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第六話 旧街道には忘れた者の足跡がある

夜明け前のリューネ村は、青い硝子の中に沈んでいるようだった。


家々の屋根に積もった雪はまだ朝の光を知らず、煙突から立ち上る煙だけが、村に人の暮らしがあることを示している。遠くの森では、眠りから覚めた鳥が一羽、短く鳴いた。その声はすぐに雪に吸われ、世界はまた静かになった。


リオは村の入口に立ち、荷を背負い直した。


鞄の中には調香道具、小瓶、薬草、王妃のハンカチ、そして仲間たちの記憶を移した香りが入っている。どれも小さな瓶にすぎない。だが、いまのリオには、それが剣や盾より頼もしく思えた。


セリカは馬の手綱を確認していた。


右腕には革手袋が嵌められている。古びて、何度も縫い直された跡がある。かつて彼女の父が使い、いまは彼女の記憶をつなぎ止めるもの。包帯の上から無理に嵌めているせいで少し窮屈そうだったが、セリカは外そうとしなかった。


ミナは薬草籠を背負い、母の薬草帳を胸元に抱えていた。声はまだ完全ではない。長く閉ざされていた扉が開いたばかりのように、言葉の一つ一つにぎこちなさがある。それでも彼女は、村人たちに向かって自分の声で別れを告げた。


「行ってきます」


たったそれだけの言葉に、村の老婆が泣いた。


そばかすの少年は泣かないふりをしていた。だが鼻をすすりながら、ミナに小さな布袋を渡した。


「干し林檎。途中で食べろよ」


「ありがとう」


ミナが笑うと、少年は顔を真っ赤にして横を向いた。


リュミナはその布袋をじっと見ている。


「それは共有財産か」


「違います」


リオが即答した。


「なぜだ」


「ミナさんがもらったものです」


「旅の仲間は分け合うものだ」


「あなたはさっき干し肉を三袋隠していましたね」


「竜の備蓄だ」


「没収されています」


リュミナは不満そうに頬を膨らませた。白い髪は頭巾の中へ押し込まれ、外見だけなら辺境の少女に見えなくもない。だが、銀の瞳と妙な威厳、そして食べ物への執着が、どうしても人間の子どもからは外れていた。


グラントは縄で手首を縛られ、ハルトともう一人の兵士に見張られている。結局、王都へ同行する兵士はハルトを含めて三人になった。残りの兵士たちは村に留まり、リューネを守ることになった。信用しきれない者もいるが、セリカは村人だけで防衛するよりましだと判断した。


「旧街道へ入れば、半日は人里がない」


セリカが言った。


「雪崩道を抜け、昼までに廃宿場へ着く。そこで一度休む。夜には山腹の石橋を渡る。問題はその先だ」


「忘却の影ですか」


リオが尋ねると、グラントが口を開いた。


「旧街道は、かつて王都とリューネを結ぶ契約の道でした。初代王の時代、王都から竜祠へ向かう巡礼者が通った。だが封印が弱まり始めてから、道そのものが記憶を失いかけている」


「道が記憶を失う?」


ミナが不安そうに問う。


「標識が消える。足跡が戻る。歩いたはずの距離がなかったことになる。気づけば同じ場所に立っている。あるいは、誰か一人だけが最初からいなかったことになる」


ハルトが青ざめた。


「脅かしているのか」


「事実です」


セリカが鋭く言った。


「余計な恐怖を振りまくな」


グラントは肩をすくめた。


「恐怖も準備の一部です。忘却に対して最も危険なのは、油断ですから」


リオは彼の言葉に反論しなかった。


グラントは罪人だ。信用できない。だが、忘却の獣については誰より多くを知っている。彼を連れていくこと自体が危険であり、必要でもある。その矛盾が、この旅の最初から足元に絡みついていた。


出発の前、リオは村人たちへ振り返った。


老婆、少年、鍛冶屋、山羊飼い、兵士たち。昨日まで王都から来た追放者を疑っていた者たちが、今は黙って見送っている。信頼というにはまだ早い。だが、少なくとも彼らの匂いから敵意は薄れていた。


代わりにあるのは、願いだ。


戻ってきてほしい。


王都の闇を止めてほしい。


この小さな村の冬を、ただの冬として終わらせてほしい。


リオは深く頭を下げた。


「行ってきます」


その言葉を合図に、一行は旧街道へ踏み出した。


雪道に最初の足跡が刻まれる。


だが、リオはすぐに気づいた。


自分たちの足跡の横に、もう一列、古い足跡がある。


薄く、半ば雪に埋もれている。大人と子どもの足跡が混じっていた。ずっと昔の巡礼者たちだろうか。けれど、おかしい。昨夜も雪は降った。古い足跡など残っているはずがない。


「見えますか」


リオが問うと、セリカは頷いた。


「見える」


ミナも小さく頷く。


リュミナは鼻を動かした。


「懐かしい匂いがする。だが、誰のものか思い出せない」


グラントが低く言う。


「旧街道が目覚めています。あるいは、忘れかけた記憶を吐き出している」


足跡は、彼らの進む方角へ続いていた。


まるで案内するように。


森へ入ると、空気が変わった。


リューネ村の薪やスープの匂いが遠ざかり、針葉樹の樹脂、凍った土、獣の毛皮、雪の下で眠る苔の匂いが濃くなる。リオは少し安心した。森にはまだ記憶がある。少なくとも、ここは無臭ではない。


だが一時間ほど歩いた頃、最初の異変が起きた。


ハルトの隣を歩いていた兵士が、突然立ち止まった。


「どうした」


ハルトが振り返る。


兵士は周囲を見回し、困惑した顔で言った。


「俺は……なぜここにいる?」


全員が足を止めた。


兵士の名はダン。昨夜、自ら同行を申し出た若い槍兵だ。村で見た封竜具の不正を王都で証言すると言っていた。だが今、その目には本物の混乱があった。


「ダン、落ち着け」


ハルトが肩を掴む。


「王都へ向かっている。グラントを連れて、霊廟へ」


「霊廟? 何の話だ。俺は王都から監察に来て……それで……」


彼の視線がグラントに止まる。


「典礼官殿がなぜ縛られている?」


ハルトの顔色が変わる。


忘れている。


昨日の戦いを。


グラントの裏切りを。


自分が証言すると決めたことを。


リオはすぐに鞄を開けた。


「ダンさん、これを嗅いでください」


取り出したのは、昨夜兵士たちに配った小瓶だった。彼ら自身の故郷に近い香りを調合したものだ。ダンには南部の麦畑、干し草、焼いた玉葱、古い井戸水の匂いを持たせていた。


瓶の栓を抜く。


ダンは警戒したが、ハルトに促され、恐る恐る息を吸った。


その瞬間、彼の表情が崩れた。


「……母さんの畑」


目の焦点が戻る。


「そうだ。俺は、村人に槍を向けたくなくて……それで……」


彼は額を押さえた。


「忘れていた。今、本当に忘れていた」


ミナが青ざめる。


セリカは周囲の森を睨んだ。


「影か」


グラントは首を横に振った。


「まだ影ではない。道の忘却です。ここから先は、全員が小瓶を首から下げてください。記憶が薄れたらすぐ嗅ぐ」


リオは仲間たちに瓶を配った。


セリカには古い革と鉄油、乾いた木剣の香り。ミナには薬草帳、母の指についたインク、干し花の香り。リュミナにはスープ、薪、雪、白竜の星の匂い。ハルトたちにはそれぞれの故郷。グラントには渡すべきか迷ったが、結局、小さな空瓶だけを渡した。


「なぜ空なのです」


グラントが問う。


「あなたの香りは、まだ作っていません」


「信用されていない?」


「それもあります」


「正直ですね」


「嘘をつかない約束ですから」


グラントは苦笑したが、何も言わなかった。


再び歩き出す。


足跡は相変わらず道の先に続いている。時折、子どもの足跡だけが横へ逸れ、また戻ってくる。巡礼の子が雪で遊んだのだろうか。そんな想像をした瞬間、リオの胸に妙な痛みが走った。


これは本当に他人の記憶なのか。


それとも、リュミナが忘れたものなのか。


昼前、廃宿場に着いた。


かつて巡礼者が泊まった場所だという。石造りの建物が三つ、雪に半ば埋もれている。屋根は落ち、扉は腐り、井戸は凍っていた。だが、広場の中央には古い香炉が残っていた。


リオはその香炉に近づいた。


青銅製で、白竜と王冠の紋様が刻まれている。中には灰が残っていた。何百年も前の灰のはずなのに、微かに香りがある。


白檀。


雪割草。


竜の鱗粉。


そして、人の息。


「巡礼者はここで香を焚いたのでしょう」


リオは灰を指で掬った。


「王都から来た者たちが、リューネへ入る前に自分の記憶を整えるために」


リュミナが香炉を見つめる。


「ここを知っている気がする」


「思い出せますか」


「笑い声があった。子どもが走っていた。人間の王が、寒いと文句を言っていた」


「初代王ですか」


リュミナは目を閉じる。


「顔が見えない。でも……手が温かかった」


その時だった。


廃宿場の奥から、誰かの歌声が聞こえた。


細く、古い子守唄のような声。


ミナが息を呑む。


ハルトたちは槍を構える。


セリカがリオを背にかばった。


「誰だ」


返事はない。


歌だけが続いている。


リオは匂いを嗅いだ。


薄い。


ほとんどない。


だが完全な無臭ではない。そこには、消えかけた石鹸、乾いた涙、古い布の匂いがあった。


「影ですか」


ミナが囁く。


グラントの顔は硬い。


「近いものです。まだ完全には喰われていない」


壊れた宿場の扉の向こうから、一人の少女が現れた。


年は十歳ほど。古い巡礼服を着ている。髪には雪が積もっているが、寒がる様子はない。顔立ちはぼんやりとしていて、目だけが異様に空っぽだった。


少女は歌を止め、こちらを見た。


「リュミナさま?」


白竜の少女が固まった。


「私を知っているのか」


巡礼服の少女は微笑んだ。


「忘れちゃったの?」


リュミナの顔から血の気が引いていく。


リオは気づいた。


これは罠だ。


だが同時に、本物の記憶でもある。


忘却の獣は、まったくの嘘では人を誘わない。失ったものの形を借りる。懐かしさで足を止めさせ、その隙に奥から喰う。


少女は手を差し出した。


「ねえ、リュミナさま。帰ろう。みんな待ってるよ」


リュミナが一歩、前へ出た。


セリカが鋭く言う。


「止まれ」


「だが、私はこの子を……」


「思い出したいなら、ここで飲まれるな」


リュミナの肩が震えた。


リオは彼女の前に出た。


「あなたの名前は?」


少女は首を傾げる。


「名前?」


その声が少し歪む。


「名前……なんだっけ」


空気が冷えた。


「お母さんの顔は?」


リオは続ける。


「どんな匂いでしたか」


少女の笑みが固まる。


「お母さん……」


「あなたは何を持って巡礼に来たのですか。どんな歌を歌っていましたか。リュミナ様に何を伝えたかったのですか」


少女の輪郭が揺れる。


歌声が途切れ途切れになる。


「わからない。わからない。わたしは……待って……誰を?」


リオは小瓶を開けた。


リュミナのために作ったスープの香りではない。廃香炉の灰をその場で媒体液に溶かした、旧街道の巡礼香だ。


白檀。


雪割草。


竜の鱗粉。


人の息。


香りが広がると、少女の空っぽだった目に一瞬だけ色が戻った。


「あ……」


彼女は自分の両手を見た。


「私、リナ。王都から来たの。お父さんと、お母さんと。白竜さまに弟の病気が治りますようにって……」


リュミナが震える声で言った。


「思い出した。お前は、私に花冠をくれた」


少女――リナは笑った。


今度の笑みは、空っぽではなかった。


「そう。白い花。リュミナさま、角にひっかけて困ってた」


リュミナの銀色の瞳に涙が浮かぶ。


「そうか。私は……そんなことも忘れていたのか」


だが、安堵は一瞬だった。


リナの背後の影が膨らんだ。


廃宿場の壁から、無臭の闇が剥がれ落ちる。人の形をしているが、顔がない。腕が長く、足音がしない。忘却の影。喰われた記憶の残骸。


グラントが叫ぶ。


「来る!」


影がリナへ手を伸ばした。


思い出した記憶を、もう一度喰うために。


リュミナが動いた。


白い光が彼女の手に集まり、影を凍らせようとする。だが、影は霜をすり抜けた。実体が薄い。剣も魔法も届きにくい。


「香りを!」


セリカが叫ぶ。


リオは即座に青い瓶を投げた。


眠りの香りは影には効かない。だが、青い香りは周囲の記憶の流れを遅くする。影の腕が、ほんの一瞬だけ鈍った。


その隙にミナが薬草帳を開く。


「雪留め草、銀針苔、朝露の葉……記憶を固定する薬香なら!」


彼女は震える手で薬草を取り出し、リオへ渡す。


リオはその場で調合した。


時間はない。香りの均衡も荒い。だが、ミナの薬草知識が支えになった。雪留め草の冷たさ、銀針苔の鋭さ、朝露の葉の清さ。そこへ廃香炉の灰を加える。


「リナさん、自分の名前を言ってください!」


リオが叫ぶ。


少女は怯えながらも答えた。


「リナ!」


「誰に花冠を渡しましたか!」


「リュミナさま!」


「何を願いましたか!」


「弟が、春を見られますように!」


香りが弾けた。


影の腕がリナの目前で止まる。


セリカの剣が、その腕を斬った。


今度は当たった。


剣に纏わせた革手袋の香りが、セリカ自身の記憶を刃にしていたのだ。


影は声にならない悲鳴を上げ、廃宿場の壁へ溶けるように消えていく。


だが完全には消えない。


奥から、さらにいくつもの影が蠢いていた。


ハルトが青ざめる。


「何体いるんだ」


グラントが答える。


「数える意味はありません。忘れられた者の数だけいる」


リナの姿が薄れていく。


リュミナが手を伸ばした。


「待て」


リナは首を横に振った。


「もう、行かなきゃ。思い出してくれて、ありがとう」


「お前の弟は」


リナは少し笑った。


「春を見たよ。たぶん。私、そこだけ忘れてなかった」


彼女はリオを見た。


「調香師さん。白竜さまを、ひとりにしないで」


「約束します」


リオが答えると、リナの姿は雪の粒のようにほどけた。


ただ、彼女が立っていた場所に、小さな白い花冠が残った。


枯れているはずなのに、微かに香りがある。


リュミナはそれを拾い、胸に抱いた。


誰もすぐには言葉を発しなかった。


忘却の獣との戦いは、ただ敵を倒すことではない。


失われたものを、思い出すこと。


そして、思い出したものが消える瞬間にも、もう一度名前を呼ぶこと。


セリカが静かに言った。


「休憩は終わりだ。影が集まる前に進む」


一行は廃宿場を後にした。


旧街道はさらに深い森へ続いている。


リュミナは白い花冠を抱いたまま歩いていた。リオは彼女の横に並ぶ。


「大丈夫ですか」


「大丈夫ではない」


リュミナは正直に答えた。


「思い出すのは、痛いな」


「はい」


「だが、忘れている方がもっと寒い」


リオは頷いた。


森の向こうから、無臭の風がまた吹いた。


けれど今度は、その風に完全には飲まれなかった。


リュミナの胸の花冠から、白い花の香りが立ち上っていたからだ。


忘却の中から取り戻した、最初の巡礼者の記憶。


それは小さく、弱く、今にも消えそうだった。


だが確かに、残っていた。

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