第九十一話 何も起きなかった朝にも、椀はそこにある
翌朝、リクは金木犀の前で、いつものように満開かどうかを見た。
花は、ほとんど開いていた。
ほとんど。
その言葉が、今の金木犀にはよく似合っていた。
枝の奥に、まだ小さく閉じた花がいくつかある。けれど、風が吹けば香りは庭を越え、戻り香の家の台所まで届く。朝の粥の湯気と混ざり、木の椅子の匂いと混ざり、今日だけの棚に並んだ札の乾いた木の匂いと混ざる。
リクは深く吸って、言った。
「ほとんど満開」
ミナが隣で頷いた。
「はい。ほとんど満開です」
「満開じゃない?」
「満開と呼んでもいいかもしれません。でも、リクさんが“ほとんど”と呼びたいなら、今日はそれでよいと思います」
リクは少し考えた。
「今日は、ほとんど満開」
「はい」
彼は今日だけの棚に札を足した。
“今日は、ほとんど満開。”
リュミナがそれを見て、腕を組んだ。
「ほとんど満腹と似ている」
「似てない」
「少し余地がある」
セリカが少し笑った。
「今回はわからなくもない」
「満腹の一歩前は大事だ」
「お前はいつも越えるだろう」
「竜だからな」
朝食の途中、王都からアリアンヌの手紙が届いた。
珍しく早い。
リクは椀を置き、封を開けた。
――リクへ。
――昨日、父上が母上の名を呼びました。
――その後、何も起きませんでした。
――私は、それを少し怖いと思いました。
――何も起きなかったなら、呼ばなくても同じだったのではないか、と一瞬思ったからです。
――でも、今朝、温室に行くと、椀は昨日と同じ場所にありました。
――母上への手紙も、椅子も、朝露の布も。
――何も起きなかった朝にも、そこにありました。
――だから、呼んだことは消えなかったのだと思います。
――今日はアリアンヌ。
――王女の服は、今日は温室に持っていきません。
リクは手紙を読み終えると、しばらく黙った。
「何も起きなかった朝にも、そこにある」
リオは頷いた。
「はい」
「呼んだことは消えない」
「はい」
リクは今日だけの棚と未送信の手紙箱のあいだに、新しい札を置いた。
“何も起きなかった朝にも、椀はそこにある。”
ミナがその札を見て、そっと微笑んだ。
「いい場所ですね」
リクは頷いた。
「声の手紙の近く」
午前中、白盾記録院から、少女の証言について続きが届いた。
記録官は昨日と同じように、少女を直視せず、部屋から出ず、水を机に置いた。
少女は今日、水を飲んだ。
ひと口だけ。
そして言った。
“昨日、飲まなかった水が今日もあるのは、少し変です。”
記録官が尋ねた。
“変とは、嫌な変ですか。”
少女は首を振った。
“いい変です。昨日できなかったことが、今日も残っていたから。”
戻り香の家でその一文が読まれると、リュミナが鍋の火を少し弱めた。
誰も頼んでいない。
けれど、そういう火加減だった。
ミナが喉に手を当てた。
「昨日できなかったことが、今日も残っている」
レインが静かに言った。
「それは、救いですね」
リクは札を書いた。
“昨日できなかったことが、今日も残っていた。”
それは日々の棚と間の棚の境目に置かれた。
リュミナが隣に書いた。
“昨日飲まなかった水を、今日ひと口。”
セリカは頷いた。
「よい記録だ」
昼、レムリア商市からも報告が届いた。
“今日は名前を言わない者”は、今日も名を言わなかった。
しかし、見えない棚に置かれた椀のことを、料理長に尋ねたという。
“椀はまだある?”
料理長は答えた。
“ある。見せる?”
男は首を横に振った。
“今日は見ない。でも、あるならいい。”
サラ・ベルテは記録した。
――今日は見ない。でも、あるならいい。
リクはそれを読んで、金木犀の方を見た。
見ない日にも、花は消えない。
読まない日にも、手紙は消えない。
飲まなかった水も、今日また置ける。
見えない椀も、あると知っていれば戻ってこられる。
「同じだな」
彼は言った。
リオは頷いた。
「はい。同じ道の違う場所です」
今日だけの棚に札が増えた。
“今日は見ない。でも、あるならいい。”
その下に、ミナが小さく書いた。
“確認だけの日。”
リュミナが言った。
「保存食も確認だけの日がある」
セリカが即座に言う。
「お前は確認だけで済まない日が多い」
「確認の質が高いのだ」
「食っているだけだ」
午後、カイルから手紙が届いた。
久しぶりの兵舎の報告だった。
――戻り香の家へ。
――兵舎でも、“見ないでください。でも、部屋から出ないでください”の話をしました。
――すると、ユアンが言いました。
――“訓練を見られたくない日がある。でも、誰も見ていないと、さぼったことにされそうで怖い。”
――自分は、見ないで近くにいる訓練を始めました。
――難しいです。
――見ないつもりでも、見てしまいます。
――夜鍋は、見ていなくても鍋をひっくり返しませんでした。
リクは最後で笑った。
「夜鍋、偉いな」
リュミナは厳粛に頷いた。
「成長している」
手紙は続く。
――煙は風の強い日を嫌がります。
――パン耳は、見られていると人参を食べません。
――ユアンは豆を避けます。
――自分は、それぞれ違うのだとようやく少しわかりました。
セリカは手紙を読み、深く頷いた。
「兵を同じものとして扱わないこと。馬もだ」
レインが静かに言った。
「灰星も、違いました」
リクは日々の棚に札を置いた。
“見ないで近くにいる訓練。”
その隣に、
“夜鍋は、見ていなくても鍋をひっくり返さなかった。”
リュミナが大いに満足した顔をした。
「王国は前進している」
「夜鍋基準で?」
「重要基準だ」
夕方、国王から手紙が届いた。
――リクへ。アリアンヌへ。
――昨日、エレオノーラの名を呼んだ。
――今朝、温室に行くと、椀はまだあった。
――何も起きなかったことは、なかったことではないのだと知った。
――私は長い間、結果の出ない行為を無意味だと思ってきた。
――呼んでも返らない名。
――送っても届かない手紙。
――置いても満たされない椀。
――だが、それらは無意味ではないのだろう。
――今日は、スープを飲んだ人。
――追伸。二杯目は断った。だが明日は少し迷うと思う。
リクは手紙を読んで、少し笑った。
「明日は迷うって」
リュミナが真剣に言った。
「迷う時間も大事だ」
「二杯目で?」
「二杯目だからこそ」
セリカは国王の本文を見ていた。
「結果の出ない行為を無意味だと思ってきた、か」
ミナが頷く。
「声が返らなくても、呼ぶことに意味がある日があります」
レインは低く言った。
「帰らなくても、帰り道を探した馬がいたように」
今日だけの棚に札が増えた。
“何も起きなかったことは、なかったことではない。”
“結果の出ない行為も、無意味とは限らない。”
それらは“エレオノーラ、と呼んだ”の近くに置かれた。
夜、金木犀の香りはさらに濃くなった。
ほとんど満開。
その“ほとんど”の余地が、今夜の戻り香の家を少し柔らかくしていた。
リオは新しい香りを作った。
ほとんど満開の金木犀の風。
何も起きなかった朝にも残った椀。
昨日飲まなかった水を今日ひと口飲んだ少女。
今日は見ないけれどあるならいい椀。
見ないで近くにいる訓練。
夜鍋が鍋をひっくり返さなかったこと。
国王の“結果の出ない行為も無意味とは限らない”。
ラベルは、
“何も起きなかった朝にも、椀はそこにある。”
その瓶は、今日だけの棚に置かれた。
棚はまた少し重くなった。
けれど、今日の重さは、昨日できなかったことが今日も残っていた重さだった。
香りは残る。
何も起きなかった朝にも。
飲まなかった水を今日飲めたひと口にも。
そして、返事のない名を呼んでも世界は壊れず、椀はそこにあり続けるのだと、少しだけ信じられた温室の静かな朝にも。




