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第五話 無臭の風は王都から吹く

その夜、リューネ村で最も大きな鍋が火にかけられた。


大きいといっても、王都の貴族の厨房にある銅鍋に比べれば、ずいぶん質素なものだった。縁はところどころ歪み、取っ手には布が巻かれ、底には長年の煤が黒くこびりついている。だが、その鍋から立ち上る湯気には、リオが王城の晩餐会で嗅いだどんな料理よりも豊かな匂いがあった。


干し肉。根菜。豆。凍った茸。少しばかりの山羊乳。薬草師ミナが刻んだ香草。塩は少ない。胡椒などもちろんない。それでも、冬を越すために分け合われる食べ物の匂いは、空腹だけでなく、心の底まで温める力を持っていた。


リュミナは村長宅の長椅子に座り、椀を両手で抱えていた。


「少ない」


第一声がそれだった。


セリカは鍋の前で腕を組む。


「三杯目だ」


「竜の三杯は人の一口だ」


「今は人の姿だ」


「魂が竜だ」


「胃袋だけ竜に戻すな」


リュミナは不満げに頬を膨らませたが、スープを一口飲むと黙った。


銀色の瞳が、ほんの少し丸くなる。


「……温かい」


その言葉だけが、妙に静かだった。


リオは椅子に腰を下ろしながら、その匂いを嗅いだ。白竜の少女から立ち上る香りが変わっている。洞窟で眠っていた時のような冷たい星の匂いだけではない。そこに、湯気、木の器、干し肉の脂、囲炉裏の煙が混じっていく。


記憶が増えているのだ。


三十年ぶりに食べた温かいスープ。


その香りはきっと、彼女の中に残る。


ミナはリオの向かいに座っていた。声を取り戻したばかりの喉を気遣って、スープを少しずつ飲んでいる。何かを言いたそうにしては、まだ自分の声に慣れないのか、口を閉じる。そのたびに彼女は照れたように笑った。


セリカの右腕には新しい包帯が巻かれていた。リオの香油で痛みは抑えているが、呪いが完全に消えたわけではない。グラントの蔦を斬った時、黒い紋様は再び深く刻まれてしまった。


そのグラントは、村の倉庫に拘束されている。


王都兵の若い隊長――名をハルトと言った――が見張りについていた。ハルトは貴族出身ではなく、南部の農村から徴兵された兵士だった。リオの香りで故郷の麦畑を思い出し、最初に槍を下ろした青年である。


「兵士たちはどうしていますか」


リオが尋ねると、セリカはスープをかき混ぜながら答えた。


「半分は村の外周警備。残りは魔狼の見張りだ。武装解除はしたが、完全には信用していない」


「当然ですね」


「ただ、少なくとも今夜は敵ではない。グラントが動かしていた魔物の首輪や封竜具も証拠として押さえた。問題は、これをどこへ持っていくかだ」


「王都の法廷、とは言いにくいですね」


「王都そのものが腐っているならな」


重い沈黙が落ちた。


鍋の煮える音だけが部屋に満ちる。


王妃のハンカチに浮かんだ文字。


――国王を眠らせているのは、エルヴィンではありません。


――王都の地下、初代王の霊廟に、香りを喰うものが眠っています。


その言葉は、勝利の余韻をすべて奪い去っていた。


リオは椀を手にしたまま、湯気を見つめる。


香りを喰うもの。


それが何なのか、彼にはまだわからない。ただ、王都から吹いたあの無臭の風を思い出すたび、背筋に冷たいものが這った。


匂いがないということは、単に香りが薄いという意味ではない。


世界に存在するものは、必ず何らかの痕跡を持つ。石には雨の記憶があり、鉄には火の記憶があり、人の手には触れたものの記憶が残る。たとえ無味無臭に思える水でさえ、川底の砂や空の雲を微かに宿している。


完全な無臭。


それは、記憶を拒む穴だ。


「初代王の霊廟について、何か知っていますか」


リオが問うと、セリカは首を横に振った。


「王都騎士だった頃にも、入ったことはない。王城の地下深くにあるとは聞いていたが、王族と一部の神官しか近づけない場所だ」


ミナが口を開いた。


「薬草師の古い本に……少しだけ、あります」


声はまだ掠れていたが、言葉ははっきりしていた。


「リューネの谷と王家の契約は、初代王の時代に結ばれたって。白竜は王家を守る代わりに、王家は谷を守る。契約の証として、初代王は自分の“息”を竜へ預けたと書いてありました」


リュミナがスープから顔を上げる。


「息?」


「はい。古い言い方だと思います。魂とか、誓いとか、そういう意味かもしれません」


リュミナは眉をひそめた。


「思い出せない」


「三十年前に記憶を削られたからですか」


リオが言うと、リュミナは黙って頷いた。


「初代王の顔も、声も、匂いも、霧の向こうにある。だが、嫌な匂いではなかったはずだ。少なくとも、今の王都の風とは違う」


セリカがリオを見る。


「お前はどう考える」


「初代王の霊廟に何かが封じられているのは確かだと思います。そして、それが国王陛下の眠りと関係している。王妃様はそれに気づいていた。だから僕を、リューネへ導いた」


「なぜ直接言わなかった」


「王妃様の周囲は監視されていたのでしょう。香りに隠すしかなかった」


リオは胸元の小瓶を取り出した。


ハンカチの刺繍は、もう元の薄紫の模様に戻っている。だが、香りは少し変わっていた。王妃の祈りの奥に、ほんの微かに別の匂いがある。


白い灰。


古い石室。


乾いた薔薇。


王都地下の匂いかもしれない。


リオはそれを辿れる。


だが、辿った先に何が待つのかはわからない。


「王都へ行くとして、問題が三つあります」


リオは椀を置いた。


「一つ、僕は追放者です。見つかれば拘束される。二つ、セリカ村長も王都に戻れば三年前の件で追及される可能性がある。三つ、リュミナ様は存在そのものが狙われる」


「私は隠れるのが嫌いだ」


リュミナが即座に言った。


「でしょうね」


「だが肉があるなら我慢する」


「それは隠れる条件ですか?」


「世界は条件でできている」


セリカがため息をついた。


「王都へ行くなら、正面からは無理だ。グラントの部隊は戻らない。数日のうちに王都は異変に気づく。こちらへ追手が来る前に動く必要がある」


「村を空けられますか」


リオの問いに、セリカは少し黙った。


村長である彼女が離れれば、リューネ村の守りは薄くなる。だが王都の根を断たなければ、村は何度でも狙われる。


その時、扉が叩かれた。


入ってきたのは、王都兵のハルトだった。鎧は外し、村の外套を借りている。まだ緊張した面持ちだったが、広場で槍を向けていた時とは別人のように見えた。


「失礼します」


「グラントは?」


セリカが問う。


「拘束したままです。ただ……妙なことを言っています」


「妙なこと?」


ハルトはリオへ視線を向けた。


「リオ殿を呼べ、と。取引がしたいそうです」


部屋の空気が変わった。


セリカは即座に立ち上がる。


「罠だ」


「僕もそう思います」


リオも立った。


「でも聞きます」


「罠だと言ったばかりだ」


「罠の形を知る必要があります」


セリカは眉間に皺を寄せた。


「お前は自分が危ない場所へ歩いていく癖があるな」


「王都では研究室にこもっていたので、たぶん反動です」


「笑えない」


リュミナが椀を置く。


「私も行く」


「駄目です」


「なぜ」


「グラントはあなたを縛ろうとした相手です。刺激します」


「では刺激してやる」


「目的が変わっています」


ミナが静かに立ち上がった。


「私も行きます」


リオは首を横に振りかけたが、ミナの目を見て止めた。


そこには、声を奪われた少女の怯えではなく、自分の言葉を取り戻した者の意志があった。


「わかりました。ただし、無理はしないでください」


「はい」


セリカが剣を取った。


「結局全員行くのか」


「村長宅が空になりますね」


「鍋を見張る者が必要だ」


リュミナが真剣に言った。


「そこですか」


「大事だ」


結局、鍋は少年と老婆に任され、一行は倉庫へ向かった。


夜の村は静かだった。


雪は止んでいる。雲の切れ間から星が覗き、家々の窓には橙色の灯が揺れていた。広場には戦いの跡がまだ残っている。雪に刻まれた鎖の跡、黒い蔦が焼けた焦げ跡、兵士たちの足跡。だが、空気は昼間より澄んでいた。


少なくとも、眠り草の濃い支配臭は薄れている。


それでも王都の方角から、時折あの無臭の風が来る。


風が吹くたび、リオの鼻は世界の一部を失ったように空白を感じた。


倉庫の前には二人の兵士が立っていた。彼らはセリカに敬礼し、それから少し気まずそうに村人式のお辞儀をした。敵から味方へ変わったばかりの者たちは、いつも立ち位置に困る匂いをさせる。


中へ入ると、干し草と古い木材の匂いがした。


その中央で、グラントは椅子に縛られていた。両手には鉄枷。足元にはリオの調合した青い香粉が撒かれている。眠り草とは異なり、呪いの活性化を鈍らせる香りだ。


グラントは顔を上げた。


昼間の端正さは崩れている。黒い血は拭われていたが、掌の傷はまだ塞がっていない。銀の指輪は証拠として取り上げられ、別の箱に封じられていた。


それでも、彼の目は死んでいなかった。


むしろ、奇妙に晴れやかですらあった。


「来てくれると思っていましたよ、リオ・クラウゼン」


「取引とは何ですか」


リオは距離を取って立つ。


セリカが右側に、ミナが左側に。リュミナは後方に立っていたが、明らかに機嫌が悪そうだった。食事を中断されたせいか、グラントの存在そのもののせいか、あるいは両方だろう。


グラントはリュミナを見て、口元を歪めた。


「白竜が人の姿でスープを啜るとは。王都の学者たちが見れば、感激で失神するでしょう」


「お前は食べ物の邪魔をした」


リュミナが言う。


「それは竜にとって重罪だ」


グラントは笑った。


「恐ろしいですね」


「本当に恐ろしいぞ」


リュミナが一歩前へ出ようとしたので、リオが手で制した。


「グラント。用件を」


「王都へ行くつもりでしょう」


その一言で、倉庫の空気が重くなった。


グラントは続ける。


「王妃の香りに導かれて。初代王の霊廟へ。香りを喰うものを探しに」


セリカの剣がわずかに鳴った。


「なぜそこまで知っている」


「私も見たからです。王妃の残した仕掛けを。もっとも、完全には解けなかった。香りを鍵にする暗号など、あの方らしい」


リオは眉を寄せる。


「王妃様を毒殺したのは、あなたですか」


グラントは微笑んだ。


「毒を運んだのは私ではありません」


「答えになっていません」


「では、こう言いましょう。私は王妃の死に関わっている。ですが、殺したのは私ではない」


「誰ですか」


「それを知りたいなら、取引です」


セリカが低く言う。


「自分の立場がわかっているのか。お前は捕虜だ」


「捕虜だからこそ価値がある。死体は喋りません」


「生きていても喋らないなら同じだ」


グラントは肩をすくめた。


「脅しは無意味です。私は痛みに強い。呪いにも慣れている」


リュミナが鼻を動かした。


「嘘だ。痛みは怖い匂いがする」


グラントの表情が一瞬だけ固まる。


リュミナは淡々と言った。


「お前は痛みが怖い。だが、それより怖いものがある。だから従っている」


リオはグラントを見る。


「エルヴィン殿下ですか」


グラントは沈黙した。


その沈黙の匂いは、否定ではなかった。


しかし、完全な肯定でもない。


もっと奥に、別の恐怖がある。


無臭の穴に触れた者の恐怖。


「王子は扉だ、と言いましたね」


リオは一歩近づいた。


「あなたも、グラント。エルヴィン殿下に忠誠を誓っているのではない。王都地下の何かに縛られている」


グラントの喉が動いた。


初めて、彼の余裕が崩れた。


「……香りだけで、そこまで」


「香りは嘘をつきません」


「では、私が今から言うことも嗅いでみるといい」


グラントは声を潜めた。


「国王陛下は、眠らされているのではありません」


リオの胸が鳴った。


「どういう意味ですか」


「陛下は、自ら眠ったのです」


セリカが眉をひそめる。


「王が自分で政務を放棄したとでも?」


「放棄ではない。封印です。陛下は王都地下で目覚めかけたものを抑えるため、自分の意識を霊廟へ沈めた。だから表の身体は眠っている」


「では、第二王子は」


「陛下の眠りを利用している。そう考えれば、あなたたちには分かりやすいでしょう」


「違うのか」


グラントは笑った。


「利用しているつもりで、利用されている」


倉庫の干し草が、風もないのにかすかに揺れた。


無臭の気配。


リオは鼻を押さえた。


「話を続けてください」


「初代王の霊廟には、王国建国以前のものが封じられています。名はありません。名をつけると、それを覚えてしまうから。古い記録では“忘却の獣”と呼ばれていた」


「忘却の獣……」


ミナが小さく繰り返した。


その言葉に、リュミナが顔をしかめる。


「嫌な名だ」


グラントは頷いた。


「それは香りを喰う。香りとは記憶です。記憶を喰われた土地は、歴史を失う。人は親の顔を忘れ、兵士は守る理由を忘れ、王は王である意味を忘れる。最後には、国そのものが空白になる」


リオは王都から吹いた無臭の風を思い出した。


あれは、ただの前触れではない。


すでに食われ始めているのだ。


「なぜそんなものが王都の地下に」


「初代王が封じたからです。白竜リュミナとの契約によって」


リュミナの銀の瞳が揺れた。


「私が?」


「正確には、あなたと初代王が。白竜は記憶を守る竜。初代王は人の歴史を背負う王。二人は契約し、忘却の獣を王都地下に封じた。その封印の鍵が、王家の血と、竜の記憶だった」


リオは息を呑む。


「だからリュミナ様の記憶を削った。封印を弱めるために」


グラントは目を伏せた。


「エルヴィン殿下は、忘却の獣を制御できると考えています。敵国の歴史を奪い、反乱貴族の記憶を消し、恐怖すら忘れさせ、ただ命令だけが残る王国を作れると」


セリカが吐き捨てる。


「狂っている」


「狂気は、本人には理想に見えるものです」


「お前はなぜ従った」


グラントの顔に、初めて苦痛が浮かんだ。


「私には、忘れたいものがあった」


倉庫の中が静まり返る。


「家族を失った。流行病で、妻と娘を。私は典礼官でした。葬儀の作法を誰より知っていた。棺の置き方、弔辞の順番、花の色。なのに、どんな正しい儀式をしても、二人のいない家の匂いは消えなかった」


彼の声が、わずかに震えた。


「エルヴィン殿下は言った。忘れられる、と。苦しみを喰わせればいい、と」


リオは何も言わなかった。


グラントから漂う匂いが変わっている。


偽りではない。これは本当の記憶だ。


乾いた寝台。熱に浮かされた子どもの呼吸。冷めたスープ。洗われずに残った小さな靴。葬儀用の白い花。


そして、どうしようもない喪失。


「最初は、自分の記憶を少しだけ差し出した」


グラントは続けた。


「楽になりましたよ。妻の笑い声を忘れた。娘の髪の匂いを忘れた。忘れれば、痛みは薄れる。私は救われたと思った」


「でも、違った」


ミナが言った。


グラントは彼女を見た。


声を奪った少女を。


「ええ。忘れた痛みの場所には、何も残らなかった。愛していた記憶ごと消えた。私は何のために悲しんでいたのかすら分からなくなった。ただ、空っぽだけが広がった」


リオは拳を握る。


忘却は癒しではない。


傷跡ごと心を削るものだ。


「戻れなくなったのですね」


「忘却の獣に一度記憶を喰わせた者は、匂いの一部を失う。失った部分から、命令が入ってくる。エルヴィン殿下も同じです。彼は獣を操っているつもりで、空白を広げられている」


「王妃様は、それを知った」


「はい。だから殺された」


リオは声を低くした。


「誰に」


グラントは答える前に、倉庫の天井を見上げた。


まるでそこに何かがいるように。


「第一王女、アリアンヌ殿下」


誰も息をしなかった。


リオはその名を知っている。


王位継承権第一位、アリアンヌ王女。


国王の長女にして、病弱を理由に公の場へほとんど姿を見せない王女。王都では、彼女は政治に関心のない静かな姫君だと噂されていた。第二王子エルヴィンが実質的な後継者と見なされていたのも、姉である王女が表舞台に立たないためだった。


「アリアンヌ殿下が……」


リオは思わず呟いた。


グラントは頷く。


「王妃を毒殺したのは、彼女です。もっとも、今の彼女を“彼女”と呼べるなら、ですが」


リュミナが低く唸る。


「喰われているのか」


「ほとんど。王女は幼い頃から病弱だったのではありません。霊廟の封印を維持するため、王家の血を捧げられ続けた。彼女は誰より長く、忘却の獣のそばにいた。そしていつしか、自分の記憶と獣の空白の境目を失った」


「なぜ国王は止めなかった」


セリカの声には怒りがあった。


「止めようとした時には遅かった。陛下は王女を救うために霊廟へ入り、逆に封印の一部となった。王妃は外から救おうとした。エルヴィン殿下は、姉を解放するために獣を利用しようとした」


「全員が救おうとして、全部壊したのか」


セリカの言葉は冷たかった。


グラントは苦笑する。


「王家らしい悲劇でしょう」


「悲劇で村を焼かれてたまるか」


セリカは言い捨てた。


リオは王妃のハンカチを握った。


アリアンヌ王女。


今まで見えていた敵の背後に、さらに深い影があった。第二王子エルヴィンは野心家だ。グラントは罪人だ。だが、それだけではなかった。王女は封印に喰われ、国王は眠り、王妃は殺され、白竜の記憶は削られた。


王国そのものが、忘れられようとしている。


「取引の内容を聞いていません」


リオが言うと、グラントはかすかに笑った。


「私を王都へ連れていきなさい」


セリカが即座に言う。


「断る」


「私なしで霊廟へは入れない。地下への道は複雑で、封印扉は三つある。そのうち一つは典礼官の血印が必要です」


「血印だけなら、指を切って持っていけばいい」


リュミナが平然と言った。


グラントの顔色が悪くなる。


「竜の発想は野蛮ですね」


「食事を邪魔した者には優しい方だ」


リオは咳払いした。


「リュミナ様、今のは保留で」


「保留ならよい」


「よくありません」


グラントはリオを見た。


「私を連れていけば、霊廟への道を教える。代わりに、忘却の獣の前で私の記憶を取り戻してください」


「取り戻す?」


「喰われた記憶は完全には消えない。獣の腹の中に沈んでいる。あなたの香りなら、それを引き上げられるかもしれない」


彼の声が、初めて懇願に近くなった。


「妻と娘を、思い出したい」


ミナが唇を噛んだ。


セリカは冷たい目でグラントを見る。


「お前はその空白を埋めるために、私たちの村を壊そうとした。ミナの声を奪い、リュミナを縛り、魔狼を操った。自分だけ救われるつもりか」


グラントは目を伏せた。


「救われる資格がないことは分かっています」


「分かっていて言うのか」


「はい」


「厚かましいな」


「ええ」


沈黙が落ちる。


リオはグラントから漂う匂いを嗅いだ。


罪。


恐怖。


後悔。


打算。


そして、ごくわずかな希望。


清らかなものではない。赦しを求める者の匂いは、いつも泥にまみれている。だが、完全な嘘でもなかった。


「約束はできません」


リオは言った。


グラントが顔を上げる。


「忘却の獣が本当に記憶を喰っているなら、取り戻せる保証はありません。取り戻せたとしても、あなたに耐えられるかもわからない。忘れた痛みは、思い出せば戻ります」


「構いません」


「それに、あなたの罪は消えません」


「分かっています」


「では、条件があります」


リオは静かに言った。


「王都までの道中、嘘をつかないこと。隠し事をしないこと。ミナさんに謝罪すること。リュミナ様に食べ物の邪魔をしないこと」


最後の条件に、セリカが微妙な顔をした。


リュミナは真剣に頷いた。


「重要だ」


グラントはミナを見た。


彼女は身を強張らせたが、逃げなかった。


グラントは椅子に縛られたまま、深く頭を下げた。


「ミナさん。あなたの声を奪ったこと、謝罪します」


ミナはすぐには答えなかった。


彼女の喉が小さく震える。


取り戻したばかりの声で、どんな言葉を選ぶべきか迷っている匂いがした。


やがて、彼女は言った。


「許しません」


グラントは目を閉じた。


「当然です」


「でも、王都へ行くなら、私も行きます。あなたがまた誰かの声を奪わないように、見張ります」


リオは驚いてミナを見る。


「ミナさん」


「薬草師として、呪いを見たいです。それに……私の声を奪った人たちが、他にもいるなら、止めたい」


セリカが低く唸る。


「危険だ」


「村にいても危険です。王都がこのままなら、また来ます」


ミナの声は細いが、折れなかった。


リュミナが頷く。


「声を取り戻した者は強い。喉が覚えている」


セリカは頭を抱えた。


「お前まで勝手なことを言うな」


「私は竜だ。勝手が仕事だ」


「そんな仕事はない」


リオは思わず笑いかけたが、すぐに表情を戻した。


王都へ向かう。


それは決まったのだろう。


問題は、どう行くか。


セリカはしばらく考え込んだあと、ハルトへ目を向けた。


「王都兵の中で、信頼できる者は何人いる」


ハルトは背筋を伸ばした。


「完全に、という意味なら五人。迷っている者が十人。残りは王都へ戻りたがっています」


「戻りたがる者は帰すな。グラントの件を王都へ先に知らせられると困る」


「監禁しますか」


「違う。吹雪で道が塞がったことにする」


「実際には?」


「明日の朝、村人総出で道を塞ぐ」


ハルトは少し考え、頷いた。


「なるほど、実際に塞げば嘘ではありません」


セリカはリオを見る。


「王都へは北の旧街道を使う。今は廃道だが、昔は竜祠への巡礼路だった。途中に古い宿場跡がある。そこから王都の地下水路へ入れると聞いたことがある」


グラントが驚いたように眉を上げた。


「よくご存じで」


「王都騎士を舐めるな」


「その道は確かに霊廟近くへ通じています。ただし、地下水路には忘却の影が出る」


「何だそれは」


「記憶を喰われた人間の残り香です。姿は人に似ているが、中身はない。匂いも薄い。触れられると、自分の一番古い記憶から失っていく」


リオの背筋に寒気が走った。


一番古い記憶。


彼にとってそれは、母の手の匂いだった。


幼い頃、熱を出した夜に額へ置かれた冷たい手。その手に残っていた石鹸と薬草の匂い。母はもういない。その記憶だけが、リオの中に残っている。


それを奪われる。


想像するだけで、喉が詰まった。


「対策は?」


セリカが問う。


グラントはリオを見た。


「香りです。強い記憶の香りを身につければ、影は近づきにくい」


リュミナが鼻を鳴らす。


「ならば食事の匂いを持っていく」


「それで近づかないのは影ではなく人かもしれません」


リオは言った。


「でも、方向性は合っています。各自、自分にとって大切な記憶と結びついた香りを用意しましょう」


セリカは自分の右腕を見る。


「私には、そんなものはない」


「あります」


リオは即答した。


セリカが目を細める。


「なぜ言い切る」


「あなたからは、いつも古い革手袋の匂いがします。騎士時代から使っていたものでは?」


セリカは黙った。


やがて、小さく言う。


「……父のものだ。私に剣を教えた」


「それを持っていきましょう」


ミナは薬草籠を抱きしめた。


「私は、母の薬草帳を」


リュミナは真剣に考え込んだ。


「肉」


セリカが即座に言う。


「駄目だ」


「なぜだ」


「腐る」


「干せばよい」


「旅の食糧を全部お前の記憶にするつもりか」


リオは笑いをこらえながら言った。


「リュミナ様には、リューネ村のスープの香りを小瓶に移しましょう。今日、目覚めて初めて得た新しい記憶です」


リュミナは少し驚いた顔をした。


「この温かい匂いを、持っていけるのか」


「完全ではありませんが、近づけることはできます」


「なら、それがいい」


彼女は椀を見つめた。


「忘れたくない」


その言葉に、誰もすぐには返せなかった。


リュミナは多くを忘れた。


谷の名も、初代王の顔も、自分が何を守りたかったのかさえ、奪われかけた。だからこそ、目覚めて最初に得た温かさを大切にしようとしている。


リオは深く頷いた。


「必ず作ります」


グラントが静かに言った。


「あなたは?」


リオは自分を指さす。


「僕ですか」


「あなた自身の記憶の香りは、何です」


リオは答えに詰まった。


王妃のハンカチは導きだ。だが、それは彼自身の根ではない。宮廷の研究室、師匠の叱責、母の手、追放の日の雪。いくつもの香りが浮かび、どれも選びきれない。


その中で、最も奥から立ち上がってきたものがあった。


小さな台所。


焦げかけた薬草茶。


母の笑い声。


そして、幼いリオが初めて作った失敗作の香り。


苦く、青臭く、とても香水とは呼べないもの。それを母は「森が寝ぼけているみたい」と言って笑った。


リオは目を閉じる。


「母に初めて褒められた香りがあります」


「褒められた?」


セリカが少し意外そうに言う。


「失敗作でしたが」


「お前らしいな」


「否定できません」


その香りを再現できるだろうか。


材料は足りないかもしれない。けれど、記憶の核は残っている。苦い薬草、雨上がりの苔、温めすぎた蜂蜜。


作れる。


作らなければならない。


倉庫の外で、鐘が一度だけ鳴った。


警戒ではない。


夜番の交代を知らせる鐘だ。


リューネ村の夜は続いている。人々は家の中で子どもを寝かせ、兵士たちは慣れない雪道を見張り、魔狼たちは森の端で静かに眠っている。王都の地下で何かが目覚めようとしていても、今この村には生活がある。


それを守るために、王都へ行く。


リオはグラントを見た。


「明日の夜明け前に出ます。あなたは拘束したまま同行してもらいます」


「賢明です」


「裏切れば、リュミナ様が噛みます」


リュミナが頷く。


「噛む」


グラントは顔を引きつらせた。


「努力して裏切らないようにします」


「努力ではなく、結果でお願いします」


セリカが言った。


ミナは少し笑った。


倉庫を出ると、空には星が増えていた。


リオは深く息を吸った。


リューネ村の夜の匂い。


薪、雪、スープ、薬草、竜、鉄、傷、眠る魔狼、そして人々の小さな希望。


そのすべてを胸に刻む。


明日から向かう王都には、無臭の風が吹いている。記憶を喰うものが待っている。もしかすると、リオ自身の大切な香りも奪われるかもしれない。


それでも、行かなければならない。


香りは残る。


残った香りを辿る者がいる限り、忘却は完全には勝てない。


翌朝、まだ空が群青色のうちに、リオは村長宅の台所に立っていた。


小瓶を並べ、鍋の湯気を集める。


リュミナのためのスープの香り。


ミナのための薬草帳の香り。


セリカのための古い革手袋の香り。


自分のための、森が寝ぼけているような失敗作の香り。


それらはどれも、宮廷で作った香水のように洗練されてはいなかった。王妃の寝室を飾るには素朴すぎる。貴族の舞踏会では笑われるだろう。


だが、忘却の獣に挑むには、きっとこういう香りこそが必要なのだ。


生きてきた証。


失いたくないもの。


誰かが誰かを思い出すための、小さな灯。


外では、セリカが馬を用意している。ミナは薬草と包帯を詰め、リュミナは干し肉の数を数えてはセリカに取り上げられている。グラントはハルトに縄を確認され、苦い顔をしていた。


リオは最後の小瓶に栓をした。


その瞬間、王都の方角から再び風が吹いた。


無臭の風。


だが今度は、リオは息を止めなかった。


彼は小瓶を握り、真正面からその風を吸った。


何もない。


何も残らない。


けれど、その空白の端に、ごく微かな匂いがあった。


薔薇。


枯れかけた、白い薔薇の香り。


リオは目を開けた。


「アリアンヌ王女……」


その名を呟いた時、遠い王都の地下で、誰かがこちらを振り向いたような気がした。


旅が始まる。


辺境の雪を踏みしめ、香りを瓶に詰め、忘れられた約束を取り戻すために。


追放された調香師は、白竜と、元騎士と、声を取り戻した薬草師と、罪を背負った典礼官を連れて、王都へ向かう。


王国の記憶を喰らう獣が、静かに口を開けて待っていた。

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