第七話 石橋の上で、名を忘れる
廃宿場を過ぎると、森は急に黙り込んだ。
それまで枝の間で鳴っていた鳥の声も、雪を踏む小動物の気配も消え、ただ一行の足音だけが旧街道に落ちた。ざく、ざく、と雪を踏む音。馬の鼻息。荷の革紐が揺れる音。時折、リュミナが腹を鳴らす音。
「今のは違う」
彼女は真顔で言った。
「何がですか」
リオが尋ねると、リュミナは胸に抱いた花冠を守るようにしながら答えた。
「空腹ではない。竜の警戒音だ」
セリカが前を見たまま言う。
「腹から鳴る警戒音があるか」
「ある」
「便利な身体だな」
「お前も鍛えれば鳴る」
「遠慮する」
軽口は交わされていたが、誰の表情も明るくはなかった。
リナという巡礼の少女の記憶に触れてから、リュミナは明らかに沈んでいた。白い花冠を胸に抱え、時折それを見下ろしては眉をひそめる。思い出したことが嬉しいのか、忘れていたことが苦しいのか、おそらく本人にも判別できていない。
リオには、その気持ちが少しだけわかった。
香りは記憶を戻す。
だが戻ってきた記憶は、必ずしも優しいものではない。母の手の温かさを思い出せば、同時にその手がもう二度と自分の額へ触れないことも思い出す。王妃の祈りを辿れば、彼女が毒に侵されながら孤独に戦っていた事実も匂い立つ。
記憶とは、傷口に似ている。
塞がっているように見えても、触れれば血が滲む。
それでも、忘却よりはましだ。
リオは首から下げた小瓶に触れた。自分の記憶の香り。苦い薬草、雨上がりの苔、温めすぎた蜂蜜。母が「森が寝ぼけているみたい」と笑った失敗作の香り。
栓はまだ開けていない。
開けずに済むなら、その方がいい。
そう思った自分に、リオは小さく苦笑した。忘却に挑みに行く者が、自分の記憶を嗅ぐことを恐れている。情けない話だった。
「リオさん」
ミナが横に並んだ。
彼女の息は白い。声はまだ掠れているが、歩くたび少しずつ自然になってきている。
「廃宿場で作った薬香、もう少し改良できます。影に触れられた時、記憶を固定する香り」
「助かります。材料は足りますか」
「雪留め草は少しだけ。銀針苔はこの森にも生えているはずです。朝露の葉は……冬だから難しいです」
「代わりに氷花の蕾が使えるかもしれません。水分の記憶を保つ性質があります」
ミナの目が輝いた。
「氷花、知っているんですか」
「宮廷の温室で扱ったことがあります。ただ、王都のものは香りが弱かった。自然の雪原に咲くものなら、もっと強いはずです」
「このあたりなら、石橋の近くに咲きます」
「石橋?」
ミナが前方を指さした。
「夕方までに着くはずです。古い谷に架かった橋で、巡礼者はそこで必ず鈴を鳴らしたそうです。谷底に眠るものへ、自分の名を落とさないように」
リオは足を止めかけた。
「名を落とさない?」
ミナも不安そうに頷く。
「母の薬草帳にありました。石橋の下は、風が名前をさらう場所だって。迷信だと思っていましたけど……」
グラントが後ろから言った。
「迷信ではありません。旧街道の中でも、石橋は忘却の影響が強い場所です」
セリカが振り返る。
「先に言え」
「聞かれませんでした」
「お前はそういうところが信用できない」
「申し訳ありません。拘束された身なので、会話の自由度を測りかねていました」
「次に重要な情報を黙っていたら、リュミナに噛ませる」
リュミナが顔を上げた。
「どこを噛む」
「まだ噛むな」
「予約か」
「脅しだ」
グラントは青ざめた顔で咳払いした。
「石橋では、互いの名を呼び続ける必要があります。忘却はまず名前から触れる。名前を忘れると、自分がなぜ歩いているのか曖昧になり、次に同行者の顔を失い、最後に自分の足跡を見失う」
ハルトが思わず首元の小瓶を握った。
「名前を呼ぶだけで防げるのか」
「完全には。ただ、名前は最も短い記憶の錨です。呼ばれるたびに、自分が誰かを思い出す」
リオは仲間たちを見た。
セリカ。ミナ。リュミナ。ハルト。グラント。
名前。
たしかにそれは、香りに似ている。
一人の人間が歩いてきた道を、短い音に詰めたもの。呼ばれれば振り返る。呼べば誰かを思い出す。忘却が最初に奪おうとするのも当然だった。
午後になると、空は鉛色に沈み始めた。
雪こそ降っていないが、風は強くなり、木々の枝が軋む音がした。旧街道は細くなり、右手には切り立った崖が見え始める。谷底は霧で隠れていた。どれほど深いのかわからない。
「ここから先、馬は引いて進む」
セリカが命じた。
道幅は狭く、雪の下に凍った石が隠れている。足を滑らせれば谷へ落ちる。ハルトたち兵士は慎重に馬の手綱を握り、グラントも縄付きのまま黙って歩いた。
やがて森が切れた。
石橋が現れた。
それは巨大な橋ではなかった。幅は馬車一台がぎりぎり通れるほど。だが古さだけは圧倒的だった。灰色の石を積み上げた橋脚は苔と氷に覆われ、欄干には白竜と王冠、そして無数の名前らしき文字が刻まれている。橋の両端には小さな鐘楼があり、片方の鐘は割れて、もう片方だけが風に揺れていた。
ちりん。
かすかな音。
その瞬間、リオは自分の胸元が冷えるのを感じた。
名前を呼ばれた気がした。
だが、誰の声だったのかわからない。
「全員、止まれ」
セリカが言った。
彼女の声にも緊張が混じっている。
「ここを渡る前に確認する。名前を呼び合う。小瓶はすぐ使えるようにする。誰かがぼんやりしたら、叩いてでも戻せ」
「叩くのは得意だ」
リュミナが言った。
「噛むなよ」
「叩くと言った」
「お前の叩くは岩が割れそうで怖い」
リオは橋の欄干へ近づいた。
刻まれた文字を見る。
古代文字、王国初期の文字、さらに新しい巡礼者たちの名前。数えきれないほどの名前が、石の表面に重なっていた。
その中に、見覚えのある文字があった。
リナ。
廃宿場で出会った少女の名。
その隣には、小さな花の絵が彫られている。
リオは胸が詰まった。
彼女はここを通ったのだ。
父と母と、病の弟のために祈りながら。白竜へ花冠を渡すために。
リュミナもその名に気づいたらしい。そっと指で石をなぞった。
「リナ」
名前を呼ぶと、白い花冠がかすかに香った。
その時、谷底から風が吹き上がった。
無臭。
リオの鼻が世界を見失う。
「小瓶!」
セリカの声が飛ぶ。
全員が首元の小瓶を握った。
リオも自分の瓶へ手を伸ばす。
だが、その前に奇妙な感覚があった。
手が止まる。
自分は、何を取ろうとしていたのか。
瓶。
何のために。
香り。
香りとは何だったか。
リオは瞬きをした。
目の前に雪がある。石橋がある。仲間がいる。だが、仲間という言葉の中身が、ふわりと薄くなる。
銀髪の女が何かを叫んでいる。
栗色の髪の少女がこちらへ手を伸ばしている。
白い髪の子どもが眉を吊り上げている。
知っている。
知っているはずなのに、名前が出てこない。
「リオ!」
誰かが叫んだ。
胸を叩かれたように、意識が戻る。
リオ。
自分の名だ。
リオ・クラウゼン。
追放された宮廷調香師。
王妃の香りを辿り、リューネ村へ行き、白竜を目覚めさせ、王都へ向かっている。
彼は慌てて小瓶を開けた。
苦い薬草、雨上がりの苔、温めすぎた蜂蜜。
失敗作の香りが鼻に届く。
瞬間、幼い日の台所が蘇った。
焦げかけた鍋を前に泣きそうになっている自分。母がそれを嗅ぎ、少し考えてから笑う。
――森が寝ぼけているみたいね。
リオは大きく息を吸った。
戻った。
「大丈夫です!」
彼は叫んだ。
「セリカさん!」
銀髪の女が振り返る。
「呼び捨てでいい!」
「セリカ!」
「よし!」
「ミナさん!」
「はい、リオさん!」
「リュミナ様!」
「様はいらん! リュミナだ!」
「ハルトさん!」
「ここにいます!」
「グラント!」
「私は呼び捨てですか」
「不満を言えるなら大丈夫です!」
橋の上へ踏み出す。
一歩。
石が凍っている。
二歩。
谷底から風が吹く。
三歩。
鐘が鳴る。
ちりん。
その音に混じって、誰かが名前を呼んだ。
リオ。
違う。
それは仲間の声ではない。
もっと古い、もっと優しい声。
母の声に似ている。
――リオ、こちらへ。
足が止まりかけた。
リオは歯を食いしばる。
「セリカ!」
彼は前を歩く背中へ叫んだ。
「何だ!」
「僕が止まったら叩いてください!」
「もう止まりかけている!」
セリカが振り向きざま、遠慮なくリオの額を指で弾いた。
痛い。
かなり痛い。
だが、その痛みで母に似た声が遠ざかった。
「ありがとうございます!」
「礼を言うな、調子が狂う!」
ミナが後ろで声を震わせながら叫んでいた。
「ミナ! ミナ・リュース! 私はミナ! 薬草師! 母の娘! 声を取り戻した!」
彼女は自分で自分の名前を何度も呼んでいる。必死だった。喉はまだ弱いはずなのに、声を止めなかった。
その声に、リオは胸を打たれた。
名前を持つこと。
声に出せること。
それがどれほど強いのか、彼女が一番知っている。
ハルトたち兵士も互いの名を呼び合っていた。
「ダン!」
「ハルト!」
「ユリス、遅れるな!」
「わかってる!」
グラントだけは黙っていた。
リオは振り返る。
「グラント!」
典礼官の男は橋の中央で立ち尽くしていた。
顔が白い。
目が焦点を失っている。
「グラント!」
反応がない。
彼の周囲だけ、空気が薄くなっている。無臭の風が、彼の身体の内側から吹いているようだった。
リオは直感した。
彼はすでに一部を喰われている。
だから外からの忘却に対して、誰より脆い。
「ハルトさん、縄を!」
ハルトが縄を引いたが、グラントは動かない。足が石橋に根を張ったように固まっている。
グラントの唇が動いた。
「……誰だ」
リオは駆け寄ろうとした。
セリカが腕を掴む。
「危険だ!」
「このままでは落ちます!」
「放っておけとは言わん。だが近づけばお前も引かれる!」
その時、リュミナが動いた。
白い髪をなびかせ、橋の上を裸足で駆ける。谷からの風が彼女の頭巾を吹き飛ばし、銀の瞳が露わになる。リュミナはグラントの前に立ち、彼の頬を平手で叩いた。
乾いた音が橋に響く。
グラントの顔が横を向く。
「お前はグラント」
リュミナが言った。
「食事を邪魔した者。ミナの声を奪った者。私を縛った者。妻と娘を忘れた者」
グラントの目がわずかに揺れる。
リュミナはさらに言った。
「まだ全部思い出していない。だから勝手に消えるな。お前には思い出して苦しむ仕事が残っている」
グラントの喉が震えた。
「……妻」
「名は?」
リュミナが問う。
グラントは苦しげに眉を寄せる。
「名……」
谷底から風が吹く。
無臭の手が、彼の顔を撫でる。
「思い出せない……」
リオは鞄を開けた。
グラントのための香りは作っていない。だが、彼の記憶の断片は聞いている。妻と娘。病。葬儀。白い花。冷めたスープ。小さな靴。
材料はある。
足りないものは、彼自身の名ではなく、彼が失った名。
「グラント!」
リオは叫んだ。
「奥様の葬儀で使った花は何ですか!」
グラントがかすかに反応する。
「花……」
「典礼官なら覚えているはずです! 花の色、並べ方、弔辞の順番!」
彼の職務記憶はまだ残っている。愛の記憶が喰われても、儀式の記憶は別の場所に刻まれているはずだ。
グラントの唇が震えた。
「白薔薇……弔花は白薔薇。北側に三束。棺の右に……娘の靴を……置いた」
「奥様の名前は!」
「……」
「呼ばなければ戻りません!」
グラントの目から涙が落ちた。
「エリス」
その名が橋の上に響いた。
無臭の風が一瞬だけ乱れる。
「娘さんは!」
リオは続ける。
「娘さんの名前は!」
グラントは胸を押さえた。縛られた手が震えている。
「リ……リ……」
影が谷底から伸びた。
顔のない腕が、橋の欄干を越えてグラントの背中へ迫る。
セリカが走った。
「ハルト、縄を引け!」
ハルトと兵士たちが一斉に縄を引く。リュミナがグラントの襟を掴む。ミナが薬草帳を開き、声を振り絞る。
「リオさん、白薔薇の香りに、子どもの記憶をつなぐなら蜂蜜です! それと羊毛! 小さな靴なら革の匂いも!」
「はい!」
リオはその場で小瓶を割った。
セリカの革手袋の香りをほんの一滴借りる。自分の蜂蜜の記憶を加える。ミナの薬草帳から乾いた白花の頁を削る。そこへグラントの掌から流れた黒くない血を、ほんの少しだけ混ぜた。
罪人の血。
父の血。
忘れた者の血。
香りが生まれる。
不格好で、悲しく、少し酸っぱい香り。
冷めたスープと白薔薇と、小さな靴の中に残った日向の匂い。
リオはそれをグラントの鼻先へ突きつけた。
「思い出してください!」
グラントの目が見開かれる。
彼は喉を裂くように叫んだ。
「リリア!」
その名が呼ばれた瞬間、谷底から伸びていた影が弾けた。
無臭の風に、白薔薇と蜂蜜の匂いが混じる。橋の鐘が大きく鳴った。
ごうん。
割れていない方の鐘だけではない。割れていたはずの鐘までもが、低く震えて音を出した。
グラントは膝から崩れ落ちた。
縄に支えられ、橋の上に倒れ込む。
リュミナは彼を見下ろし、鼻を鳴らした。
「手間のかかる男だ」
グラントは泣いていた。
端正な顔を歪め、声もなく泣いていた。典礼官としての礼儀も、王室に仕えた誇りも、悪事を重ねた冷たさも、その涙の前では何の形も保てていなかった。
「エリス……リリア……」
彼は二つの名を何度も呼んだ。
忘れていた愛の名。
忘れたかった痛みの名。
ミナは彼を見ていた。許した顔ではなかった。けれど、その目には憎しみだけではない何かがあった。
「行きましょう」
セリカが静かに言った。
「ここで立ち止まると、また来る」
一行はグラントを支えながら橋を渡った。
残りの道のりは、全員がひたすら名を呼び合った。
「リオ!」
「セリカ!」
「ミナ!」
「リュミナ!」
「ハルト!」
「ダン!」
「ユリス!」
「グラント!」
そして時々、グラントが小さく呟く。
「エリス。リリア」
橋を渡りきった時、全員が息を切らしていた。
振り返ると、石橋は霧の向こうに半ば消えかけている。欄干に刻まれた無数の名前が、夕暮れの光を受けて白く浮かんでいた。
リオはその中に、新しい文字を見つけた。
エリス。
リリア。
いつ刻まれたのかはわからない。
だが、たしかにそこにあった。
グラントもそれを見たらしい。
彼は縛られたまま、長い間その文字を見つめていた。
「取り戻せたのですね」
リオが言うと、グラントは首を横に振った。
「全部ではありません。声も、顔も、まだ欠けている。でも……名前は戻った」
彼は震える息を吐いた。
「名前だけで、こんなに痛いとは」
リュミナが白い花冠を抱え直した。
「痛いのは、残っている証だ」
グラントは彼女を見た。
「あなたに慰められるとは思いませんでした」
「慰めではない。事実だ」
その言い方が、以前リュミナがセリカに言った言葉と同じだったので、リオは少し笑った。
セリカが地図を広げる。
「今日はこの先の岩陰で野営する。火は小さく。影が来る可能性がある」
「石橋は越えましたが、もう安全というわけではありません」
グラントが言った。
「むしろ、王都に近づくほど忘却は濃くなる。明日には地下水路の入口へ着くでしょう。その先は、影だけではない」
「他にも何かいるのか」
ハルトが尋ねる。
グラントはしばらく黙ったあと、答えた。
「名を捨てた騎士たちです」
セリカの表情が変わった。
「騎士?」
「王都地下を守る近衛の一部。忘却の獣に記憶を捧げ、命令だけで動く者たち。彼らは痛みを恐れず、迷いもなく、死んでも自分が誰だったかを思い出さない」
「そんなものを王家が作ったのか」
「王家ではありません。アリアンヌ王女が」
リオは白い薔薇の匂いを思い出す。
枯れかけた、白い薔薇。
王女は獣に喰われているのか。
それとも、獣の一部になっているのか。
答えは王都の地下にしかない。
野営地に着く頃、空は完全に暗くなっていた。
岩陰に小さな火を起こし、干し肉と硬いパンを分ける。リュミナは配分に不満を述べたが、セリカに睨まれて渋々黙った。ミナはリオと共に石橋で使った香りの残りを整理し、影対策の薬香を小袋に詰めた。
グラントは火のそばで、ずっと二つの名を呟いていた。
エリス。
リリア。
忘れないために。
もう一度、失わないために。
リオは少し離れた場所で、夜空を見上げた。
雲が切れ、星が出ている。リューネ村で見た星よりも冷たく、王都へ近づくにつれて光が遠ざかっているように見えた。
セリカが隣に来た。
「眠れそうか」
「たぶん」
「たぶんは信用しない」
「では、少しは」
「もっと信用しない」
リオは苦笑した。
セリカは火を見つめながら言った。
「石橋で、お前が名を忘れかけた時、少し肝が冷えた」
「僕も冷えました」
「自分の名を忘れるのは、怖いな」
「はい」
「私は、騎士だった頃の自分を忘れたいと思ったことがある」
リオは彼女を見た。
セリカは右手の革手袋を外さず、膝の上に置いていた。
「討伐隊が壊滅した後、王都に戻れば裁かれる。村に残れば裏切り者の騎士だ。私は自分が何者なのか、ずっと決められなかった。村長と呼ばれても、騎士の名を捨てたわけではない。騎士と呼ばれても、王都には戻れない」
「今は?」
セリカは少し黙った。
「まだ分からん」
そして、珍しく小さく笑った。
「だが、石橋でお前に名前を呼ばれた時、戻る場所がある気はした」
リオは言葉を探した。
「セリカは、セリカです」
「雑だな」
「すみません。もっと詩的に言うべきでした」
「いや、それでいい」
彼女は火へ薪を足した。
「雑な方が、嘘が少ない」
リオは少し笑った。
風が岩陰を抜ける。
無臭ではなかった。
雪、火、革、薬草、干し肉、白い花冠、白薔薇と蜂蜜。仲間たちの匂いが混じっている。
それだけで、少し眠れる気がした。
だが、夜半。
リオは夢を見た。
王都の地下。
石の階段。
白い薔薇の花びらが、一枚ずつ落ちている。
その先に、一人の王女が立っていた。
白い髪ではない。銀でもない。黒い髪を長く垂らし、顔の半分を薄い布で覆っている。彼女の周囲には香りがなかった。だが、手にした薔薇だけが、枯れかけた甘さを放っている。
――調香師。
声は遠く、近い。
――あなたは、何を残したいの。
リオは答えようとした。
だが、口を開いた瞬間、自分の名前が出てこなかった。
王女が微笑む。
――名前は、いずれ邪魔になる。
彼女の背後で、巨大な獣が口を開けた。
形は見えない。
ただ、そこに世界の香りが吸い込まれていく。
母の手。
王妃の祈り。
リューネ村のスープ。
セリカの革手袋。
ミナの薬草帳。
リュミナの花冠。
グラントの白薔薇。
すべてが一瞬、遠ざかる。
リオは夢の中で叫んだ。
「返せ!」
王女は首を傾げた。
――返す?
――あなたたちは、苦しいから忘れたいのでしょう。
――私が、全部なくしてあげる。
目覚めた時、リオは汗をかいていた。
夜明け前だった。
火は小さく残り、仲間たちはまだ眠っている。セリカだけが剣を抱いて浅い眠りについていた。ミナは薬草帳を胸に抱き、リュミナは花冠を抱えたまま丸くなっている。グラントは拘束されたまま、寝言のように二つの名を呟いていた。
エリス。
リリア。
リオは震える手で、自分の小瓶を開けた。
苦い薬草。
苔。
蜂蜜。
母の声。
自分はリオ。
リオ・クラウゼン。
調香師。
香りを残す者。
彼は静かに息を整えた。
そして、王都の方角を見た。
夜の向こうから、枯れた白薔薇の香りが漂っている。
アリアンヌ王女は、こちらに気づいている。
忘却の獣もまた、口を開けて待っている。
旅はまだ途中だった。
だが石橋を渡った一行は、もう知っている。
名前は、ただの音ではない。
呼び合う限り、人は完全には消えない。




