第九十三話 散る花に、片づけを急がせない
翌朝、金木犀の花が一つ落ちていた。
たった一つ。
根元の土の上に、小さな橙の星が静かに横たわっている。
リクはそれを見つけた時、息を止めた。
昨日まで枝にあったものが、今日は地面にある。
それだけのことだ。
花はまだたくさん咲いている。香りも濃い。むしろ朝の湿り気のせいで、昨日より深く感じるほどだった。
けれど、落ちた一つの花は、満開のどんな香りよりも強くリクの目に入った。
「落ちた」
彼は言った。
声は小さかった。
ミナが隣にしゃがむ。
「はい」
「散った?」
「一つ、散りました」
「拾う?」
ミナはすぐには答えなかった。
リオも、セリカも、リュミナも、少し離れたところで見ていた。
散る前に聞く。
そう決めたばかりだった。
でも、花はもう落ちた。
落ちた花に、どう聞くのか。
リュミナが珍しく鍋から離れて、静かに言った。
「拾う前にも聞く」
リクは顔を上げた。
「どうやって」
「土を見る。花を見る。踏まれそうか。腐りそうか。そこにいたそうか」
セリカが頷いた。
「落ちたものをすぐ片づけるのは、時に礼儀だ。だが、すぐ片づけないことが必要な時もある」
リクは落ちた花を見た。
土の上。
根元。
枝の影。
踏まれる場所ではない。
風に飛ばされそうでもない。
花は、そこに落ち着いているように見えた。
「今日は、そのまま?」
リオが静かに頷く。
「よいと思います」
リクは小さな木札を書いた。
“最初に落ちた花は、今日はそのまま。”
それを今日だけの棚ではなく、金木犀の根元近くに挿した。
花のそば。
いや、落ちた花のそば。
今日だけの棚に、もう一枚札が増えた。
“散る花に、片づけを急がせない。”
朝食の時、リクは少し静かだった。
椀を持っているのに、何度も外を見る。
リュミナが粥をよそいながら言った。
「落ちた花にも朝食は必要か」
「食べないだろ」
「土が食べる」
セリカが箸を止めた。
「それも、まあ、そうだな」
ミナが微笑む。
「落ちた花は、土に戻るかもしれません」
リクは少し顔をしかめた。
「土に食べられるって言うと嫌だけど、土に戻るなら……まあ」
「言葉の椀だな」
リュミナが言う。
「盛り方で味が変わる」
誰も否定しなかった。
昼前、アリアンヌから手紙が届いた。
彼女の手紙もまた、散る話だった。
――リクへ。
――温室の椀の横に置いていた朝露の布が、今朝、完全に乾いていました。
――香りもほとんどありません。
――私は少し寂しくなりました。
――濡れていた布を、乾く前に小瓶へ入れておけばよかったのではないかと思いました。
――でも、乾くことを止めなくてよかったとも思います。
――母上への咲き始めた手紙は、まだ温室にあります。
――今日は、乾いた布をそのまま置きます。
――今日はアリアンヌ。
――王女の服は、香りを覚えている気がしますが、たぶん私の気持ちです。
リクは手紙を読んで、落ちた花を思い出した。
乾いた布。
落ちた花。
どちらも、変わったもの。
元に戻らないもの。
でも、すぐしまわなくてもいいもの。
彼は今日だけの棚に札を書いた。
“乾いた布を、そのまま置く。”
その隣に、
“香りを覚えている気がする服。”
ミナがその札を見て、少し笑った。
「気がする、も大切です」
「本当かわからないけど?」
「はい。本当かどうかを急いで決めない気持ちです」
午後、白盾記録院からヴォルクの審理続報が届いた。
短いが、重い。
審理官がヴォルクに問うた。
“あなたは、奪った時間に名前を戻す作業へ関わる資格はないと言いました。では、あなたにできることは何ですか。”
長い沈黙の後、ヴォルクは答えた。
“奪ったことを、忘れないでいること。”
審理官がさらに問う。
“それは罰ですか、責任ですか。”
ヴォルク。
“今は、区別がつかない。”
戻り香の家の空気が重くなる。
レインは報告書を見つめ、ゆっくり息を吐いた。
「忘れないでいること」
セリカが言った。
「それだけでは足りない」
「はい」
レインは頷く。
「でも、そこから逃げられるよりは……まだ」
言葉はそこで途切れた。
ミナが静かに言った。
「罰と責任の区別がつかない時もあります」
リュミナが鍋を見つめる。
「熱すぎる椀は、味も罰もわからぬ」
「例えは妙だが、わかる」
セリカが答えた。
レインは間の棚に札を書いた。
“奪ったことを、忘れないでいること。”
その下に、
“罰か責任か、今は区別がつかない。”
セリカはいつものように足した。
“免罪ではない。”
リクはそれを見て、さらに一枚置いた。
“忘れないだけで終わらせない。”
レインはその札を見て、少しだけ微笑んだ。
「はい」
夕方、レムリア商市からも報告が届いた。
“今日は名前を言わない者”は、今日は来なかった。
しかし、料理長は棚の奥の椀を確認し、何も入っていないことを見て、また戻したという。
サラ・ベルテは書いていた。
――彼が来なくても、椀はそこにあります。
――しかし、今日は私たちは椀を見せる準備をしませんでした。
――確認だけしました。
――来ない人にまで、見せる準備を押しつけないためです。
リクはその一文で少し首を傾げた。
「来ない人にまで、準備を押しつける?」
リオは考えながら答えた。
「来たらすぐ見せよう、すぐ話そう、すぐ食べさせようと待ち構えすぎることかもしれません」
ミナが頷く。
「待つ側の準備が、相手の次の行動を決めてしまうことがあります」
リュミナが静かに言った。
「鍋を煮立たせて待つと、食べねばならぬ圧になる」
セリカが感心する。
「また正しい」
今日だけの棚に札が増えた。
“確認だけの日。”
“見せる準備を押しつけない。”
夜、国王から手紙が届いた。
――リクへ。アリアンヌへ。
――温室の朝露の布が乾いた。
――アリアンヌは、そのまま置いた。
――私は、それを見て少し焦った。
――乾く前に記録すべきだったのではないかと思った。
――しかし、乾くことも時間なのだろう。
――今日、私は温室で何も記録しなかった。
――ただ、乾いた布を見た。
――今日は、スープを飲んだ人。
――追伸。二杯目を迷った。今日は半分だけ飲んだ。メリッサは“よく考えました”と言った。
リュミナが深く頷く。
「二杯目を半分。高度だ」
リクも笑った。
「間の棚の二杯目だ」
セリカが言う。
「二杯目にまで棚ができるとはな」
国王の手紙から、今日だけの棚に札が置かれた。
“乾くことも時間。”
そして、
“何も記録せず、ただ見た。”
リオはその札を見て、胸の奥が少し痛んだ。
調香師として、何も記録しないことは怖い。
けれど、何も記録せず、ただ見る時間もある。
散る花をすぐ瓶にしない。
乾いた布をすぐしまわない。
落ちた花をすぐ拾わない。
それも、時間の扱い方だった。
夜、リクは金木犀の根元を見に行った。
朝落ちた花は、まだそこにあった。
少しだけ色がくすんでいる。
けれど、汚くはない。
土の上で、静かに花だった。
「明日は拾う?」
リオが尋ねると、リクは少し考えた。
「明日、また見る」
「はい」
「拾うかもしれないし、そのままかもしれない」
「はい」
「踏まれそうなら拾う」
「はい」
「でも、今日はここ」
「はい」
その夜、リオは新しい香りを作った。
最初に落ちた花。
乾いた朝露の布。
香りを覚えている気がする王女の服。
忘れないでいることを責任とも罰とも呼べないヴォルク。
見せる準備を押しつけないレムリアの椀。
乾くことも時間だと書いた王。
二杯目を半分だけ飲んだスープの人。
ラベルは、
“散る花に、片づけを急がせない。”
その瓶は今日だけの棚ではなく、金木犀の根元に近い低い台に置かれた。
落ちた花のそばに。
香りは残る。
最初に落ちた一輪にも。
乾いた布をそのまま見た温室にも。
そして、散ったからといってすぐ意味にせず、すぐ記録にせず、すぐ片づけず、土の上でしばらく花でいさせる朝の静けさにも。




