第四話 王都の使者は白い嘘をまとう
村の広場には、雪より白い沈黙が降りていた。
王都から来た馬車は三台。黒塗りの車体には金の縁取りが施され、扉には王家の紋章が輝いている。村の泥と雪にまみれた道の上で、それはひどく不自然だった。まるで死体の上に宝石を置いたような、不吉な華やかさがある。
馬車の周りには兵士が二十六人。
リオは家屋の影から、その数を数えた。槍兵が十、弓兵が六、剣を帯びた近衛兵が八。残り二人は魔術師だ。杖に巻かれた赤い布から、宮廷魔術師団の末席とわかる。
だが、最も強い匂いを放っているのは、中央の男だった。
黒い外套。白い手袋。銀の指輪。
王室典礼官、グラント・ローヴェル。
宮廷では礼儀作法と儀典を司る穏やかな男として知られていた。王族の登場順、晩餐会の席次、外国使節への挨拶文。そうした瑣末で美しい規則に囲まれ、誰よりも丁寧に微笑む男。
だが今、リオの鼻には別のものが届いている。
焼けた髪。黒鉄。眠り草。血で湿った羊皮紙。
夢の中で嗅いだ匂いと同じだった。
「リューネ村村長、セリカ・アルヴァン殿」
グラントの声は、柔らかかった。
雪に落ちる羽のように軽く、聞く者の警戒心を撫でる声。だがリオには、その声の下に隠された細い刃が匂った。
「王都より、正式な監察命令を携えて参りました。近頃この地にて魔物の異常発生が確認され、また古竜信仰に類する不穏な噂もございます。王国の安全のため、村内および竜祠の調査を行います」
広場に集められた村人たちは、誰も答えない。
彼らは知っている。王都の使者が来るたび、何かを奪われることを。薬草、食糧、若者、声、眠り。そして今回は、もっと大きなものを奪いに来たのだと、本能で感じている。
セリカは村人たちの前に立っていた。
古い騎士鎧の上に外套を羽織り、腰には剣。右腕には包帯を巻いている。リオの香油のおかげで指は動くようになっていたが、まだ完全ではない。それでも彼女の立ち姿には、兵士たちの視線を押し返すだけの重さがあった。
「監察命令状を見せろ」
グラントは微笑んだ。
「もちろんです」
白い手袋の指が、一枚の羊皮紙を差し出す。
セリカはそれを受け取り、目を通した。
一瞬、眉が動く。
リオはその反応を見逃さなかった。
「何が書かれていますか」
彼は声を潜めて隣のミナに尋ねた。
ミナはリオの横で、薬草籠を抱えていた。リュミナはその少し後ろにいる。白い髪を頭巾で隠し、村の子どもの古着を着せられていたが、銀色の瞳だけは隠しきれない。本人は不満そうだった。
「布がちくちくする」
「我慢してください」
「竜に布を着せる文化は愚かだ」
「裸足で雪を歩く文化も人間には難しいです」
リュミナはむっとしたが、それ以上は言わなかった。代わりに鼻を小さく動かしている。嘘の匂いを嗅いでいるのだろう。
ミナは板に素早く文字を書いた。
――竜祠の封鎖。村長の拘束権限。抵抗者は反逆罪。
リオは息を止めた。
監察ではない。
制圧だ。
「命令状には第二王子殿下の署名がございます」
グラントはよく通る声で言った。
「国王陛下はご病気により政務を執れぬ状態。よって王国の安寧を守るため、殿下が摂政代理として緊急権限を行使されました」
村人たちがざわめく。
国王が病気。
その言葉は辺境の村にも重く響く。王は遠い存在だが、王国という屋根の名でもある。その屋根が傾けば、雪は容赦なく降り込んでくる。
セリカは羊皮紙を返さなかった。
「この命令状は無効だ」
グラントの微笑みが、ほんの少し深くなる。
「理由を伺っても?」
「摂政代理などという役職は王国法にない。国王の署名も、大臣会議の印もない。第二王子の私印だけで辺境の村を封鎖する権限は存在しない」
兵士たちの間に小さな動揺が走った。
グラントの目が細くなる。
「さすが元王都騎士。法律にも明るい」
「騎士は命令だけで剣を振るわない。少なくとも、まともな騎士はな」
セリカの声には棘があった。
グラントは肩をすくめた。
「では、別の言い方をしましょう。魔物の発生源がこの村にある疑いが濃厚です。王都への報告によれば、竜祠から不浄な魔力が観測された。もし調査を拒むなら、村全体が魔物災害の共犯と見なされる可能性がある」
「報告したのは誰だ」
「王都の観測官です」
「名前は?」
「機密です」
「便利な言葉だ」
セリカが羊皮紙を雪の上へ落とした。
「この村は調査を拒む。正当な命令状を持って出直せ」
その瞬間、槍兵たちが一斉に槍を構えた。
村人たちが後ずさる。
少年が弓へ手を伸ばしたが、セリカが視線だけで止めた。ここで矢を放てば、それこそ反逆の口実になる。
グラントはため息をついた。
「残念です。私は穏便に済ませたかった」
その言葉に、リュミナが小さく笑った。
リオは横目で彼女を見る。
「何か?」
「今のは、よく腐った嘘だ」
「声が大きいです」
「嘘が大きい」
グラントの視線がこちらへ向いた。
リオはすぐに頭を下げ、ミナの影へ身を隠す。外套の襟を上げ、髪も帽子で覆っている。追放された宮廷調香師がここにいると知られれば、話はさらに面倒になる。
だが、グラントの目は鋭かった。
「そちらの者」
兵士が一歩近づく。
「顔を上げなさい」
リオは動かなかった。
ミナが前に出た。彼女は声を出せないまま、板を掲げる。
――村の薬草師です。病人がいます。
「あなたではない」
グラントの白い手袋が、リオを指す。
「その後ろの男です」
空気が張り詰めた。
セリカがわずかに剣の柄へ手をかける。リュミナの銀の瞳が冷える。リオは胸元の小瓶を指先で探った。
逃げるか。
いや、逃げれば村が疑われる。
名乗るか。
それも危険だ。グラントは夢の中で自分を殺そうとした。ここで顔を晒せば、彼は即座に別の手を使う。
リオが迷った、その時。
ミナが咳き込んだ。
激しい咳だった。薬草籠を落とし、膝をつく。周囲に乾いた草が散らばり、茶色い粉が雪の上へ広がった。
「ミナ!」
リオは反射的に彼女を支える。
ミナの手が、リオの袖を強く握った。
その指先には、緑色の粉がついている。
リオは匂いで理解した。
煙根草。
熱を加えると、数分間だけ強い薬草の匂いを放ち、周囲の嗅覚を鈍らせる草。薬草師が魔物除けに使うものだ。
ミナは倒れたふりをしながら、リオの小瓶の蓋を開けていた。
透明な媒体液が粉に触れる。
瞬間、広場に濃い薬草の匂いが広がった。
兵士たちが顔をしかめる。馬が鼻を鳴らす。グラントもわずかに眉を寄せた。
リオはその隙に声色を変え、咳混じりに言った。
「申し訳ありません、使者様。流行り病の者でして」
グラントが一歩下がった。
「病?」
ミナは震える手で板に書く。
――喉が腫れる病です。感染します。
兵士たちが露骨に後ずさった。
リュミナが小声で言う。
「これも嘘か?」
リオは小さく答える。
「人を救うための嘘です」
「匂いが薄い。嫌いではない」
グラントは目を細めてリオを見ていたが、煙根草の強い香りが邪魔をしているのか、確信までは至らないようだった。
「……その病人を、こちらへ」
「感染します」
リオは咳を重ねた。
「王都の兵士様にうつしては大変です」
セリカが間髪入れずに言った。
「病人の確認まで行うなら、王都に正式な医官を要請する。こちらにも記録を残すが、それでいいか」
グラントの笑みが硬くなった。
正式な医官。
記録。
彼にとって最も面倒なのは、事が公式に残ることだ。第二王子の私的な命令で動いている以上、余計な文書は避けたいはずだった。
リオはミナを支えながら、グラントの指輪を見る。
銀の表面に、小さな黒い石が嵌め込まれている。
魔狼の首輪と同じ石。
やはり彼が操っていた。
だが証拠がない。
匂いだけでは、王国法の前で人を裁けない。
「セリカ殿」
グラントは柔らかく言った。
「あなたは勘違いをしている。私は敵ではありません。むしろこの村を守るために来たのです」
リュミナがまた小さく笑った。
「すごいな。口から腐葉土が出ている」
リオは咳で笑いを隠した。
グラントは続ける。
「この地に眠る白竜は、危険な存在です。三十年前の災厄をお忘れか」
「忘れていない」
セリカの声が低くなる。
「だからこそ、王都の連中を信用しない」
「白竜が目覚めれば、村は焼ける」
「それは誰が決めた」
「歴史です」
「歴史を書いたのは誰だ」
グラントの目から、笑みが消えた。
その一瞬、広場の温度が下がったように感じた。
「あなたは、王国に反抗するつもりですか」
「私は村を守る」
「王国と村を分けて考えるのは危険です」
「村を踏みにじる王国なら、分けて考える必要がある」
兵士たちがざわめいた。
今の言葉は、かなり危うい。
リオはセリカの横顔を見た。彼女もそれを理解している。それでも言ったのだ。村人たちの前で、王都に怯えるだけではないと示すために。
グラントはゆっくりと手を上げた。
兵士たちが緊張する。
「やむを得ません。反逆の疑いにより、村長セリカ・アルヴァンを拘束します」
槍兵が前に出た。
その瞬間、リュミナが一歩踏み出そうとした。
リオは彼女の袖を掴む。
「まだです」
「なぜ止める。あの黒い者を噛めば済む」
「噛んだら竜だとばれます」
「人間の子どもも噛むだろう」
「噛みません」
「弱いな」
「文化の違いです」
リュミナは不満そうに唇を尖らせたが、止まった。
セリカは剣を抜かなかった。
「私を拘束すれば、この村の冬越しの指揮を誰が執る」
「王都より代官を派遣します」
「来るまでに三週間。食糧配分、魔物警戒、薬草管理、雪崩道の封鎖。代官が来る頃には何人死んでいるだろうな」
「脅しですか」
「現実だ」
「では、あなたが協力すればよい」
「竜祠には入れさせない」
グラントの白い手袋が、わずかに握られた。
リオは匂いを嗅ぐ。
焦り。
怒り。
だが、その奥に別の香りがある。
甘い眠り草。
グラントは何かを仕込んでいる。
リオが警告しようとした時、馬車の一台から小さな箱が運び出された。黒い木箱。蓋には王家の紋章。そして、古代文字で封印が施されている。
リュミナの顔色が変わった。
「リオ」
「わかっています」
箱から漂う匂いは、洞窟の楔と同じだった。
「封竜具です」
リオは呟いた。
「白竜を再び縛るための道具」
セリカもそれに気づいたのか、剣を抜いた。
「その箱を下ろせ」
グラントは微笑みを取り戻した。
「やはり、ご存じでしたか」
「何をするつもりだ」
「危険物を安全に管理するだけです」
「白竜は危険物ではない」
「では、何です?」
セリカは一瞬、言葉に詰まった。
村人たちも黙っている。
彼らにとって白竜は恐怖であり、祈りであり、災厄であり、守り神でもある。簡単な名前をつけられる存在ではない。
その沈黙の中で、リュミナが前に出た。
頭巾がずれ、白い髪がこぼれる。
リオが止めるより早く、彼女は広場の中央へ歩いていった。
小さな裸足が雪を踏む。
兵士たちが不審そうに見る。
グラントも目を向けた。
「その子どもは?」
リュミナは首を傾げた。
「子どもではない」
セリカが低く言う。
「リュミナ、下がれ」
その名を聞いた瞬間、グラントの目がわずかに開いた。
しまった、とリオは思った。
しかし遅い。
「リュミナ?」
グラントはゆっくりとその名を繰り返した。
「珍しい名ですね。まるで、古い竜の伝承に出てくる名のようだ」
リュミナは鼻を鳴らした。
「お前はひどく臭い」
広場が凍りついた。
兵士の一人が吹き出しそうになり、慌てて咳で隠す。セリカは目を閉じた。リオは頭を抱えたくなった。
グラントだけが笑っていなかった。
「臭い、ですか」
「嘘と血と焦げた髪の匂いだ。あと、古い恐怖。お前は誰かを怖がっている」
グラントの表情から完全に笑みが消えた。
「子どもの戯言にしては、不愉快ですね」
「子どもではないと言った」
「では、何だと言うのです」
リュミナは少し考えた。
そして、真顔で答えた。
「お腹の空いた者だ」
沈黙。
ミナが俯いて肩を震わせた。
リオは必死に咳をした。
グラントは苛立ちを押し殺すように息を吐く。
「その子をこちらへ。事情を聞きます」
「断る」
セリカが前に出る。
「村の子どもに手を出すな」
「村の子ども、ですか」
グラントの目がリュミナの銀色の瞳に留まる。
「白い髪。銀の目。妙な名前。ずいぶん都合のよい偶然だ」
リオは指先で小瓶を握った。
戦闘は避けられないかもしれない。
だが、こちらには村人がいる。兵士二十六人、魔術師二人、封竜具。リュミナは目覚めたばかりで、呪いも完全には抜けていない。真正面からぶつかれば、村に被害が出る。
必要なのは、時間。
相手の足を止め、正式な暴力に変わる前に、不正を暴くこと。
リオは煙根草の香りが薄れ始めているのを感じた。
グラントの鼻が、少しずつ自由を取り戻している。
その時、ミナがリオの袖を引いた。
板には短い文字。
――声、戻せる?
リオは彼女を見た。
「今?」
ミナは頷く。
――証言する。
リオは息を呑んだ。
彼女の声を奪ったのがグラントなら、声を戻せれば彼を告発できる。だが、人前で呪いを解くには集中がいる。失敗すれば、ミナの喉を傷つけるかもしれない。
リュミナがこちらを見た。
「やるなら、今だ」
「できますか」
「絡まっているだけだと言った。ただし、ほどく手はお前がやれ。私は噛み切るのが得意だ」
「噛み切らないでください」
「努力する」
不安しかない返事だった。
リオはミナの前に膝をついた。
グラントはまだリュミナとセリカを見ている。こちらへの注意は薄い。時間はわずか。
「ミナさん、喉を見せてください」
ミナは少し緊張した顔で頷いた。
リオは彼女の首元に指を近づける。皮膚には傷跡も痣もない。だが匂いはある。閉じ込められた歌。乾いた鎖。黒い石。白い手袋。
「やはり、声そのものを奪われたわけではありません」
彼は小声で言った。
「声を出そうとする記憶に、結び目を作られている」
ミナは不安そうに目を揺らした。
リオは微笑んだ。
「大丈夫。あなたの声は、まだここにあります」
彼は鞄から淡い緑の瓶を取り出した。
春先の若芽、蜂蜜、雪解け水、そして朝一番に鳴く小鳥の羽を浸した香り。喉の記憶を柔らかくするための調香だ。
さらに、リュミナが指先を噛んだ。
小さな血の珠が浮かぶ。
「竜の血は強い。少しでよい」
「本当に少しでお願いします」
「私は腹が空いている。血まで多く出したくない」
リオは瓶に竜血を一滴落とした。
緑の液体が銀色に光る。
その香りをミナの喉元へ近づけた瞬間、彼女の身体が震えた。目に涙が浮かぶ。声を出そうとして、出せなかった年月が一気に蘇っているのだ。
リオは囁く。
「最初に出したい言葉を、思い浮かべてください」
ミナは目を閉じた。
その匂いが、リオにも伝わる。
母の名。
もう死んだ母を呼ぶ声。
幼い頃、薬草畑で歌った歌。
セリカに助けを求めた夜。
グラントの白い手袋が喉へ触れた感触。
――見たことを話してはいけない。
――声など、辺境の娘には不要だ。
怒り。
悲しみ。
悔しさ。
そして、それでも消えなかった小さな火。
リオは結び目を見つけた。
黒い呪いの糸が、ミナの喉の奥に絡まっている。
リュミナがその糸へ顔を近づけるように、銀の瞳を細めた。
「そこだ」
「はい」
リオは小瓶の香りを強める。
「ミナさん、息を吸って」
ミナが息を吸う。
「吐く時に、声を押さえないで」
ミナの唇が震える。
喉が動く。
最初に出たのは、声ではなく、かすれた息だった。
グラントがこちらへ視線を向ける。
「何をしている」
リオは止めない。
ミナの喉から、細い音が漏れた。
「あ……」
広場が静まり返った。
セリカが振り返る。
少年が目を見開く。
ミナ自身も、自分の口から出た音に驚いていた。涙が頬を伝う。彼女は両手で喉を押さえ、もう一度息を吸った。
リオは言う。
「大丈夫。続けて」
ミナはグラントを見た。
その目に、もう怯えはなかった。
「……あ、なた」
声は小さく、かすれていた。
けれど確かに、広場に響いた。
「あなたが……私の声を……奪った」
グラントの顔色が変わった。
「何を馬鹿な」
ミナは一歩前へ出た。
「去年の初雪の日……祠で、あなたを見た。黒い箱を持っていた。眠り草の瓶を取り替えていた。私が声を出そうとしたら……あなたが、私の喉に触れた」
村人たちがざわめく。
セリカの目が怒りに燃える。
「グラント。これはどういうことだ」
グラントはすぐに表情を整えた。
「その娘は混乱しています。長く声を失っていた者が、突然正常な証言をできるとは思えない」
「正常かどうかは、私が判断する」
「あなたにその権限はありません」
「この村ではある」
「だから辺境は困る」
グラントの声から、柔らかさが消えた。
「感情と迷信で法を歪める。竜などという古い怪物を祀り、王国の秩序を軽んじる」
リュミナが前に出る。
「怪物とは私のことか」
グラントは彼女を見た。
そして、微笑んだ。
今度の笑みは隠していなかった。
「やはり、そうか」
黒い箱の封印が、ひとりでに剥がれ始める。
セリカが叫ぶ。
「全員下がれ!」
箱の蓋が開いた。
中から現れたのは、黒い鎖だった。
ただの鎖ではない。ひとつひとつの環に古代文字が刻まれ、内側に眠り草の花粉が詰められている。鎖は生き物のようにうねり、リュミナへ向かって飛び出した。
リオは瓶を投げた。
青い眠りの香りが広がる。
だが鎖は眠らない。
無機物でありながら、命令だけで動いている。
セリカが剣を振るう。鎖の一本を弾く。火花が散る。右腕が痛みに震えるが、彼女は踏みとどまった。
「リュミナ、洞窟へ戻れ!」
「嫌だ」
白竜の少女は、逃げなかった。
鎖が彼女の腕に絡みつく。
ジュッ、と焼ける音がした。
リュミナの顔が苦痛に歪む。額の楔の欠片が黒く光り、眠り草の匂いが一気に濃くなる。
「っ……まだ、残っている……」
「リュミナ様!」
リオが駆け寄ろうとした瞬間、兵士たちが動いた。
槍が村人たちへ向けられる。
「抵抗するな!」
「白竜信仰の証拠を確保する!」
「村長を拘束しろ!」
広場は混乱に包まれた。
少年が矢を放ち、兵士の足元に突き刺す。村の老人たちが鍬を構える。女性たちは子どもを家へ押し込む。ミナは声を取り戻したばかりの喉で、必死に叫んだ。
「みんな、下がって!」
その声はまだ弱い。
けれど、村人たちは聞いた。
声を失った少女が取り戻した最初の叫び。それだけで、村の空気が変わった。
怯えだけではない。
怒りと、守ろうとする意志の匂いが立ち上がる。
グラントは舌打ちした。
「愚かな。ならば全員、反逆者として処理する」
彼の指輪が黒く光る。
森の方から、遠吠えが響いた。
リオの背筋に悪寒が走る。
魔狼。
眠らせたはずの七匹とは別の群れだ。グラントは兵士だけでなく、魔物も待機させていた。
「村を内側と外側から挟むつもりか」
リオは奥歯を噛んだ。
こちらの戦力は少ない。セリカ、目覚めたばかりのリュミナ、声を取り戻したばかりのミナ、そして村人たち。正面から戦えば、勝てない。
なら、戦場の匂いを変える。
リオは広場の中央へ走った。
雪の上に鞄をひっくり返す。
小瓶が散らばる。
青、緑、琥珀、紫、透明。香りの記憶たち。
セリカが叫ぶ。
「リオ、何をする!」
「村全体に香りを流します!」
「何の香りだ!」
「味方には勇気を、敵には後悔を!」
「具体的に言え!」
「説明している暇がありません!」
リオは透明な媒体液を三本、雪の上に叩きつけた。
霧が立ち上がる。
そこへ琥珀の瓶を割る。
魔狼たちには森の記憶を。兵士たちには故郷の記憶を。槍を持つ手が、自分の守るべきものを思い出すように。
さらに、王妃のハンカチを浸した紫の香りを一滴だけ加える。
祈り。
守るための匂い。
風が吹いた。
村の広場を、香りが駆け抜ける。
最初に変わったのは、兵士たちだった。
槍を構えていた若い兵士の手が止まる。彼の鼻に届いたのは、遠い南の麦畑の匂いだった。母の焼いたパン、弟の笑い声、徴兵の日に渡された古いお守り。
別の兵士は、雪国の小さな家を思い出す。妹の髪を結ってやった朝。父の咳。自分が剣を握った理由。
リオは叫んだ。
「あなたたちは、本当にこの村を焼くために兵士になったのですか!」
声は大きくなかった。
だが香りが、それを届けた。
「命令した者の顔を見てください! 彼は村人を守ろうとしていますか! それとも、証拠を消そうとしていますか!」
兵士たちの目がグラントへ向く。
グラントは怒鳴った。
「惑わされるな! それは香りによる精神干渉だ!」
「そうです!」
リオは即座に認めた。
兵士たちが驚く。
「けれど、僕が見せているのは命令ではありません。あなたたち自身の記憶です。誰を守りたかったのか、何のために剣を持ったのか。それを思い出しているだけです!」
グラントの指輪がさらに黒く光る。
「黙れ、追放者!」
その言葉で、広場の視線がリオへ集まった。
帽子が風で飛ぶ。
リオ・クラウゼンの顔が露わになる。
王都から追放された宮廷調香師。
グラントは唇を歪めた。
「やはり生きていたか、リオ。無能な香水作りが」
リオは静かに息を吸った。
王都では、その言葉に何度も傷ついた。
無能。
香水売り。
花の汁を混ぜるだけの男。
だが今、彼の背後には村がある。セリカがいる。ミナがいる。リュミナがいる。眠りから醒めかけた魔狼たちが、森の記憶に鼻を鳴らしている。
だから、もう同じようには響かなかった。
「香りは残ります」
リオは言った。
「あなたが隠したものも、奪った声も、書き換えた歴史も」
彼はグラントの指輪を指さした。
「その指輪から、魔狼の首輪と同じ匂いがします。ミナさんの喉に残っていた呪いとも同じ。白竜の楔とも同じです」
「匂いが証拠になるとでも?」
「今からなります」
リオはミナへ視線を送った。
ミナは頷く。
彼女は震える声で、しかしはっきりと言った。
「私は、証言します。グラントが祠に封竜具を置いた。眠り草を増やした。私の声を奪った」
セリカが続く。
「私は元王都騎士として証言する。三年前の討伐命令は虚偽だった。白竜は暴走していなかった。楔に触れた討伐隊が呪いで壊滅した」
リュミナが鎖に縛られたまま、銀の瞳を上げた。
「私はリュミナ。この谷の契約竜として証言する。王家との契約は書き換えられた。王子エルヴィンの手で」
グラントの顔が歪む。
「竜の証言など、法廷で認められるものか!」
「法廷まで持っていければ十分です」
リオは言った。
「あなたはそれを恐れている。だから今日、ここで村を潰しに来た」
兵士たちの動揺が広がる。
槍が少しずつ下がる。
グラントはそれを見て、低く笑った。
「甘いな、リオ」
彼は銀の指輪を外した。
その内側から、黒い針が現れる。
「証言者は、生きていなければ証言できない」
グラントが針を自分の掌へ突き刺した。
血が流れる。
だが赤くない。
黒い血だった。
リュミナが叫ぶ。
「離れろ!」
遅かった。
グラントの足元から黒い蔦が爆発するように広がった。兵士も村人も関係なく、広場の雪を突き破り、家々の壁を這い、空へ伸びる。
その匂いは、楔そのものだった。
眠れ。
忘れろ。
怒れ。
焼け。
リオは理解した。
グラントはただの操り手ではない。
楔の一部を、自分の身体に埋め込んでいる。
「第二王子のために、そこまで……」
リオが呟くと、グラントは笑った。
「殿下は王になる。優しさに腐った王国を、恐怖で一つにまとめる。そのために白竜が必要だ。国境を焼き、反抗する貴族を焼き、民に空を見上げるたび王家を思い出させる」
「そのために、リュミナ様を兵器にするのですか」
「竜とは本来、兵器だ」
「違う」
リュミナの声が響いた。
小さな少女の喉から出たとは思えないほど、深く、古い声だった。
「竜は、覚えている者だ」
彼女の白い髪が浮き上がる。
腕に絡んだ鎖が軋む。
「山の名を。川の曲がり方を。最初に火を灯した人間の手を。約束を。裏切りを。それでも、もう一度信じたいと思った愚かさを」
銀の瞳が光る。
「私は兵器ではない。リューネの守り手だ」
鎖が一本、砕けた。
だが同時に、額の黒い欠片が強く輝く。
リュミナの身体が傾いた。
「まだ呪いが……」
リオは走った。
黒い蔦が足に絡む。痛みが走る。だが止まらない。
彼はリュミナの前に膝をつき、額の欠片へ手を伸ばした。
「今度こそ、外します」
セリカが叫ぶ。
「できるのか!」
「やります!」
「できるかと聞いた!」
リオは一瞬だけ笑った。
「成功したら、できたことになります!」
「馬鹿者!」
セリカの怒鳴り声を背に、リオは最後の小瓶を取り出した。
中に入っているのは、まだ完成していない香りだった。
王妃の祈り。
リュミナの涙。
セリカの呪いを鎮めた青。
ミナの声を戻した緑。
魔狼に森を思い出させた琥珀。
そして、リオ自身の追放の雪。
すべてを混ぜれば、何が起こるか分からない。調香としては荒すぎる。宮廷の師匠なら、瓶ごと窓から投げ捨てただろう。
だが、今必要なのは完璧な香りではない。
目覚めるための香りだ。
リオは瓶を砕き、欠片に液を垂らした。
瞬間、広場に白い香りが広がった。
誰も嗅いだことのない香り。
雪の冷たさと、焼きたてのパンの温かさ。竜の星の匂いと、人間の小さな台所の匂い。戦場の血と、それを洗う涙。嘘を暴く鋭さと、傷を包む柔らかさ。
グラントが顔を歪める。
「やめろ!」
黒い蔦がリオの背中を貫こうと伸びる。
その前に、セリカが立ちはだかった。
剣が蔦を断つ。
右腕から血が滲む。呪いが再び浮かび上がる。それでも彼女は退かない。
「リオ!」
ミナの声。
彼女が薬草籠から瓶を投げる。
リオは受け取らず、匂いだけで中身を理解した。
雪割草。
凍った土を割って咲く花。
希望の香り。
「ありがとうございます!」
リオはそれも加えた。
額の黒い欠片に、ひびが入る。
リュミナが悲鳴を上げた。
いや、悲鳴ではない。
竜の咆哮だった。
小さな少女の身体から白い光が溢れ、広場を包み込む。封竜具の鎖が次々と砕ける。黒い蔦が焼けるように萎れていく。
グラントが後ずさった。
「ありえない……楔は王家の血で作られた封印だぞ」
リュミナが顔を上げる。
額の欠片は、もうない。
代わりに、そこには小さな白い花の紋様が浮かんでいた。
「王家の血より古いものがある」
彼女は言った。
「約束だ」
その瞬間、白い光が空へ昇った。
村の上に、竜の影が広がる。
完全な竜身ではない。リュミナの力はまだ戻りきっていない。それでも、雪雲の切れ間に浮かんだ白竜の幻影は、兵士たちを膝から崩れ落ちさせるには十分だった。
魔狼たちは森の入口で足を止めた。
赤い目が揺れ、やがて一匹、また一匹と伏せていく。リオの琥珀の香りとリュミナの目覚めが、彼らに支配ではない眠りを与えていた。
グラントだけが立っていた。
黒い血を流しながら、彼はリオを睨む。
「これで終わったと思うな。エルヴィン殿下は、すでに王都を掌握しつつある。国王は目覚めない。王妃の派閥は消えた。辺境の小村が何を叫ぼうと、誰も聞かない」
「聞かせます」
リオは言った。
「香りは風に乗りますから」
グラントは笑った。
「詩人気取りか」
「調香師です」
その時、グラントの背後で槍が交差した。
王都兵たちだった。
若い隊長が、青ざめた顔で言う。
「王室典礼官グラント殿。あなたを、王国法に基づき拘束します」
グラントは目を剥いた。
「貴様、自分が何をしているか分かっているのか!」
「分かりません」
隊長は震えながらも、槍を下げなかった。
「ですが、村人を殺せという命令が正しいとは思えません」
別の兵士が続く。
「魔物を操る指輪を見ました」
「封竜具も、正式な運搬記録がない」
「このまま帰れば、我々も口封じされる」
兵士たちの匂いは恐怖に満ちていた。
だが、その恐怖はもう村人へ向いていない。グラントと、その背後にいる王子へ向いていた。
グラントは歯を食いしばった。
「下賤どもが……」
黒い蔦が再び伸びようとする。
しかし、その前にリュミナが指を鳴らした。
白い霜がグラントの足元を覆う。
蔦は凍りつき、砕けた。
「うるさい」
リュミナは眠たげに言った。
「私はお腹が空いている」
リオは思わず脱力した。
セリカがグラントの腕を縛り上げる。ミナは村人たちと共に負傷者を見て回り、少年は得意げに魔狼の数を数えていた。兵士たちは武器を下ろし、数人は村人へ頭を下げている。
広場の緊張は、完全には解けていない。
だが、最悪の火は消えた。
リオは雪の上に座り込んだ。
全身が重い。鼻の奥が焼けるように痛む。短時間に強い香りを使いすぎた。しばらくは匂いの判別が鈍るかもしれない。
それでも、彼は空を見上げた。
雪雲の隙間から、青空が覗いていた。
王都ではほとんど見たことのない、深く澄んだ青。
「リオ」
セリカが近づいてくる。
彼女の右腕からは血が滴っていたが、表情は穏やかだった。
「生きているか」
「たぶん」
「たぶんで返事をするな」
「では、生きています」
「よし」
彼女は短く頷き、それから少しだけ視線を逸らした。
「助かった」
リオは笑った。
「こちらこそ。蔦を斬っていただかなければ串刺しでした」
「なら貸し借りなしだ」
「そうですね」
「いや、やはり貸しだ」
「どちらですか」
「村を巻き込んだ分、お前の借りだ」
「理不尽では?」
「辺境の村長は理不尽でなければ務まらん」
ミナがそこへ駆け寄ってきた。
「リオさん」
自分の声で名を呼べたことに、彼女自身が少し驚いたようだった。頬が赤くなる。
「声、ありがとうございます」
リオは首を横に振った。
「あなたの声です。僕は扉を開けただけです」
ミナは微笑んだ。
その笑みには、もう閉じ込められた歌の匂いはない。
代わりに、春先の薬草畑の香りがした。
リュミナが三人のそばに来た。
「終わったなら、肉だ」
セリカが即答する。
「ない」
「ある匂いがする」
「それは冬越し用の干し肉だ」
「私は三十年越しだ」
「張り合うな」
リオは笑いながら立ち上がろうとした。
だが、その時、胸元の小瓶が熱を帯びた。
王妃のハンカチを入れた小瓶。
リオは息を止め、取り出す。
薄紫の布が、淡く光っていた。
ありえない。
これはただの布だ。王妃が残した香りを留めるために保存していたもの。自ら光るはずがない。
リュミナの表情が変わった。
「その香り……まだ奥がある」
「奥?」
「夢の底に、封じられていた言葉だ」
小瓶の中で、布がほどける。
刺繍の糸が動き、文字を形作っていく。
リオは震える手で、それを読み取った。
――リオへ。
――もしあなたがリューネに辿り着き、白竜リュミナを目覚めさせたなら、王都へ戻ってはいけません。
リオの心臓が、冷たく跳ねた。
続きの文字が浮かぶ。
――国王を眠らせているのは、エルヴィンではありません。
セリカが眉をひそめる。
「どういう意味だ」
リオは続きを読んだ。
――真に王を縛っている者は、王家の血の中にいます。
――王都の地下、初代王の霊廟に、香りを喰うものが眠っています。
その瞬間、遠く王都の方角から、風が吹いた。
雪の匂いではない。
鉄でも、眠り草でもない。
何も匂わない風。
完全な無臭。
リオは初めて、そのことに恐怖した。
匂いがない。
つまり、記憶がない。
存在しているのに、世界に何も残していないもの。
リュミナが低く唸る。
「古いな。私より古い」
グラントが縛られたまま、狂ったように笑い出した。
「そうだ……そうだ、もう遅い。殿下も、我々も、ただの扉だ。王都の下で目覚めるものに比べれば、白竜など小鳥にすぎない」
リオは小瓶を握りしめた。
王妃の最後の文字が、布に浮かぶ。
――香りを信じて。
――忘れられたものだけが、世界を救います。
文字はそこで消えた。
広場に、誰も言葉を発しなかった。
勝利の後に訪れたのは、安堵ではなかった。
もっと深い闇の入口だった。
セリカが剣を鞘に収める。
「リオ」
「はい」
「王都へ戻るな、と書いてあったな」
「はい」
「どうする」
リオは王都の方角を見た。
鉄と嘘と香水に満ちた場所。
彼を追放した場所。
王妃が死に、国王が眠り、誰かが世界から香りを奪おうとしている場所。
怖くないと言えば嘘になる。
だが、香りは残る。
王妃の祈りも、リュミナの涙も、ミナの声も、セリカの剣も。
残ったものを辿るのが、調香師の仕事だ。
「戻るなと言われると、困りますね」
リオは静かに言った。
「僕は昔から、師匠に言いつけを守らないと叱られていました」
セリカが呆れたように笑う。
ミナが不安そうに、けれど強い目で頷く。
リュミナは腕を組んだ。
「王都へ行くなら、まず肉を食べてからだ」
リオは笑った。
「では、食事の後で考えましょう」
空の青は、少しずつ雲に隠れていく。
王都から吹く無臭の風が、村の端で雪を巻き上げた。
リオはその風に向かって、小さく息を吸う。
何も匂わない。
だからこそ、そこには必ず何かが隠されている。
追放された宮廷調香師の物語は、辺境の村で終わらなかった。
むしろここから、王国の記憶そのものをめぐる旅が始まろうとしていた。




