第九十二話 ほとんど満開の日に、散る話をする
金木犀が“ほとんど満開”になった翌朝、リクは初めて、散ることを考えた。
花はよく香っている。
庭に出る前から、台所の窓辺でわかるほどだった。鍋の湯気の奥に、声守草の青さとは違う甘さがあり、古い椅子の木の匂いをやわらかく包んでいる。
それなのに、リクは花の前で黙っていた。
ミナが隣に立つ。
「どうしましたか」
リクは枝を見上げたまま言った。
「これ、いつか散るんだよな」
ミナは少し目を伏せた。
「はい」
「せっかく咲いたのに」
「はい」
「散ったら、今日だけの棚はどうするんだろ」
風が吹いた。
金木犀の小さな花が揺れる。
まだ一つも落ちてはいなかった。
でも、いつか落ちる。
そのことを、花の香りは隠していなかった。
リオは調香室から出てきて、リクの言葉を聞いた。
「満開になったら、また聞く約束でしたね」
「うん。でも、満開の次は散るんだろ」
「はい」
「散る前にも聞いた方がいい?」
リュミナが鍋を持ったまま真剣に言った。
「食べ終わる前にも聞くべきことはある」
セリカが言う。
「何をだ」
「もう一杯いるか。残すか。持ち帰るか。今日はここまでか」
セリカは少し黙り、頷いた。
「正しい」
リクは花を見て、小さな札を書いた。
“散る前にも、聞く。”
それを今日だけの棚に置いた。
昼前、王都からアリアンヌの手紙が届いた。
まるでリクの考えを知っていたかのような内容だった。
――リクへ。
――温室の椀は今日も空です。
――母上への咲き始めた手紙も、まだ椅子のそばにあります。
――でも、今朝、ふと思いました。
――花が散ったら、手紙をどうするのか。
――花のそばに置きたいと思っていました。
――でも、花はいつか散ります。
――散った後も、花のそばという言い方はできるのでしょうか。
――私は、まだ決められません。
――今日はアリアンヌ。
――王女の服は、少しだけ香りを覚えています。
リクは手紙を読んで、眉を寄せた。
「姉さんも同じこと考えてる」
ミナが静かに微笑む。
「香りが同じ道を通ったのかもしれません」
リクは返事を書こうとして、筆を止めた。
すぐには答えられない。
だから、彼は今日だけの棚に新しい札を足した。
“花が散った後の花のそば。”
それは変な言葉だった。
でも、変な言葉ほど、本当に必要な時がある。
午後、白盾記録院からの報告は重かった。
ヴォルクの審理が、ひとつの区切りに近づいているという。
彼は第三歩兵隊を“私が奪った時間”と呼んだ。
その後、審理官は彼に問うた。
“奪った時間に名前を戻す作業へ、あなたはどのように関わるべきだと思いますか。”
ヴォルクは長く沈黙した。
そして答えた。
“関わる資格はない。”
審理官が問う。
“では、関わらないことが責任ですか。”
さらに長い沈黙。
ヴォルクは言った。
“わからない。”
戻り香の家でその報告が読まれた時、レインは目を閉じた。
「わからない」
彼は繰り返した。
「彼が、それを言った」
セリカは低く言った。
「初めてかもしれんな」
「はい」
レインは椀の縁に触れた。
「でも、わからないで逃げることもできます」
「そうだ」
「わからないまま、留まることもできます」
「そうだ」
ミナが静かに言った。
「“わからない”にも、火加減があります」
リュミナが頷いた。
「生煮えのまま出してはいけない。しかし火にかけ続けて焦がしてもいけない」
リクは間の棚に札を書いた。
“関わる資格はない。”
その下に、
“関わらないことが責任か。”
さらに、
“わからない。”
セリカがいつものように足した。
“免罪ではない。”
レインはしばらくそれを見つめてから、もう一枚書いた。
“わからないで逃げるな。”
そして、少し間を置いて、
“でも、わからないと言えたことは記録する。”
それを間の棚へ置いた。
今日だけの棚から、金木犀の香りが届いている。
重い審理の札にも、花の香りは通った。
入ったのではない。
所有したのでもない。
ただ、通った。
夕方、レムリア商市から手紙が来た。
“今日は名前を言わない者”は、今日、自分から空の椀を見せてほしいと言ったという。
料理長が棚の奥から椀を出した。
男は椀を見て、こう言った。
“まだ空だ。”
料理長が頷く。
“空です。”
男はしばらくして、
“今日は、それでよかった。”
と言った。
サラ・ベルテは続けて書いていた。
――彼は椀に何も入れませんでした。
――煮込みも食べませんでした。
――ただ、空であることを確認しました。
――帰る時、彼は“また隠しておいてください”と言いました。
リクはその報告を読んで、深く頷いた。
「見たり、見なかったりするんだな」
リオは答える。
「はい。どちらかに決めなくていいのだと思います」
ミナは札を書いた。
“まだ空だ。それでよかった。”
そしてもう一枚。
“また隠しておいてください。”
今日だけの棚の下に置かれた“今日は見えない方がいいもの箱”のそばへ。
夜、国王から手紙が届いた。
――リクへ。アリアンヌへ。
――花は、いつか散る。
――私は、咲いたものを保管したくなる。
――散る前に記録し、布に包み、香りを閉じ込め、散った後も失わないよう命じたくなる。
――だが、散ることを止めてはならないのだろう。
――散る前に聞く、という考えを聞いた。
――私にも必要だ。
――何を残すか。
――何を散らすか。
――何を空のままにするか。
――今日は、スープを飲んだ人。
――追伸。二杯目を迷った。今日は飲まなかった。明日はわからない。
リクは手紙を読んで、少し笑った。
「二杯目、長いな」
リュミナは満足そうに頷く。
「二杯目の間の棚だ」
セリカが小さく笑った。
「そうかもしれん」
国王の言葉から、今日だけの棚に札が増えた。
“散ることを止めてはならない。”
“何を残すか。何を散らすか。何を空のままにするか。”
リオはそれを見て、胸の奥が少し痛んだ。
調香師は、散るものを残そうとする。
失われる香りを瓶にし、戻れない時間の匂いを棚に置く。
それは救いになることもある。
だが、すべてを残そうとすれば、散る権利を奪う。
花にも。
人にも。
言葉にも。
その夜、リオは花の香りをもう一度瓶にしようとはしなかった。
すでに一度、分けてもらった。
今日の香りは風に置く。
代わりに、新しい瓶には、散ることを考え始めた朝の匂いを入れた。
ほとんど満開の金木犀。
散る前にも聞くリク。
花が散った後の花のそばを考えるアリアンヌ。
関わる資格はないと言ったヴォルク。
わからないで逃げるなと書いたレイン。
まだ空だ、それでよかったというレムリアの椀。
散ることを止めてはならないと書いた王。
ラベルは、
“ほとんど満開の日に、散る話をする。”
リクは瓶を見て、少し寂しそうに笑った。
「変な日だな」
「はい」
「でも、咲いたら散るもんな」
「はい」
「散る前に聞く」
「はい」
外では、金木犀がよく香っていた。
花はまだ落ちない。
でも、散る未来が今日の香りの中に少し混ざった。
香りは残る。
ほとんど満開の花にも。
まだ散っていないのに散る話をする勇気にも。
そして、残したい手が伸びる前に、何を残し、何を散らし、何を空のままにするかを、そっと聞こうとする夜の棚にも。




