第九十四話 拾う手にも、土の匂いがつく
翌朝、最初に落ちた金木犀の花は、まだ根元にあった。
昨日より少し色が沈んでいる。
橙は淡くなり、花弁の端がわずかに丸まっていた。けれど、土の上で汚れているというより、土の色に少し近づいたように見えた。
リクはしゃがみこんだ。
「まだ花だな」
ミナも隣にしゃがむ。
「はい」
「でも、昨日とは違う」
「はい」
「拾う?」
ミナは花を見た。
風は弱い。
踏まれる場所ではない。
けれど、昨夜の湿気で花は少し土に沈みかけている。
「拾ってもいい頃かもしれません」
リクはすぐには手を伸ばさなかった。
拾う。
その簡単な動作が、今日は少し重い。
そのままにしておくことを選んだ昨日があったから、拾うことも選ばなければならない気がした。
リュミナが後ろで言った。
「拾う手にも、土の匂いがつく」
セリカが頷く。
「拾う者も、無傷ではいないということだな」
「そうだ」
「今日も正しいな」
リクは花を見て、小さく息を吐いた。
「じゃあ、拾う」
彼は指先で花をつまんだ。
とても軽い。
けれど、土の湿り気が花弁の裏についていた。
指先にも、土の匂いが移った。
リクは少し驚いた顔をした。
「土の匂いする」
リオが静かに言った。
「はい」
「花だけじゃなくなった」
「はい」
「でも、悪くない」
「はい」
拾った花は、今日だけの棚の上には置かなかった。
リクは迷った末、低い台に小さな布を敷き、その上に置いた。
根元に近い場所。
まだ花のそば。
でも、土から少し離れた場所。
木札にはこう書いた。
“最初に落ちた花を、今日拾った。”
そしてもう一枚。
“拾う手にも、土の匂いがつく。”
朝食の席で、リクはまだ指先を嗅いでいた。
リュミナが興味深そうに見る。
「食べ物ではない匂いだ」
「当たり前だろ」
「だが大事な匂いだ」
ミナが微笑む。
「花が土へ近づいた匂いですね」
レインが静かに言った。
「帰る匂いかもしれません」
その言葉に、灰星の額飾りがある棚の方へ、皆の視線が少しだけ動いた。
帰る匂い。
花が枝から土へ。
香りが風から瓶へ、王都へ、また手紙に混じって戻ってくる。
人が過去へ戻ることはできない。
けれど、帰る匂いは、時々残る。
昼前、王都からアリアンヌの手紙が届いた。
――リクへ。
――今朝、温室の椀のそばに置いていた乾いた布を手に取りました。
――乾いて、少し硬くなっていました。
――もう朝露の布ではないのかもしれません。
――でも、捨てる気にはなれませんでした。
――母上への咲き始めた手紙の下に敷きました。
――布は、香りを運ぶものから、手紙を支えるものになりました。
――今日はアリアンヌ。
――王女の服は、今日は袖を少し汚しました。温室の土です。
リクは手紙を読んで、自分の指先を見た。
「姉さんも土」
ミナが頷く。
「はい」
「布の役目、変わったんだな」
リオは答えた。
「物の名前は、時間で変わることがあります」
リクは今日だけの棚に札を書いた。
“香りを運ぶ布から、手紙を支える布へ。”
その隣に、
“王女の袖に温室の土。”
リュミナが満足げに言った。
「土はよい。育てる」
セリカが言う。
「礼装に土がつくと侍従は困るだろうがな」
「王女の服も土を覚えるべきだ」
「それも、まあ、そうかもしれん」
午後、白盾記録院からヴォルク審理の続きが届いた。
審理官は、ヴォルクにこう問うた。
“奪ったことを忘れないでいる、とあなたは言いました。では、忘れないために何をしますか。”
ヴォルクは答えた。
“毎日、第三歩兵隊の名を読む。”
審理官。
“それは誰のためですか。”
沈黙。
ヴォルク。
“最初は、自分が逃げないため。”
さらに沈黙。
“彼らのため、と言う資格はない。”
レインは報告書を聞いて、目を閉じた。
「彼らのためと言う資格はない」
セリカが静かに言った。
「そうだな」
ミナが続ける。
「でも、自分が逃げないために読むことは、責任の一部かもしれません」
リクは間の棚に札を書いた。
“毎日、第三歩兵隊の名を読む。”
その下に、
“最初は、自分が逃げないため。”
セリカが足す。
“免罪ではない。”
レインはしばらく考え、もう一枚書いた。
“彼らのためと言う資格はない。”
そして、少し手を震わせながら、
“それでも読め。”
リオはその字を見て、胸が締めつけられた。
許しではない。
和解でもない。
しかし、逃がさないための言葉。
それもまた、裁きの棚に必要だった。
夕方、レムリア商市から報告が来た。
“今日は名前を言わない者”は、今日は来なかった。
料理長は棚の奥の椀を見に行かなかった。
代わりに、サラ・ベルテが確認した。
椀はそこにあり、空だった。
料理長は言った。
“今日は、私が見ない日です。”
サラは尋ねた。
“見なくても、あると信じられますか。”
料理長は少し考え、
“少しなら。”
と答えた。
リュミナが深く頷いた。
「料理長も進んでいる」
リクは笑った。
「椀を見ない練習か」
ミナが札を書いた。
“今日は、私が見ない日。”
リオがもう一枚。
“見なくても、あると少し信じる。”
それは“見えない場所に、捨てずに置く”の近くへ置かれた。
夜、国王からの手紙が届いた。
――リクへ。アリアンヌへ。
――乾いた布が、手紙を支える布になったと聞いた。
――役目が変わっても、失われたわけではないのだと思った。
――今日、温室で、私はエレオノーラの名を呼ばなかった。
――呼ばなかったが、昨日呼んだことは消えていなかった。
――何も起きなかった朝の次に、何も呼ばない夕方がある。
――それも、逃げではない日があるのだろう。
――今日は、スープを飲んだ人。
――追伸。二杯目を半分飲んだ。昨日と同じだが、今日は自分で決めた。
リクは手紙を読み、今日だけの棚へ札を置いた。
“役目が変わっても、失われたわけではない。”
そして、
“呼ばなかったが、昨日呼んだことは消えていない。”
リュミナは追伸に反応した。
「同じ半分でも、自分で決めたなら違う」
セリカが頷く。
「そうだな」
リクは笑った。
「二杯目、深いな」
「椀は深い」
リュミナが言った。
今度は誰も否定しなかった。
夜、リオは新しい香りを作った。
最初に落ちた花を拾った指先。
花に移った土。
乾いた布が手紙を支える布になった王都の温室。
王女の袖の土。
第三歩兵隊の名を読むと決めたヴォルク。
それでも読め、と書いたレイン。
見なくてもあると少し信じた料理長。
呼ばなかった夕方。
自分で決めた二杯目の半分。
ラベルは、
“拾う手にも、土の匂いがつく。”
それは金木犀の根元に近い低い台に置かれた。
昨日の瓶、“散る花に、片づけを急がせない”の隣に。
花は、枝にある時だけ花なのではない。
落ちても、土に近づいても、拾われても、布の上に移されても、そのたびに少し名前を変えながら残る。
香りは残る。
土のついた指にも。
役目を変えた布にも。
そして、昨日はそのままにし、今日は拾うと決めた手が、花だけでなく土の湿り気まで引き受けた朝にも。




