表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

4/7

第四話 王都の使者は白い嘘をまとう

村の広場には、雪より白い沈黙が降りていた。


王都から来た馬車は三台。黒塗りの車体には金の縁取りが施され、扉には王家の紋章が輝いている。村の泥と雪にまみれた道の上で、それはひどく不自然だった。まるで死体の上に宝石を置いたような、不吉な華やかさがある。


馬車の周りには兵士が二十六人。


リオは家屋の影から、その数を数えた。槍兵が十、弓兵が六、剣を帯びた近衛兵が八。残り二人は魔術師だ。杖に巻かれた赤い布から、宮廷魔術師団の末席とわかる。


だが、最も強い匂いを放っているのは、中央の男だった。


黒い外套。白い手袋。銀の指輪。


王室典礼官、グラント・ローヴェル。


宮廷では礼儀作法と儀典を司る穏やかな男として知られていた。王族の登場順、晩餐会の席次、外国使節への挨拶文。そうした瑣末で美しい規則に囲まれ、誰よりも丁寧に微笑む男。


だが今、リオの鼻には別のものが届いている。


焼けた髪。黒鉄。眠り草。血で湿った羊皮紙。


夢の中で嗅いだ匂いと同じだった。


「リューネ村村長、セリカ・アルヴァン殿」


グラントの声は、柔らかかった。


雪に落ちる羽のように軽く、聞く者の警戒心を撫でる声。だがリオには、その声の下に隠された細い刃が匂った。


「王都より、正式な監察命令を携えて参りました。近頃この地にて魔物の異常発生が確認され、また古竜信仰に類する不穏な噂もございます。王国の安全のため、村内および竜祠の調査を行います」


広場に集められた村人たちは、誰も答えない。


彼らは知っている。王都の使者が来るたび、何かを奪われることを。薬草、食糧、若者、声、眠り。そして今回は、もっと大きなものを奪いに来たのだと、本能で感じている。


セリカは村人たちの前に立っていた。


古い騎士鎧の上に外套を羽織り、腰には剣。右腕には包帯を巻いている。リオの香油のおかげで指は動くようになっていたが、まだ完全ではない。それでも彼女の立ち姿には、兵士たちの視線を押し返すだけの重さがあった。


「監察命令状を見せろ」


グラントは微笑んだ。


「もちろんです」


白い手袋の指が、一枚の羊皮紙を差し出す。


セリカはそれを受け取り、目を通した。


一瞬、眉が動く。


リオはその反応を見逃さなかった。


「何が書かれていますか」


彼は声を潜めて隣のミナに尋ねた。


ミナはリオの横で、薬草籠を抱えていた。リュミナはその少し後ろにいる。白い髪を頭巾で隠し、村の子どもの古着を着せられていたが、銀色の瞳だけは隠しきれない。本人は不満そうだった。


「布がちくちくする」


「我慢してください」


「竜に布を着せる文化は愚かだ」


「裸足で雪を歩く文化も人間には難しいです」


リュミナはむっとしたが、それ以上は言わなかった。代わりに鼻を小さく動かしている。嘘の匂いを嗅いでいるのだろう。


ミナは板に素早く文字を書いた。


――竜祠の封鎖。村長の拘束権限。抵抗者は反逆罪。


リオは息を止めた。


監察ではない。


制圧だ。


「命令状には第二王子殿下の署名がございます」


グラントはよく通る声で言った。


「国王陛下はご病気により政務を執れぬ状態。よって王国の安寧を守るため、殿下が摂政代理として緊急権限を行使されました」


村人たちがざわめく。


国王が病気。


その言葉は辺境の村にも重く響く。王は遠い存在だが、王国という屋根の名でもある。その屋根が傾けば、雪は容赦なく降り込んでくる。


セリカは羊皮紙を返さなかった。


「この命令状は無効だ」


グラントの微笑みが、ほんの少し深くなる。


「理由を伺っても?」


「摂政代理などという役職は王国法にない。国王の署名も、大臣会議の印もない。第二王子の私印だけで辺境の村を封鎖する権限は存在しない」


兵士たちの間に小さな動揺が走った。


グラントの目が細くなる。


「さすが元王都騎士。法律にも明るい」


「騎士は命令だけで剣を振るわない。少なくとも、まともな騎士はな」


セリカの声には棘があった。


グラントは肩をすくめた。


「では、別の言い方をしましょう。魔物の発生源がこの村にある疑いが濃厚です。王都への報告によれば、竜祠から不浄な魔力が観測された。もし調査を拒むなら、村全体が魔物災害の共犯と見なされる可能性がある」


「報告したのは誰だ」


「王都の観測官です」


「名前は?」


「機密です」


「便利な言葉だ」


セリカが羊皮紙を雪の上へ落とした。


「この村は調査を拒む。正当な命令状を持って出直せ」


その瞬間、槍兵たちが一斉に槍を構えた。


村人たちが後ずさる。


少年が弓へ手を伸ばしたが、セリカが視線だけで止めた。ここで矢を放てば、それこそ反逆の口実になる。


グラントはため息をついた。


「残念です。私は穏便に済ませたかった」


その言葉に、リュミナが小さく笑った。


リオは横目で彼女を見る。


「何か?」


「今のは、よく腐った嘘だ」


「声が大きいです」


「嘘が大きい」


グラントの視線がこちらへ向いた。


リオはすぐに頭を下げ、ミナの影へ身を隠す。外套の襟を上げ、髪も帽子で覆っている。追放された宮廷調香師がここにいると知られれば、話はさらに面倒になる。


だが、グラントの目は鋭かった。


「そちらの者」


兵士が一歩近づく。


「顔を上げなさい」


リオは動かなかった。


ミナが前に出た。彼女は声を出せないまま、板を掲げる。


――村の薬草師です。病人がいます。


「あなたではない」


グラントの白い手袋が、リオを指す。


「その後ろの男です」


空気が張り詰めた。


セリカがわずかに剣の柄へ手をかける。リュミナの銀の瞳が冷える。リオは胸元の小瓶を指先で探った。


逃げるか。


いや、逃げれば村が疑われる。


名乗るか。


それも危険だ。グラントは夢の中で自分を殺そうとした。ここで顔を晒せば、彼は即座に別の手を使う。


リオが迷った、その時。


ミナが咳き込んだ。


激しい咳だった。薬草籠を落とし、膝をつく。周囲に乾いた草が散らばり、茶色い粉が雪の上へ広がった。


「ミナ!」


リオは反射的に彼女を支える。


ミナの手が、リオの袖を強く握った。


その指先には、緑色の粉がついている。


リオは匂いで理解した。


煙根草。


熱を加えると、数分間だけ強い薬草の匂いを放ち、周囲の嗅覚を鈍らせる草。薬草師が魔物除けに使うものだ。


ミナは倒れたふりをしながら、リオの小瓶の蓋を開けていた。


透明な媒体液が粉に触れる。


瞬間、広場に濃い薬草の匂いが広がった。


兵士たちが顔をしかめる。馬が鼻を鳴らす。グラントもわずかに眉を寄せた。


リオはその隙に声色を変え、咳混じりに言った。


「申し訳ありません、使者様。流行り病の者でして」


グラントが一歩下がった。


「病?」


ミナは震える手で板に書く。


――喉が腫れる病です。感染します。


兵士たちが露骨に後ずさった。


リュミナが小声で言う。


「これも嘘か?」


リオは小さく答える。


「人を救うための嘘です」


「匂いが薄い。嫌いではない」


グラントは目を細めてリオを見ていたが、煙根草の強い香りが邪魔をしているのか、確信までは至らないようだった。


「……その病人を、こちらへ」


「感染します」


リオは咳を重ねた。


「王都の兵士様にうつしては大変です」


セリカが間髪入れずに言った。


「病人の確認まで行うなら、王都に正式な医官を要請する。こちらにも記録を残すが、それでいいか」


グラントの笑みが硬くなった。


正式な医官。


記録。


彼にとって最も面倒なのは、事が公式に残ることだ。第二王子の私的な命令で動いている以上、余計な文書は避けたいはずだった。


リオはミナを支えながら、グラントの指輪を見る。


銀の表面に、小さな黒い石が嵌め込まれている。


魔狼の首輪と同じ石。


やはり彼が操っていた。


だが証拠がない。


匂いだけでは、王国法の前で人を裁けない。


「セリカ殿」


グラントは柔らかく言った。


「あなたは勘違いをしている。私は敵ではありません。むしろこの村を守るために来たのです」


リュミナがまた小さく笑った。


「すごいな。口から腐葉土が出ている」


リオは咳で笑いを隠した。


グラントは続ける。


「この地に眠る白竜は、危険な存在です。三十年前の災厄をお忘れか」


「忘れていない」


セリカの声が低くなる。


「だからこそ、王都の連中を信用しない」


「白竜が目覚めれば、村は焼ける」


「それは誰が決めた」


「歴史です」


「歴史を書いたのは誰だ」


グラントの目から、笑みが消えた。


その一瞬、広場の温度が下がったように感じた。


「あなたは、王国に反抗するつもりですか」


「私は村を守る」


「王国と村を分けて考えるのは危険です」


「村を踏みにじる王国なら、分けて考える必要がある」


兵士たちがざわめいた。


今の言葉は、かなり危うい。


リオはセリカの横顔を見た。彼女もそれを理解している。それでも言ったのだ。村人たちの前で、王都に怯えるだけではないと示すために。


グラントはゆっくりと手を上げた。


兵士たちが緊張する。


「やむを得ません。反逆の疑いにより、村長セリカ・アルヴァンを拘束します」


槍兵が前に出た。


その瞬間、リュミナが一歩踏み出そうとした。


リオは彼女の袖を掴む。


「まだです」


「なぜ止める。あの黒い者を噛めば済む」


「噛んだら竜だとばれます」


「人間の子どもも噛むだろう」


「噛みません」


「弱いな」


「文化の違いです」


リュミナは不満そうに唇を尖らせたが、止まった。


セリカは剣を抜かなかった。


「私を拘束すれば、この村の冬越しの指揮を誰が執る」


「王都より代官を派遣します」


「来るまでに三週間。食糧配分、魔物警戒、薬草管理、雪崩道の封鎖。代官が来る頃には何人死んでいるだろうな」


「脅しですか」


「現実だ」


「では、あなたが協力すればよい」


「竜祠には入れさせない」


グラントの白い手袋が、わずかに握られた。


リオは匂いを嗅ぐ。


焦り。


怒り。


だが、その奥に別の香りがある。


甘い眠り草。


グラントは何かを仕込んでいる。


リオが警告しようとした時、馬車の一台から小さな箱が運び出された。黒い木箱。蓋には王家の紋章。そして、古代文字で封印が施されている。


リュミナの顔色が変わった。


「リオ」


「わかっています」


箱から漂う匂いは、洞窟の楔と同じだった。


「封竜具です」


リオは呟いた。


「白竜を再び縛るための道具」


セリカもそれに気づいたのか、剣を抜いた。


「その箱を下ろせ」


グラントは微笑みを取り戻した。


「やはり、ご存じでしたか」


「何をするつもりだ」


「危険物を安全に管理するだけです」


「白竜は危険物ではない」


「では、何です?」


セリカは一瞬、言葉に詰まった。


村人たちも黙っている。


彼らにとって白竜は恐怖であり、祈りであり、災厄であり、守り神でもある。簡単な名前をつけられる存在ではない。


その沈黙の中で、リュミナが前に出た。


頭巾がずれ、白い髪がこぼれる。


リオが止めるより早く、彼女は広場の中央へ歩いていった。


小さな裸足が雪を踏む。


兵士たちが不審そうに見る。


グラントも目を向けた。


「その子どもは?」


リュミナは首を傾げた。


「子どもではない」


セリカが低く言う。


「リュミナ、下がれ」


その名を聞いた瞬間、グラントの目がわずかに開いた。


しまった、とリオは思った。


しかし遅い。


「リュミナ?」


グラントはゆっくりとその名を繰り返した。


「珍しい名ですね。まるで、古い竜の伝承に出てくる名のようだ」


リュミナは鼻を鳴らした。


「お前はひどく臭い」


広場が凍りついた。


兵士の一人が吹き出しそうになり、慌てて咳で隠す。セリカは目を閉じた。リオは頭を抱えたくなった。


グラントだけが笑っていなかった。


「臭い、ですか」


「嘘と血と焦げた髪の匂いだ。あと、古い恐怖。お前は誰かを怖がっている」


グラントの表情から完全に笑みが消えた。


「子どもの戯言にしては、不愉快ですね」


「子どもではないと言った」


「では、何だと言うのです」


リュミナは少し考えた。


そして、真顔で答えた。


「お腹の空いた者だ」


沈黙。


ミナが俯いて肩を震わせた。


リオは必死に咳をした。


グラントは苛立ちを押し殺すように息を吐く。


「その子をこちらへ。事情を聞きます」


「断る」


セリカが前に出る。


「村の子どもに手を出すな」


「村の子ども、ですか」


グラントの目がリュミナの銀色の瞳に留まる。


「白い髪。銀の目。妙な名前。ずいぶん都合のよい偶然だ」


リオは指先で小瓶を握った。


戦闘は避けられないかもしれない。


だが、こちらには村人がいる。兵士二十六人、魔術師二人、封竜具。リュミナは目覚めたばかりで、呪いも完全には抜けていない。真正面からぶつかれば、村に被害が出る。


必要なのは、時間。


相手の足を止め、正式な暴力に変わる前に、不正を暴くこと。


リオは煙根草の香りが薄れ始めているのを感じた。


グラントの鼻が、少しずつ自由を取り戻している。


その時、ミナがリオの袖を引いた。


板には短い文字。


――声、戻せる?


リオは彼女を見た。


「今?」


ミナは頷く。


――証言する。


リオは息を呑んだ。


彼女の声を奪ったのがグラントなら、声を戻せれば彼を告発できる。だが、人前で呪いを解くには集中がいる。失敗すれば、ミナの喉を傷つけるかもしれない。


リュミナがこちらを見た。


「やるなら、今だ」


「できますか」


「絡まっているだけだと言った。ただし、ほどく手はお前がやれ。私は噛み切るのが得意だ」


「噛み切らないでください」


「努力する」


不安しかない返事だった。


リオはミナの前に膝をついた。


グラントはまだリュミナとセリカを見ている。こちらへの注意は薄い。時間はわずか。


「ミナさん、喉を見せてください」


ミナは少し緊張した顔で頷いた。


リオは彼女の首元に指を近づける。皮膚には傷跡も痣もない。だが匂いはある。閉じ込められた歌。乾いた鎖。黒い石。白い手袋。


「やはり、声そのものを奪われたわけではありません」


彼は小声で言った。


「声を出そうとする記憶に、結び目を作られている」


ミナは不安そうに目を揺らした。


リオは微笑んだ。


「大丈夫。あなたの声は、まだここにあります」


彼は鞄から淡い緑の瓶を取り出した。


春先の若芽、蜂蜜、雪解け水、そして朝一番に鳴く小鳥の羽を浸した香り。喉の記憶を柔らかくするための調香だ。


さらに、リュミナが指先を噛んだ。


小さな血の珠が浮かぶ。


「竜の血は強い。少しでよい」


「本当に少しでお願いします」


「私は腹が空いている。血まで多く出したくない」


リオは瓶に竜血を一滴落とした。


緑の液体が銀色に光る。


その香りをミナの喉元へ近づけた瞬間、彼女の身体が震えた。目に涙が浮かぶ。声を出そうとして、出せなかった年月が一気に蘇っているのだ。


リオは囁く。


「最初に出したい言葉を、思い浮かべてください」


ミナは目を閉じた。


その匂いが、リオにも伝わる。


母の名。


もう死んだ母を呼ぶ声。


幼い頃、薬草畑で歌った歌。


セリカに助けを求めた夜。


グラントの白い手袋が喉へ触れた感触。


――見たことを話してはいけない。


――声など、辺境の娘には不要だ。


怒り。


悲しみ。


悔しさ。


そして、それでも消えなかった小さな火。


リオは結び目を見つけた。


黒い呪いの糸が、ミナの喉の奥に絡まっている。


リュミナがその糸へ顔を近づけるように、銀の瞳を細めた。


「そこだ」


「はい」


リオは小瓶の香りを強める。


「ミナさん、息を吸って」


ミナが息を吸う。


「吐く時に、声を押さえないで」


ミナの唇が震える。


喉が動く。


最初に出たのは、声ではなく、かすれた息だった。


グラントがこちらへ視線を向ける。


「何をしている」


リオは止めない。


ミナの喉から、細い音が漏れた。


「あ……」


広場が静まり返った。


セリカが振り返る。


少年が目を見開く。


ミナ自身も、自分の口から出た音に驚いていた。涙が頬を伝う。彼女は両手で喉を押さえ、もう一度息を吸った。


リオは言う。


「大丈夫。続けて」


ミナはグラントを見た。


その目に、もう怯えはなかった。


「……あ、なた」


声は小さく、かすれていた。


けれど確かに、広場に響いた。


「あなたが……私の声を……奪った」


グラントの顔色が変わった。


「何を馬鹿な」


ミナは一歩前へ出た。


「去年の初雪の日……祠で、あなたを見た。黒い箱を持っていた。眠り草の瓶を取り替えていた。私が声を出そうとしたら……あなたが、私の喉に触れた」


村人たちがざわめく。


セリカの目が怒りに燃える。


「グラント。これはどういうことだ」


グラントはすぐに表情を整えた。


「その娘は混乱しています。長く声を失っていた者が、突然正常な証言をできるとは思えない」


「正常かどうかは、私が判断する」


「あなたにその権限はありません」


「この村ではある」


「だから辺境は困る」


グラントの声から、柔らかさが消えた。


「感情と迷信で法を歪める。竜などという古い怪物を祀り、王国の秩序を軽んじる」


リュミナが前に出る。


「怪物とは私のことか」


グラントは彼女を見た。


そして、微笑んだ。


今度の笑みは隠していなかった。


「やはり、そうか」


黒い箱の封印が、ひとりでに剥がれ始める。


セリカが叫ぶ。


「全員下がれ!」


箱の蓋が開いた。


中から現れたのは、黒い鎖だった。


ただの鎖ではない。ひとつひとつの環に古代文字が刻まれ、内側に眠り草の花粉が詰められている。鎖は生き物のようにうねり、リュミナへ向かって飛び出した。


リオは瓶を投げた。


青い眠りの香りが広がる。


だが鎖は眠らない。


無機物でありながら、命令だけで動いている。


セリカが剣を振るう。鎖の一本を弾く。火花が散る。右腕が痛みに震えるが、彼女は踏みとどまった。


「リュミナ、洞窟へ戻れ!」


「嫌だ」


白竜の少女は、逃げなかった。


鎖が彼女の腕に絡みつく。


ジュッ、と焼ける音がした。


リュミナの顔が苦痛に歪む。額の楔の欠片が黒く光り、眠り草の匂いが一気に濃くなる。


「っ……まだ、残っている……」


「リュミナ様!」


リオが駆け寄ろうとした瞬間、兵士たちが動いた。


槍が村人たちへ向けられる。


「抵抗するな!」


「白竜信仰の証拠を確保する!」


「村長を拘束しろ!」


広場は混乱に包まれた。


少年が矢を放ち、兵士の足元に突き刺す。村の老人たちが鍬を構える。女性たちは子どもを家へ押し込む。ミナは声を取り戻したばかりの喉で、必死に叫んだ。


「みんな、下がって!」


その声はまだ弱い。


けれど、村人たちは聞いた。


声を失った少女が取り戻した最初の叫び。それだけで、村の空気が変わった。


怯えだけではない。


怒りと、守ろうとする意志の匂いが立ち上がる。


グラントは舌打ちした。


「愚かな。ならば全員、反逆者として処理する」


彼の指輪が黒く光る。


森の方から、遠吠えが響いた。


リオの背筋に悪寒が走る。


魔狼。


眠らせたはずの七匹とは別の群れだ。グラントは兵士だけでなく、魔物も待機させていた。


「村を内側と外側から挟むつもりか」


リオは奥歯を噛んだ。


こちらの戦力は少ない。セリカ、目覚めたばかりのリュミナ、声を取り戻したばかりのミナ、そして村人たち。正面から戦えば、勝てない。


なら、戦場の匂いを変える。


リオは広場の中央へ走った。


雪の上に鞄をひっくり返す。


小瓶が散らばる。


青、緑、琥珀、紫、透明。香りの記憶たち。


セリカが叫ぶ。


「リオ、何をする!」


「村全体に香りを流します!」


「何の香りだ!」


「味方には勇気を、敵には後悔を!」


「具体的に言え!」


「説明している暇がありません!」


リオは透明な媒体液を三本、雪の上に叩きつけた。


霧が立ち上がる。


そこへ琥珀の瓶を割る。


魔狼たちには森の記憶を。兵士たちには故郷の記憶を。槍を持つ手が、自分の守るべきものを思い出すように。


さらに、王妃のハンカチを浸した紫の香りを一滴だけ加える。


祈り。


守るための匂い。


風が吹いた。


村の広場を、香りが駆け抜ける。


最初に変わったのは、兵士たちだった。


槍を構えていた若い兵士の手が止まる。彼の鼻に届いたのは、遠い南の麦畑の匂いだった。母の焼いたパン、弟の笑い声、徴兵の日に渡された古いお守り。


別の兵士は、雪国の小さな家を思い出す。妹の髪を結ってやった朝。父の咳。自分が剣を握った理由。


リオは叫んだ。


「あなたたちは、本当にこの村を焼くために兵士になったのですか!」


声は大きくなかった。


だが香りが、それを届けた。


「命令した者の顔を見てください! 彼は村人を守ろうとしていますか! それとも、証拠を消そうとしていますか!」


兵士たちの目がグラントへ向く。


グラントは怒鳴った。


「惑わされるな! それは香りによる精神干渉だ!」


「そうです!」


リオは即座に認めた。


兵士たちが驚く。


「けれど、僕が見せているのは命令ではありません。あなたたち自身の記憶です。誰を守りたかったのか、何のために剣を持ったのか。それを思い出しているだけです!」


グラントの指輪がさらに黒く光る。


「黙れ、追放者!」


その言葉で、広場の視線がリオへ集まった。


帽子が風で飛ぶ。


リオ・クラウゼンの顔が露わになる。


王都から追放された宮廷調香師。


グラントは唇を歪めた。


「やはり生きていたか、リオ。無能な香水作りが」


リオは静かに息を吸った。


王都では、その言葉に何度も傷ついた。


無能。


香水売り。


花の汁を混ぜるだけの男。


だが今、彼の背後には村がある。セリカがいる。ミナがいる。リュミナがいる。眠りから醒めかけた魔狼たちが、森の記憶に鼻を鳴らしている。


だから、もう同じようには響かなかった。


「香りは残ります」


リオは言った。


「あなたが隠したものも、奪った声も、書き換えた歴史も」


彼はグラントの指輪を指さした。


「その指輪から、魔狼の首輪と同じ匂いがします。ミナさんの喉に残っていた呪いとも同じ。白竜の楔とも同じです」


「匂いが証拠になるとでも?」


「今からなります」


リオはミナへ視線を送った。


ミナは頷く。


彼女は震える声で、しかしはっきりと言った。


「私は、証言します。グラントが祠に封竜具を置いた。眠り草を増やした。私の声を奪った」


セリカが続く。


「私は元王都騎士として証言する。三年前の討伐命令は虚偽だった。白竜は暴走していなかった。楔に触れた討伐隊が呪いで壊滅した」


リュミナが鎖に縛られたまま、銀の瞳を上げた。


「私はリュミナ。この谷の契約竜として証言する。王家との契約は書き換えられた。王子エルヴィンの手で」


グラントの顔が歪む。


「竜の証言など、法廷で認められるものか!」


「法廷まで持っていければ十分です」


リオは言った。


「あなたはそれを恐れている。だから今日、ここで村を潰しに来た」


兵士たちの動揺が広がる。


槍が少しずつ下がる。


グラントはそれを見て、低く笑った。


「甘いな、リオ」


彼は銀の指輪を外した。


その内側から、黒い針が現れる。


「証言者は、生きていなければ証言できない」


グラントが針を自分の掌へ突き刺した。


血が流れる。


だが赤くない。


黒い血だった。


リュミナが叫ぶ。


「離れろ!」


遅かった。


グラントの足元から黒い蔦が爆発するように広がった。兵士も村人も関係なく、広場の雪を突き破り、家々の壁を這い、空へ伸びる。


その匂いは、楔そのものだった。


眠れ。


忘れろ。


怒れ。


焼け。


リオは理解した。


グラントはただの操り手ではない。


楔の一部を、自分の身体に埋め込んでいる。


「第二王子のために、そこまで……」


リオが呟くと、グラントは笑った。


「殿下は王になる。優しさに腐った王国を、恐怖で一つにまとめる。そのために白竜が必要だ。国境を焼き、反抗する貴族を焼き、民に空を見上げるたび王家を思い出させる」


「そのために、リュミナ様を兵器にするのですか」


「竜とは本来、兵器だ」


「違う」


リュミナの声が響いた。


小さな少女の喉から出たとは思えないほど、深く、古い声だった。


「竜は、覚えている者だ」


彼女の白い髪が浮き上がる。


腕に絡んだ鎖が軋む。


「山の名を。川の曲がり方を。最初に火を灯した人間の手を。約束を。裏切りを。それでも、もう一度信じたいと思った愚かさを」


銀の瞳が光る。


「私は兵器ではない。リューネの守り手だ」


鎖が一本、砕けた。


だが同時に、額の黒い欠片が強く輝く。


リュミナの身体が傾いた。


「まだ呪いが……」


リオは走った。


黒い蔦が足に絡む。痛みが走る。だが止まらない。


彼はリュミナの前に膝をつき、額の欠片へ手を伸ばした。


「今度こそ、外します」


セリカが叫ぶ。


「できるのか!」


「やります!」


「できるかと聞いた!」


リオは一瞬だけ笑った。


「成功したら、できたことになります!」


「馬鹿者!」


セリカの怒鳴り声を背に、リオは最後の小瓶を取り出した。


中に入っているのは、まだ完成していない香りだった。


王妃の祈り。


リュミナの涙。


セリカの呪いを鎮めた青。


ミナの声を戻した緑。


魔狼に森を思い出させた琥珀。


そして、リオ自身の追放の雪。


すべてを混ぜれば、何が起こるか分からない。調香としては荒すぎる。宮廷の師匠なら、瓶ごと窓から投げ捨てただろう。


だが、今必要なのは完璧な香りではない。


目覚めるための香りだ。


リオは瓶を砕き、欠片に液を垂らした。


瞬間、広場に白い香りが広がった。


誰も嗅いだことのない香り。


雪の冷たさと、焼きたてのパンの温かさ。竜の星の匂いと、人間の小さな台所の匂い。戦場の血と、それを洗う涙。嘘を暴く鋭さと、傷を包む柔らかさ。


グラントが顔を歪める。


「やめろ!」


黒い蔦がリオの背中を貫こうと伸びる。


その前に、セリカが立ちはだかった。


剣が蔦を断つ。


右腕から血が滲む。呪いが再び浮かび上がる。それでも彼女は退かない。


「リオ!」


ミナの声。


彼女が薬草籠から瓶を投げる。


リオは受け取らず、匂いだけで中身を理解した。


雪割草。


凍った土を割って咲く花。


希望の香り。


「ありがとうございます!」


リオはそれも加えた。


額の黒い欠片に、ひびが入る。


リュミナが悲鳴を上げた。


いや、悲鳴ではない。


竜の咆哮だった。


小さな少女の身体から白い光が溢れ、広場を包み込む。封竜具の鎖が次々と砕ける。黒い蔦が焼けるように萎れていく。


グラントが後ずさった。


「ありえない……楔は王家の血で作られた封印だぞ」


リュミナが顔を上げる。


額の欠片は、もうない。


代わりに、そこには小さな白い花の紋様が浮かんでいた。


「王家の血より古いものがある」


彼女は言った。


「約束だ」


その瞬間、白い光が空へ昇った。


村の上に、竜の影が広がる。


完全な竜身ではない。リュミナの力はまだ戻りきっていない。それでも、雪雲の切れ間に浮かんだ白竜の幻影は、兵士たちを膝から崩れ落ちさせるには十分だった。


魔狼たちは森の入口で足を止めた。


赤い目が揺れ、やがて一匹、また一匹と伏せていく。リオの琥珀の香りとリュミナの目覚めが、彼らに支配ではない眠りを与えていた。


グラントだけが立っていた。


黒い血を流しながら、彼はリオを睨む。


「これで終わったと思うな。エルヴィン殿下は、すでに王都を掌握しつつある。国王は目覚めない。王妃の派閥は消えた。辺境の小村が何を叫ぼうと、誰も聞かない」


「聞かせます」


リオは言った。


「香りは風に乗りますから」


グラントは笑った。


「詩人気取りか」


「調香師です」


その時、グラントの背後で槍が交差した。


王都兵たちだった。


若い隊長が、青ざめた顔で言う。


「王室典礼官グラント殿。あなたを、王国法に基づき拘束します」


グラントは目を剥いた。


「貴様、自分が何をしているか分かっているのか!」


「分かりません」


隊長は震えながらも、槍を下げなかった。


「ですが、村人を殺せという命令が正しいとは思えません」


別の兵士が続く。


「魔物を操る指輪を見ました」


「封竜具も、正式な運搬記録がない」


「このまま帰れば、我々も口封じされる」


兵士たちの匂いは恐怖に満ちていた。


だが、その恐怖はもう村人へ向いていない。グラントと、その背後にいる王子へ向いていた。


グラントは歯を食いしばった。


「下賤どもが……」


黒い蔦が再び伸びようとする。


しかし、その前にリュミナが指を鳴らした。


白い霜がグラントの足元を覆う。


蔦は凍りつき、砕けた。


「うるさい」


リュミナは眠たげに言った。


「私はお腹が空いている」


リオは思わず脱力した。


セリカがグラントの腕を縛り上げる。ミナは村人たちと共に負傷者を見て回り、少年は得意げに魔狼の数を数えていた。兵士たちは武器を下ろし、数人は村人へ頭を下げている。


広場の緊張は、完全には解けていない。


だが、最悪の火は消えた。


リオは雪の上に座り込んだ。


全身が重い。鼻の奥が焼けるように痛む。短時間に強い香りを使いすぎた。しばらくは匂いの判別が鈍るかもしれない。


それでも、彼は空を見上げた。


雪雲の隙間から、青空が覗いていた。


王都ではほとんど見たことのない、深く澄んだ青。


「リオ」


セリカが近づいてくる。


彼女の右腕からは血が滴っていたが、表情は穏やかだった。


「生きているか」


「たぶん」


「たぶんで返事をするな」


「では、生きています」


「よし」


彼女は短く頷き、それから少しだけ視線を逸らした。


「助かった」


リオは笑った。


「こちらこそ。蔦を斬っていただかなければ串刺しでした」


「なら貸し借りなしだ」


「そうですね」


「いや、やはり貸しだ」


「どちらですか」


「村を巻き込んだ分、お前の借りだ」


「理不尽では?」


「辺境の村長は理不尽でなければ務まらん」


ミナがそこへ駆け寄ってきた。


「リオさん」


自分の声で名を呼べたことに、彼女自身が少し驚いたようだった。頬が赤くなる。


「声、ありがとうございます」


リオは首を横に振った。


「あなたの声です。僕は扉を開けただけです」


ミナは微笑んだ。


その笑みには、もう閉じ込められた歌の匂いはない。


代わりに、春先の薬草畑の香りがした。


リュミナが三人のそばに来た。


「終わったなら、肉だ」


セリカが即答する。


「ない」


「ある匂いがする」


「それは冬越し用の干し肉だ」


「私は三十年越しだ」


「張り合うな」


リオは笑いながら立ち上がろうとした。


だが、その時、胸元の小瓶が熱を帯びた。


王妃のハンカチを入れた小瓶。


リオは息を止め、取り出す。


薄紫の布が、淡く光っていた。


ありえない。


これはただの布だ。王妃が残した香りを留めるために保存していたもの。自ら光るはずがない。


リュミナの表情が変わった。


「その香り……まだ奥がある」


「奥?」


「夢の底に、封じられていた言葉だ」


小瓶の中で、布がほどける。


刺繍の糸が動き、文字を形作っていく。


リオは震える手で、それを読み取った。


――リオへ。


――もしあなたがリューネに辿り着き、白竜リュミナを目覚めさせたなら、王都へ戻ってはいけません。


リオの心臓が、冷たく跳ねた。


続きの文字が浮かぶ。


――国王を眠らせているのは、エルヴィンではありません。


セリカが眉をひそめる。


「どういう意味だ」


リオは続きを読んだ。


――真に王を縛っている者は、王家の血の中にいます。


――王都の地下、初代王の霊廟に、香りを喰うものが眠っています。


その瞬間、遠く王都の方角から、風が吹いた。


雪の匂いではない。


鉄でも、眠り草でもない。


何も匂わない風。


完全な無臭。


リオは初めて、そのことに恐怖した。


匂いがない。


つまり、記憶がない。


存在しているのに、世界に何も残していないもの。


リュミナが低く唸る。


「古いな。私より古い」


グラントが縛られたまま、狂ったように笑い出した。


「そうだ……そうだ、もう遅い。殿下も、我々も、ただの扉だ。王都の下で目覚めるものに比べれば、白竜など小鳥にすぎない」


リオは小瓶を握りしめた。


王妃の最後の文字が、布に浮かぶ。


――香りを信じて。


――忘れられたものだけが、世界を救います。


文字はそこで消えた。


広場に、誰も言葉を発しなかった。


勝利の後に訪れたのは、安堵ではなかった。


もっと深い闇の入口だった。


セリカが剣を鞘に収める。


「リオ」


「はい」


「王都へ戻るな、と書いてあったな」


「はい」


「どうする」


リオは王都の方角を見た。


鉄と嘘と香水に満ちた場所。


彼を追放した場所。


王妃が死に、国王が眠り、誰かが世界から香りを奪おうとしている場所。


怖くないと言えば嘘になる。


だが、香りは残る。


王妃の祈りも、リュミナの涙も、ミナの声も、セリカの剣も。


残ったものを辿るのが、調香師の仕事だ。


「戻るなと言われると、困りますね」


リオは静かに言った。


「僕は昔から、師匠に言いつけを守らないと叱られていました」


セリカが呆れたように笑う。


ミナが不安そうに、けれど強い目で頷く。


リュミナは腕を組んだ。


「王都へ行くなら、まず肉を食べてからだ」


リオは笑った。


「では、食事の後で考えましょう」


空の青は、少しずつ雲に隠れていく。


王都から吹く無臭の風が、村の端で雪を巻き上げた。


リオはその風に向かって、小さく息を吸う。


何も匂わない。


だからこそ、そこには必ず何かが隠されている。


追放された宮廷調香師の物語は、辺境の村で終わらなかった。


むしろここから、王国の記憶そのものをめぐる旅が始まろうとしていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ