第八話 地下水路の入口で、騎士は顔を捨てる
朝は、薄い灰色をしていた。
野営地の岩陰から出ると、空一面に雲が広がっていた。雪は降っていない。だが、光は弱く、世界全体が夜から完全には目覚めきっていないように見えた。遠く、王都の方角に黒い線が見える。城壁だ。
リオはしばらくそれを見つめていた。
王都。
数日前まで、彼の世界の中心だった場所。
宮廷の廊下。調香室。王妃の寝室。薬草を干した窓辺。第二王子の冷たい笑み。謁見の間に響いた嘲笑。鉄と香水と嘘の匂い。
追放された時、二度と戻ることはないと思っていた。
いや、戻りたくないと思っていた。
だが今、王都は彼を待っている。忘却の獣と、アリアンヌ王女と、眠る国王と、まだ見えない無数の秘密を抱えて。
「顔色が悪い」
隣でセリカが言った。
リオは苦笑する。
「王都が見えたので」
「嫌な場所か」
「はい」
「なら、早く用を済ませて帰るぞ」
「帰る?」
リオは思わず聞き返した。
セリカは当然のように言う。
「リューネ村へだ。あれだけ面倒を起こしておいて、帰らないつもりか」
リオは答えに詰まった。
帰る。
その言葉は、胸の中で小さく温かく鳴った。
王都には住んでいた。だが、帰る場所ではなかった。いつも誰かの顔色を読み、香りで毒を探し、評価されず、必要な時だけ呼ばれ、不要になれば追放された場所。
リューネ村にいたのは、ほんの数日だ。
それでも、あの村のスープの匂い、薪の煙、ミナの薬草棚、セリカの雑な言葉、リュミナが肉を要求する声。それらは王都のどんな部屋よりも、帰るという言葉に近かった。
「そうですね」
リオは静かに言った。
「帰りましょう」
セリカは頷いた。
「そのために生きて王都へ入る」
「順番が少し怖いですね」
「辺境では普通だ」
リュミナが背後から不満そうに言う。
「帰るなら肉を増やせ。村の鍋は小さい」
「まだ言っているのですか」
「重要な問題は何度でも言う」
ミナが小さく笑った。
彼女の笑い声は、昨日より自然だった。まだ少し掠れているが、声は確かに彼女の身体に戻りつつある。薬草帳を胸に抱え、彼女は王都の城壁を見つめた。
「私、王都に行くのは初めてです」
「怖いですか」
リオが尋ねると、ミナは少し考えてから頷いた。
「怖いです。でも、見てみたい。私の声を奪った呪いが、どこから来たのか」
「無理はしないでください」
「それはリオさんもです」
「僕は無理をしていません」
セリカ、リュミナ、ミナ、さらにハルトまでが同時にリオを見た。
リオは咳払いした。
「……なるべく、しません」
「なるべくは禁止だ」
セリカが言った。
「では、適度に」
「もっと信用できない」
出発の準備を終え、一行は旧街道を下り始めた。
ここからは森が薄くなり、岩の多い斜面が続く。雪の下には凍った砂利があり、足を滑らせやすい。馬を連れているため、進みは遅かった。だが、王都へ近づくほど空気が変わっていくのがわかった。
匂いが減っている。
森の樹脂。獣の足跡。土の湿り気。そうしたものが一歩ごとに薄くなり、代わりに奇妙な空白が広がっていく。完全な無臭ではない。だが、匂いの輪郭が削られている。絵の端を水で擦ったように、世界の記憶がぼやけている。
「影が近い」
グラントが言った。
彼は縄で縛られたままだったが、昨日と比べると顔つきが変わっていた。憔悴している。けれど、目の奥に戻ってきたものがある。エリス。リリア。二つの名を取り戻したことで、彼は以前より弱くなり、同時に少しだけ人間らしくなっていた。
「地下水路の入口は?」
セリカが問う。
「この先の廃礼拝堂です。王都の外壁から少し離れた丘にあります。現在は使われていませんが、建国初期には竜巡礼者が王都へ入る前に身を清める場所でした」
「また巡礼か」
「初代王の時代、王都とリューネは一つの道で結ばれていました。王は竜を忘れず、竜は人を見捨てない。その誓いを毎年確かめるため、巡礼が行われた」
リュミナは白い花冠を抱き、黙って聞いていた。
彼女の横顔は、いつもより大人びて見えた。
「私は、その巡礼を迎えていたのか」
グラントは頷く。
「記録では」
「記録では、か」
リュミナは小さく息を吐いた。
「私の中にはまだない。リナの花冠だけだ」
「焦る必要はありません」
リオは言った。
「香りは順番に戻ります」
「お前はいつも、香りのことになると偉そうだ」
「専門分野ですので」
「では肉のことなら私が偉い」
「専門分野が偏っていますね」
そんな会話をしながらも、全員の手は武器や小瓶に近かった。
昼前、廃礼拝堂が見えた。
丘の中腹に建つ、灰色の石造りの建物だった。屋根の半分は崩れ、窓には硝子がない。扉には蔦が絡まり、鐘楼には鐘の代わりに鳥の巣があった。周囲には墓石のような石柱が並んでいたが、刻まれた文字はほとんど消えている。
ただ、一つだけはっきり読める碑文があった。
“名を持つ者は、ここで息を整えよ。
名を失う者は、ここで友に呼ばれよ。”
リオはその文字をなぞった。
石橋と同じだ。
忘却に対抗する術として、昔の人々は名前を呼び合っていた。香りを焚き、名を刻み、息を整え、記憶を互いに預けた。
現代の王都が忘れてしまったものが、廃墟の石には残っている。
「中へ入る」
セリカが短く言った。
扉を押すと、乾いた音を立てて開いた。
礼拝堂の中は薄暗かった。
奥には祭壇があり、王冠を戴いた男と白竜の古い浮き彫りが残っている。男の顔は削られていた。白竜の目にも傷がつけられている。誰かが意図的に壊したのだ。
リュミナが浮き彫りへ近づいた。
「これは私か」
「おそらく」
リオは祭壇の周囲を嗅いだ。
古い香油。
石灰。
鳥の羽。
そして、わずかな血。
新しい。
「誰か来ています」
セリカが剣を抜く。
「どこだ」
リオは床を見た。
礼拝堂の中央に敷かれた石板。その隙間に、黒い液体が乾いた跡がある。血のようで、血ではない。グラントが手から流した黒い血に似ていた。
「地下からです」
グラントの顔色が変わる。
「封印扉が開いているのかもしれない」
「誰が」
「王女の騎士たちです」
その時、祭壇の裏から音がした。
金属が石を擦る音。
全員が構える。
暗がりから、一人の騎士が現れた。
鎧は王都近衛のものだった。だが、胸の紋章は削り取られ、兜の面頬には顔を隠す白い布が巻かれている。剣を抜いているが、殺気は奇妙に薄い。
匂いも薄かった。
人間なら必ず持つ汗、皮膚、息、恐怖、誇り、疲労。そうしたものが、ほとんどない。わずかに残っているのは鉄と空白だけ。
「名を捨てた騎士……」
ハルトが呟いた。
騎士は何も答えなかった。
その背後から、さらに二人、三人と現れる。
合計六人。
狭い礼拝堂の中で、無言の騎士たちが剣を構えた。
セリカが前へ出る。
「王都近衛なら名乗れ」
返事はない。
「所属と任務を言え」
やはり返事はない。
グラントが低く言った。
「無駄です。彼らに名はない。命令しか残っていない」
騎士たちが動いた。
速い。
一人目の剣がセリカへ振り下ろされる。彼女は受けるのではなく、横へ流した。火花が散る。右腕の包帯の下で黒い紋様が浮かぶが、セリカは顔色を変えなかった。
「重いな」
彼女は呟く。
「迷いがない分、剣筋が単純だ」
二人目がリオへ迫る。
ハルトが槍で受け止めた。だが力負けし、後ろへ押される。ダンとユリスが横から支え、なんとか騎士を押し返した。
ミナは祭壇の陰に身を寄せ、薬香の袋を取り出す。
「リオさん!」
「影用ではなく、人用です!」
「わかっています!」
ミナは震える手で袋を裂いた。
銀針苔と雪留め草の香りが広がる。記憶を固定する香り。しかし、名を捨てた騎士たちは怯まなかった。彼らには固定すべき記憶がほとんど残っていない。
リュミナが前へ出ようとする。
リオは慌てて止めた。
「力を使いすぎないでください!」
「ではどうする」
「思い出させます」
「何も残っていない相手に?」
「何もない人間はいません」
リオは騎士たちを嗅いだ。
薄い。
ほとんど空白。
だが、完全ではない。
一人目の騎士からは、わずかに木の実の匂いがした。二人目からは馬のたてがみ。三人目からは古い羊皮紙。四人目からは雨に濡れた石畳。五人目からは子どもの髪。六人目からは焦げたパン。
残っている。
小さすぎる記憶の欠片が。
「セリカ!」
リオは叫んだ。
「殺さずに止められますか!」
「簡単に言うな!」
「では難しくお願いします!」
「後で殴る!」
セリカは剣を返し、騎士の膝裏を狙った。鎧の隙間へ正確に刃の腹を当てる。騎士が片膝をつく。そこへリュミナが白い霜を放ち、足元を凍らせた。
「一人!」
リオはすぐにその騎士へ近づいた。
面頬を覆う白い布を剥がす。
顔が現れた。
三十代ほどの男。目は虚ろで、瞳孔がほとんど動かない。額には小さな黒い印が刻まれている。忘却の獣へ記憶を捧げた証だろう。
リオは木の実の匂いを辿る。
胡桃。
乾いた秋。
小さな手。
誰かに渡した木の実。
「あなたは、誰に胡桃を渡したのですか」
騎士は反応しない。
セリカが別の騎士を押さえながら叫ぶ。
「説得する相手に見えるか!」
「見えません!」
リオは鞄から琥珀の瓶を取り出した。
獣の記憶を呼ぶ香りに、干し果実と暖炉の灰を混ぜる。さらに、自分の蜂蜜の香りを一滴。秋の台所に近い匂いを作る。
騎士の鼻先へ近づけた。
「胡桃です。思い出してください。あなたは誰かにこれを」
騎士の虚ろな目が、わずかに動いた。
唇が震える。
「……弟」
リオの胸が跳ねた。
「弟さんの名前は?」
「……」
騎士の額の黒印が脈打つ。
忘却が抵抗している。
「名前を!」
騎士の喉から、掠れた音が漏れた。
「ノル……」
次の瞬間、騎士の身体が激しく痙攣した。
黒印から無臭の煙が噴き出す。リオは後ろへ弾かれた。リュミナが彼を支える。
「無理に引くな。獣が噛んでいる」
「どうすれば」
「名前だけでは足りない。呼ぶ相手がいない」
リオは理解した。
石橋でグラントを戻せたのは、彼自身が妻と娘の名をまだ望んでいたからだ。だがこの騎士たちは、長く命令だけで動かされ、自分から思い出す力がほとんど残っていない。こちらが香りを与えても、戻る場所がない。
それでも。
「ミナさん!」
リオは叫んだ。
「名を受け止める香りを作れますか!」
「名を?」
「呼ばれた記憶を残す香りです!」
ミナは一瞬だけ目を見開き、それから薬草帳を開いた。
「赤鈴草……呼び声の薬草。母が、迷子除けのお守りに使っていました!」
彼女は籠から赤い乾燥花を取り出す。
「でも、これだけでは弱いです」
「僕の媒体液を使ってください!」
「はい!」
ミナが調合する間にも戦いは続いていた。
セリカは二人を相手に剣を捌いている。右腕に負担がかかりすぎているのが、リオにも匂いでわかった。血の匂いが滲む。ハルトたちは三人がかりで一人を押さえ込んでいるが、近衛騎士の力は強い。グラントは拘束されたまま壁際に寄り、歯を食いしばっている。
「典礼官!」
セリカが怒鳴る。
「こいつらを止める命令はないのか!」
グラントは苦しげに答えた。
「彼らは王女直属です! 私の権限では」
「役に立たん!」
「自覚しています!」
リュミナがもう一人の騎士の剣を素手で掴んだ。
刃が白い指に触れる直前、霜が走って剣を凍らせる。
「お前たちは空っぽだな」
リュミナが騎士を睨む。
「空っぽのまま剣を振るうな。腹が立つ」
彼女が指を鳴らすと、騎士の鎧が床に凍りついた。
「二人目!」
リオはミナから赤鈴草の香りを受け取った。
淡い赤の霧。
それを礼拝堂に広げる。
「全員、誰かの名前を呼んでください!」
ハルトが戸惑う。
「誰の?」
「思いつく人を!」
ミナが最初に叫んだ。
「お母さん!」
その声は礼拝堂に反響した。
赤鈴草の香りが揺れる。
ハルトが続く。
「レナ! 俺の妹だ!」
ダンが叫ぶ。
「母さん!」
ユリスも。
「親父!」
セリカは少し躊躇った。
リオは彼女を見る。
セリカは歯を食いしばり、剣を振りながら叫んだ。
「ガルド! 父の名だ!」
リュミナは花冠を抱く。
「リナ!」
グラントは壁際で、震えながら呟く。
「エリス。リリア」
リオは最後に、自分の名ではなく、母の名を呼んだ。
「マリナ!」
声が重なった。
礼拝堂の中に、名前の香りが満ちる。
呼ぶ声。
呼ばれた記憶。
誰かが誰かを覚えている証。
名を捨てた騎士たちの動きが鈍った。
最初の騎士が呻く。
「ノル……ノルド……弟……」
二人目が剣を落とす。
「馬……違う、馬の名はシグ……俺は厩舎で……」
三人目が頭を抱える。
「本を……返さなければ……誰に……」
全員が戻るわけではない。
黒印が強すぎる者は、苦しみながら暴れた。
だが、命令だけで動いていた剣に迷いが生まれた。
その迷いを、セリカは見逃さない。
彼女は剣の柄で一人を気絶させ、足払いで二人目を倒し、三人目の手首を正確に打って剣を落とさせた。ハルトたちも縄を使って騎士を縛る。リュミナは凍らせた床を割り、騎士の足だけを固めた。
戦いが終わった時、礼拝堂には荒い息だけが残った。
六人の騎士は全員、生きていた。
だが、意識が戻っている者は半分だけだった。
最初の騎士は床に膝をつき、リオの袖を掴んだ。
「私は……誰だ」
その問いは、刃より痛かった。
リオは彼の残り香を嗅ぐ。
胡桃。
弟。
冬の砦。
革の手入れ。
そして、ごく薄く、名前の欠片。
「あなたの名は、たぶん……オルヴァン」
騎士の目から涙が落ちた。
「オルヴァン……そうだ。私は、オルヴァン。弟はノルド。あいつは胡桃が好きで……」
彼はそこで泣き崩れた。
二人目の騎士は、自分の馬の名しか思い出せなかった。
三人目は、王都図書館へ返していない本のことだけを呟いていた。
残り三人は、まだ空っぽに近い。
それでも、完全には戻らなくても、剣は止まった。
「すごい……」
ミナが呟いた。
リオは首を横に振る。
「すごいのは名前です。僕たちは、それを少し運んだだけです」
セリカは右腕を押さえていた。
包帯に血が滲んでいる。
「大丈夫ですか」
リオが近づくと、彼女は顔をしかめた。
「大丈夫ではないが、動く」
「診ます」
「後でいい」
「今です」
リオが強く言うと、セリカは珍しく反論しなかった。
彼は包帯をほどいた。
黒い蔦の紋様が肘まで伸びている。グラントの蔦を斬った時より悪化していた。名を捨てた騎士たちの剣にも、忘却の獣の力が宿っていたのだろう。
リオは青い香油を垂らし、さらに赤鈴草を少し混ぜた。
「痛みを眠らせるだけでなく、腕が自分のものだと思い出すようにします」
「腕にも記憶があるのか」
「あります。剣を振った記憶。誰かを守った記憶。父上から受け継いだ記憶」
セリカは黙った。
香油が浸透すると、黒い紋様が少し薄れる。完全には消えないが、指の震えは収まった。
「礼を言う」
「どういたしまして」
「だが後で殴る約束は消えていない」
「覚えていたんですね」
「忘却の獣にも渡さん」
ミナが小さく笑った。
その時、祭壇の奥から冷たい風が吹いた。
全員が振り向く。
浮き彫りの下、石床の一部がずれていた。戦いの衝撃で開いたのだろう。そこには地下へ続く階段があった。
黒い石の階段。
下から、枯れた白薔薇の香りが漂ってくる。
リオは喉が乾くのを感じた。
この先が地下水路。
そして王都の霊廟へ続く道。
グラントが階段を見下ろした。
「開いている……やはり、王女はあなたたちを招いています」
「罠か」
セリカが問う。
「間違いなく」
「なら行くしかないな」
「普通は逆では?」
グラントが言うと、セリカは剣を鞘に収めた。
「罠を避けて別の罠を踏むより、見えている罠へ準備して入る方がいい」
リュミナが頷く。
「それに、下から嫌な匂いがする。放っておくと食事がまずくなる」
「理由が一貫していますね」
リオは階段の前に立った。
地下から吹く風は、無臭ではなかった。
白薔薇。
古い水。
石。
忘れられた祈り。
そして、その奥にぽっかりと空いた匂いのない穴。
忘却の獣は近い。
礼拝堂に倒れた騎士たちは、ハルトたちが縛り直した。同行させるのは無理だ。だが置いていくのも危険だった。結局、ハルトとダンはここに残り、騎士たちを見張ることになった。王都へ進むのは、リオ、セリカ、ミナ、リュミナ、グラント、そして兵士ユリスだけになった。
ハルトは不満そうだったが、セリカに命じられると従った。
「必ず戻ってください」
ハルトは言った。
リオは頷く。
「戻ります」
「本当に」
「はい。リューネ村の鍋の大きさを改善する約束がありますので」
リュミナが真剣に頷く。
「重要だ」
ハルトは少し笑った。
その笑いには、恐怖を押し返す匂いがあった。
リオたちは階段を下り始めた。
一段ごとに、地上の光が遠ざかる。
礼拝堂の匂いが薄れ、地下の湿った空気が満ちていく。石壁には古い巡礼文字が刻まれていた。いくつかは読める。
“名を呼べ。”
“香を絶やすな。”
“王と竜の息は一つ。”
“忘れるな。忘れたことを、忘れるな。”
リオは最後の文字に指を触れた。
忘れたことを、忘れるな。
それは矛盾しているようで、今の彼には痛いほどわかった。
人はすべてを覚えてはいられない。失われるものは必ずある。だが、失ったという事実まで消えてしまえば、取り戻そうとする意志も消える。
忘却の獣が喰うのは、記憶だけではない。
取り戻したいという願いそのものだ。
階段の先に、地下水路が広がっていた。
暗い水が流れている。天井は低く、ところどころに古い灯籠が吊るされているが、火は入っていない。壁には苔が生え、細い水音が遠くまで響いていた。
そして、通路の奥に一輪の白薔薇が落ちていた。
枯れかけている。
だが、確かに香っている。
リオはそれを拾った。
その瞬間、頭の中に声が響いた。
――ようこそ、調香師。
アリアンヌ王女の声。
――あなたが残したいものを、私に見せて。
リオは白薔薇を握りしめた。
「見せます」
彼は暗い水路の奥を見据えた。
「でも、渡しません」
地下の闇が、かすかに笑ったような気がした。




