場所も変わる。
棚から台へ。
香りから布へ。
椅子から沈黙へ。
花から土へ。
香りは残る。
役目を終えたのではなく、役目を変えた布にも。
止める資格はないと読み続けた苦い声にも。
そして、捨てるのではなく土へ返すかもしれない花へ、小さく「おつかれ」と言った夜の指先にも。




