第九話 水路に沈む王妃の手紙
地下水路の闇は、濡れた布のように重かった。
足元では黒い水がゆっくりと流れている。水面に灯りはなく、ただリオが掲げた小さな香灯の火だけが、揺れる金色の輪を作っていた。壁は古い石で積まれ、隙間から細い根が垂れている。その根の先から落ちる水滴が、ぽたり、ぽたりと音を立てるたびに、誰かが遠くで時計を刻んでいるように思えた。
地上の王都は、もう近いはずだった。
だが、ここには王都の匂いがない。
市場の焼き菓子も、鍛冶場の火も、貴族街の香水も、下町の酒場の煙もない。あるのは古い水、石、苔、鉄錆。そして、そのすべてを少しずつ削り取っていく空白。
リオは白薔薇を布に包み、鞄の奥へしまった。
アリアンヌ王女の声は、もう聞こえない。けれど、薔薇にはまだ枯れかけた甘さが残っている。王女自身の香りなのか、忘却の獣が彼女を通じて撒いた餌なのか、今は判別できなかった。
「罠の匂いがします」
リオが言うと、セリカは剣の柄に手を置いた。
「どの方向だ」
「全部です」
「役に立つようで立たない報告だな」
「自覚しています」
ミナが苦笑しかけて、すぐに表情を引き締めた。彼女は薬草籠を胸元に抱え、もう片方の手で小瓶を握っている。赤鈴草の香りを含ませた記憶固定の薬香だ。地下へ入ってから、彼女は時折自分の名前を小さく呟いていた。
「ミナ・リュース。薬草師。母の娘」
その声を聞くたび、リオは安心した。
彼女は自分を繋ぎ止めている。
リュミナは白い花冠を外套の内側へ入れていた。汚れないようにしているのだろう。もう片方の手には、リューネ村のスープの香りを封じた小瓶がある。彼女はときどき栓を開け、ほんの少しだけ嗅いでは真剣な顔をする。
「どうですか」
リオが尋ねると、リュミナは頷いた。
「温かい。まだ忘れていない」
「よかったです」
「だが、肉の量は少なかった」
「その記憶も残っていますか」
「強く残っている」
セリカが前を見たまま言った。
「そこは忘れてもいい」
「嫌だ」
グラントは沈黙していた。
縄は解かれていないが、手首の拘束は少し緩められている。地下の封印扉を開くには彼の血印が必要だと本人が言ったからだ。ユリスがその横に立ち、短槍を構えている。若い兵士の顔には緊張が浮かんでいたが、足取りはしっかりしていた。
「この水路は、王都のどこへ繋がっていますか」
リオが問うと、グラントは壁の古い刻印を見ながら答えた。
「旧王城区の地下です。今の王城は増築を重ねていますが、建国当初の中枢はもっと小さかった。この水路は、竜巡礼者が王都へ入る際に使った清めの道であり、同時に霊廟へ至る儀式路でした」
「儀式路なら、なぜ下水のような場所に?」
「今は下水に近い扱いですが、昔は水の神聖さを重んじていたのでしょう。記憶を清める水。名を映す水。香を運ぶ水」
リオは黒い水面を見た。
そこに自分の顔は映らない。
代わりに、何か別のものが揺れている。
幼い頃の台所。
王妃の寝室。
追放の日の謁見の間。
それらが一瞬ずつ水面に浮かび、すぐに消えた。
「水を覗き込まないでください」
グラントが言った。
「地下水路は、記憶を映します。長く見れば、映ったものへ引き込まれる」
「先に言え」
セリカがまた低く言う。
「今言いました」
「遅い」
「努力します」
リュミナがグラントを見る。
「次に遅かったら噛む」
「承知しています」
彼は本気で怯えていた。
しばらく進むと、水路は二手に分かれた。
左は狭い通路で、壁に古い香炉がいくつも並んでいる。右は広く、流れる水の量も多い。遠くから風のような音が聞こえた。
グラントは左を指した。
「霊廟へは左です」
リオは足を止める。
「右から、王妃様の香りがします」
全員が黙った。
「王妃の?」
セリカが眉をひそめる。
リオは頷いた。
「微かですが、間違いありません。薬草茶、古い本、薄紫の刺繍糸。それと……血」
グラントの表情が硬くなった。
「右は旧牢獄区へ通じています。王城の地下牢です。現在は使われていないはずですが」
「王妃様は、そこへ行ったのでしょうか」
「可能性はあります。王妃は霊廟へ近づこうとして、何度も地下の記録を調べていた」
「なら確認する」
セリカが言った。
グラントは首を横に振る。
「遠回りになります。王女が待っている以上、時間を与えるのは危険です」
「王妃が残したものなら、放っておけない」
リオの声は自分でも驚くほどはっきりしていた。
王妃エレオノーラは、彼をここまで導いた。白竜を目覚めさせ、忘却の獣の存在を知らせた。その彼女の香りが地下牢へ続いているなら、そこには必ず意味がある。
ミナが頷いた。
「私も、行った方がいいと思います。薬草の匂いもします。古いけど、保存香に近いです」
リュミナが鼻を動かす。
「右からは、泣いた人間の匂いがする。古いが、消えていない」
グラントは諦めたように息を吐いた。
「分かりました。ただし、長居はしないでください」
一行は右の通路へ進んだ。
水音が深くなる。
壁の香炉はなくなり、代わりに鉄格子の跡が現れた。かつて囚人を閉じ込めていた区画だろう。石壁には爪で引っ掻いたような傷があり、いくつかの扉は錆びた鎖で封じられている。空気は冷たく、重い。
そして、王妃の香りは少しずつ濃くなっていった。
薄紫。
薬草茶。
古い本。
恐怖。
祈り。
最後に、血。
リオは一つの牢の前で立ち止まった。
扉は開いていた。
中には何もない。寝台も、鎖も、囚人の痕跡もない。ただ壁の一部に、細い文字が刻まれていた。
“香りは残る。”
リオの息が止まった。
王妃の筆跡ではない。爪か、硬い金属で石に刻まれている。だが、その言葉は確かに彼女のものだった。
牢の奥に、小さな木箱が置かれていた。
埃を被っている。だが、箱の周囲には保存香が施されていた。時間による腐敗を防ぎ、隠された匂いを保つためのもの。宮廷調香師でも扱える者は少ない高度な技術だ。
「罠では?」
ユリスが囁く。
リオは箱の周囲を嗅ぐ。
「罠の匂いはありません。ただし、開けるための条件があります」
「条件?」
「僕の香りに反応するよう作られています」
セリカが目を細めた。
「王妃は、お前がここへ来ると知っていたのか」
「知っていたというより、賭けたのでしょう」
リオは胸元から自分の小瓶を取り出した。
森が寝ぼけているような失敗作の香り。
それを箱の蓋に一滴落とす。
かちり、と小さな音がした。
箱が開く。
中には、手紙と、小さな銀の鍵、そして乾いた花弁が入っていた。
花弁は白薔薇ではなかった。
紫の菫。
王妃が好んだ花だ。
リオは手紙を広げた。
紙は古いが、保存香のおかげで文字は読める。王妃の筆跡だった。静かで、細く、けれど芯の強い字。
――リオ・クラウゼンへ。
――この手紙をあなたが読んでいるなら、私はもう地上にはいないでしょう。そして、あなたはリュミナを目覚めさせ、忘却の獣の名に辿り着いたのだと思います。
リオの手が震えた。
ミナがそっと香灯を近づける。
――あなたにすべてを託すことを、どうか許してください。あなたを宮廷に招いた時から、私はあなたの力を利用していました。調香を魔法として扱える者が必要だったからです。
――けれど、それだけではありません。あなたの香りには、忘れたものを責めずに迎える優しさがあった。だから私は、最後の鍵をあなたに預けます。
リオは奥歯を噛んだ。
王妃が自分を利用していた。
その事実は、痛みを伴った。
だが、手紙から漂う香りは嘘ではなかった。罪悪感、信頼、焦り、祈り。彼女は確かに、利用したことを悔いている。それでも託すしかなかった。
――忘却の獣は、もともと獣ではありません。
リオは目を見開いた。
――建国以前、この地には“名を持たぬ神”が眠っていました。人々はそれを恐れ、同時に求めました。悲しみを忘れさせ、戦を忘れさせ、死者の顔を忘れさせる力があったからです。
――初代王は、それを滅ぼそうとしたのではありません。封じ、祈りへ変えようとした。白竜リュミナと契約し、人が忘れたい痛みを、ただ消すのではなく、香りと物語に変えて残す仕組みを作ったのです。
リュミナが息を呑む。
「私は……そういう契約を」
グラントも驚愕していた。
「記録には、そこまで……」
リオは続きを読んだ。
――王国とは、本来、記憶を分け合う器でした。王は民の悲しみを聞き、竜は土地の記憶を守り、調香師は失われる香りを留める。三つが揃って、忘却は祈りになる。
――しかし、王家はいつしか忘却の力だけを欲しがりました。都合の悪い歴史を消し、敗北を消し、罪を消し、愛した者の死さえ消そうとした。そのたびに封印は歪み、名を持たぬ神は獣へ落ちていきました。
リオは胸が苦しくなった。
忘却の獣は、最初から悪意そのものだったわけではない。
人々が楽になりたいと願ったこと。
王家が都合よく忘れたいと望んだこと。
その積み重ねが、神を獣にした。
――アリアンヌは、最も深く獣に触れた子です。あの子は悪意だけで動いているのではありません。幼い頃から王家の罪を流し込まれ、民の悲しみを聞かされ、封印を保つために自分の記憶を削られ続けました。
――あの子は、世界を救いたいのです。
セリカが低く呟いた。
「救う?」
リオは先を読む。
――苦しむくらいなら、すべて忘れればいい。戦も、飢えも、死者も、裏切りも、愛も。何も覚えていなければ、誰も傷つかない。あの子は本気でそう信じています。
――だから危険なのです。
リオの夢に現れた王女の言葉が蘇る。
――私が、全部なくしてあげる。
あれは脅しではなかった。
救済のつもりだったのだ。
――エルヴィンは獣を兵器にしようとしました。アリアンヌは獣を救済にしようとしています。どちらも間違っています。忘却は支配でも救済でもありません。痛みを抱えたまま、それでも生きるために、人が少しずつ手渡し合うものです。
――リオ。あなたが霊廟で見るものは、敵だけではありません。あなた自身が忘れたいものも、必ず現れます。逃げないでください。あなたが母を失った日の香りを、まだ瓶に閉じ込めたままなら、それを開けなさい。
リオの手から、紙が落ちそうになった。
母を失った日の香り。
彼はそれを誰にも言っていない。
王妃にも、師匠にも、誰にも。
だが、王妃は気づいていたのだろう。彼がいつも失敗作の香りだけを大切にし、その先にある死の匂いを封じてきたことに。
セリカが静かに問う。
「続きは読めるか」
リオは頷いた。
声が少し震えた。
――銀の鍵は、霊廟の第三扉を開きます。第一扉は典礼官の血印で。第二扉は王家の香で。第三扉は、調香師が自分の忘れたくない痛みを差し出すことで開きます。
――私は第三扉を開けられませんでした。私の痛みは、アリアンヌに届かなかった。母として、あの子の孤独を見誤ったからです。
――もし可能なら、あの子を救ってください。
――不可能なら、止めてください。
――あなたの香りを信じています。
――エレオノーラ・リュゼ・アルヴァン
最後の署名を見た瞬間、セリカが息を止めた。
「アルヴァン?」
リオも署名を見直した。
エレオノーラ・リュゼ・アルヴァン。
王妃の旧姓を、リオは知らなかった。宮廷では王妃の出自はあまり語られず、遠縁の貴族家から迎えられたとだけ聞いていた。
セリカの姓も、アルヴァン。
「セリカ」
リオは彼女を見る。
セリカの顔は強張っていた。
「王妃様と、同じ家名です」
「……本家はとうに途絶えたと聞いていた。私の家は傍流だ。父は何も言わなかった」
グラントが静かに言った。
「王妃エレオノーラは、アルヴァン家の最後の直系です。かつて竜契約を補佐した騎士の血筋。王家はその血を取り込むため、彼女を妃に迎えた」
セリカの右手が震えた。
「なぜ黙っていた」
「私もすべてを知っていたわけではありません。王妃の出自は王室機密でした」
セリカは壁を見た。
そこに刻まれた言葉。
香りは残る。
「父は、知っていたのかもしれない」
彼女の声は低かった。
「だから私に王都騎士になれと言った。王を守れではなく、誓いを守れ、と」
リュミナがセリカへ近づく。
「アルヴァン」
その名を口にした瞬間、リュミナの銀の瞳が揺れた。
「知っている。白い盾の騎士。初代王の隣にいた女騎士。竜の鱗を磨きすぎて私に怒られた」
セリカは目を見開いた。
「それが、私の先祖か」
「たぶん。名は……まだ遠い。でも、笑う時に歯を見せる女だった」
「まったく品がないな」
「お前に似ている」
「褒めていないだろう」
「事実だ」
リオは手紙を畳み、胸元へしまった。
王妃の手紙は、新しい道を示すと同時に、彼らそれぞれの根を掘り起こした。
リュミナの契約。
セリカの血筋。
グラントの罪。
ミナの声。
そしてリオ自身の、母の死。
「第三扉……」
ミナが不安そうに言う。
「リオさんの痛みを差し出すって、どういう意味でしょう」
「わかりません」
リオは正直に答えた。
「でも、霊廟へ行けばわかるのでしょう」
セリカはリオの顔を見た。
「無理をするな、と言いたいところだが」
「言ってください」
「お前は聞かないだろう」
「少しは聞きます」
「嘘の匂いがする」
リュミナが言った。
リオは苦笑した。
その時、地下牢の奥から音がした。
拍手。
ゆっくりとした、乾いた拍手。
全員が振り向く。
通路の奥に、人影が立っていた。
黒髪を長く垂らし、顔の半分を薄い布で覆った女。白いドレスの裾は水に濡れていない。手には一輪の枯れかけた白薔薇。
アリアンヌ王女。
夢で見た姿そのままだった。
だが、実物はもっと異様だった。
彼女の周囲には匂いがない。
完全な無臭の空白が、彼女の形をして立っている。白薔薇だけが、かろうじて王女が人であったことを示すように香っていた。
ユリスが短槍を構える。
セリカが剣を抜く。
リュミナの瞳が竜の光を帯びる。
グラントは顔を青ざめさせ、膝をつきそうになった。
「アリアンヌ殿下……」
王女は彼を見た。
「グラント。あなた、思い出してしまったのね」
その声は優しかった。
あまりにも優しく、リオは背筋が冷たくなった。
「かわいそうに。痛いでしょう」
グラントの唇が震えた。
「殿下……私は」
「いいの。責めないわ。人は痛みに耐えられないもの。あなたはよく頑張った」
王女が一歩近づく。
その足元から、匂いが消えていく。
石の湿り気も、水の冷たさも、牢の血の記憶も、すべて薄れていく。
リオは反射的に王妃の手紙を握った。
「止まってください」
アリアンヌはリオを見た。
「あなたが調香師ね」
「リオ・クラウゼンです」
「名乗るのね。まだ名前が好きなの」
「好きかはわかりません。でも、必要です」
王女は微笑んだ。
「名前は、人を縛るわ。王女、王妃、騎士、竜、娘、母、罪人。みんな名前に苦しめられる。忘れてしまえば、自由になれるのに」
「忘れても、なくなりません」
「痛みはなくなる」
「愛もなくなります」
王女の瞳が、ほんの少し揺れた。
白い布の下で、彼女の唇が微笑む。
「愛があるから痛いのでしょう?」
リオは答えられなかった。
その通りだった。
愛があるから、失う。
覚えているから、苦しい。
母の手を覚えているから、二度と戻らないことが痛い。王妃の優しさを覚えているから、彼女の死が許せない。リューネ村の温かさを覚えたから、失うのが怖い。
アリアンヌは静かに言った。
「私は、みんなを助けたいの。王国はもう疲れている。戦争、飢饉、権力争い、親子の憎しみ、死者への執着。誰もが自分の痛みに囚われている。なら、痛みの根を抜けばいい」
「それは、人を空っぽにするだけです」
「空っぽは平和よ」
リュミナが低く唸った。
「違う。空っぽは寒い」
王女はリュミナを見た。
「白竜。あなたも、忘れれば楽になれたのに。裏切られた記憶も、楔の痛みも、守れなかった者たちの顔も」
リュミナは花冠を握りしめた。
「私はリナを忘れていた」
「でしょう?」
「だが、思い出してよかった」
王女の表情が少しだけ曇る。
「なぜ?」
「痛かった。でも、温かかった」
リュミナは言った。
「忘れていた時、私は眠っていた。思い出して、私は私になった」
アリアンヌは目を伏せた。
「私になど、なりたくない人もいるわ」
その声に、一瞬だけ少女の匂いがした。
白薔薇の奥から、かすかに。
孤独。
冷たい寝台。
窓のない部屋。
封印のために手首を切られる幼い王女。
誰も本当の名で呼ばず、王家の義務として扱われた子ども。
リオは息を呑んだ。
彼女は怪物ではない。
怪物に近づきすぎた人間だ。
「アリアンヌ殿下」
リオは一歩前に出た。
「王妃様は、あなたを救いたかった」
王女の瞳が細くなる。
「母の話はしないで」
「手紙を残しています」
「読まない」
「あなたを見捨てていません」
「黙って」
水路の水面が震えた。
無臭の風が吹く。
ミナが苦しげに喉を押さえる。ユリスが一瞬、自分の槍を見失ったように目を泳がせる。グラントは白薔薇の香りに縋るように震えていた。
セリカがリオの前へ出る。
「王女殿下。これ以上近づけば斬る」
「アルヴァンの騎士」
アリアンヌはセリカを見る。
「あなたの血も、まだ誓いに縛られているのね」
「誓いを守るために剣を持っている」
「誓いのせいで、あなたは苦しんだ」
「そうだ」
セリカは否定しなかった。
「だが、苦しんだから捨てるとは限らない」
王女は少し悲しそうに笑った。
「みんな、頑固ね」
彼女が白薔薇を水面へ落とした。
薔薇が黒い水に触れる。
その瞬間、水路全体が震えた。
壁の奥から、無数の囁き声が聞こえる。
忘れたい。
忘れたい。
忘れたい。
母の死を。
子の死を。
戦場を。
飢えを。
裏切りを。
罪を。
愛を。
その声は人々のものだった。
王都に暮らす無数の人間たちの、心の底に沈んだ願い。
リオは膝をつきそうになった。
忘れたいと願うこと自体は、悪ではない。
誰だって痛みから逃れたい。
彼自身もそうだった。
母が死んだ日の匂いを、ずっと封じてきた。
「霊廟で待っています」
アリアンヌは静かに言った。
「第三扉まで来られたら、あなたの香りを見せて。リオ・クラウゼン」
「あなたを止めます」
リオは言った。
王女は首を傾げる。
「私を救うのではなく?」
リオは答えに迷った。
その迷いを、王女は見透かしたように微笑んだ。
「優しい人。だから、あなたは折れる」
彼女の姿がほどけていく。
匂いのない霧になり、黒い水路へ溶ける。
最後に、白薔薇の香りだけが残った。
――忘れれば、あなたも泣かなくて済むのに。
声が消えた。
水路は再び静かになった。
だが、誰もすぐには動けなかった。
ミナが自分の喉に手を当て、小さく名前を呟く。
「ミナ。ミナ・リュース」
ユリスも自分の名を繰り返していた。
グラントは顔を覆い、震えている。
セリカは剣を下ろさなかった。
リュミナは花冠を抱きしめ、唇を噛んでいた。
リオは水面を見つめる。
そこに、母の手が映った気がした。
忘れれば、泣かなくて済む。
その言葉は、彼の胸の奥深くに刺さっている。
セリカが静かに声をかけた。
「リオ」
彼は振り返る。
「お前は折れるか」
リオは少し考えた。
正直に答えるべきだと思った。
「折れるかもしれません」
ミナが不安そうに彼を見る。
リオは続けた。
「でも、折れたら呼んでください。名前を。叩いてもいいです」
セリカは小さく息を吐いた。
「任せろ」
リュミナが頷く。
「噛む」
「叩くでお願いします」
「考える」
ミナは震えながらも笑った。
その笑いで、水路に少しだけ人の匂いが戻った。
リオは王妃の手紙と銀の鍵を鞄にしまい、霊廟へ続く左の道へ向き直った。
アリアンヌ王女は待っている。
忘却の獣も待っている。
そして第三扉の前で、リオは自分が最も忘れたかった日の香りを開けなければならない。
怖い。
だが、怖いと思えるうちは、まだ覚えている。
彼は仲間たちの名を心の中で呼んだ。
セリカ。
ミナ。
リュミナ。
グラント。
ユリス。
エレオノーラ。
母、マリナ。
香りは残る。
忘れたいと願っても、残ってしまうものがある。
だからこそ、人はそれを誰かと分け合うのだ。
一行は再び歩き出した。
水路の奥、霊廟へ続く第一扉が、黒い石の口を開けて待っていた。




