第八十五話 座ることも、仕事になる
翌朝、戻り香の家の台所に椅子が一脚増えていた。
新しい椅子ではない。
村の集会所で使われていた古い椅子を、鍛冶屋の妻が磨き直して持ってきたものだった。背もたれに小さな傷があり、脚の一本だけ色が少し違う。そこは以前折れたものを、別の木で継いだのだという。
椅子の背には、リクの字で木札が掛けられた。
“空を守る人の椅子。”
リュミナがそれを見て、真剣な顔をした。
「座ってよいのか」
リクが即座に言う。
「お前が占領するなよ」
「私は空も守る」
「鍋も守ってるだろ」
「両方守れる」
セリカが腕を組んだ。
「竜が座ると壊れないか」
リュミナは少し傷ついた顔をした。
「人の姿なら軽い」
「本当か?」
「たぶん」
「たぶんで座るな」
結局、最初に座ったのはミナだった。
声守草の乾燥棚を整えた後、彼女は少し疲れた顔をしていた。リオが「座りますか」と聞くと、ミナは一瞬迷い、それから頷いた。
「はい。少しだけ」
彼女は椅子に腰を下ろした。
何も起きなかった。
ただ、ミナの肩が少し下がった。
それだけだった。
けれど戻り香の家では、それも記録になる。
リクが日々の棚に札を書いた。
“ミナが少し座った。”
ミナは少し恥ずかしそうに笑った。
「そんなことまで」
「大事だろ」
リクは真面目に言った。
「声を守る人が座ったんだから」
ミナは言葉を失い、それから小さく頷いた。
「はい」
午前中、白盾記録院から報告が届いた。
王都の待合室にも、空の椀を守るための椅子が置かれたという。
ただし、問題が起きた。
椅子に座った記録官に、ある役人が言った。
“勤務中に座っているのか。”
記録官は立ち上がろうとした。
すると、例の補償を待つ女性が言った。
“座っているから、今日は最後まで聞けるかもしれない。”
役人は黙った。
記録には、こう残された。
“座ることも、仕事になる。”
台所でその一文が読まれると、セリカが静かに笑った。
「いい」
リュミナも大きく頷いた。
「座らねば、煮込み番は倒れる」
「また鍋に戻った」
リクが言う。
「でも、今回はわかる」
レインは報告書を見ながら、少し遠い目をした。
「伝令兵の時、座ってはいけないと思っていました」
誰も口を挟まなかった。
レインは続けた。
「命令を運ぶ者は、止まってはいけない。休んではいけない。座ったら、誰かが死ぬ。そう思っていました」
彼の指先が震えていた。
「でも、座らなかったから、私は考えませんでした。焼けと言われた命令の灰を、確認しなかった。灰星が嫌がった道で、止まらなかった。座る時間があれば、違ったとは言いません。言えません。でも……」
彼は椅子を見た。
「止まる場所が、必要だったのだと思います」
リオは頷いた。
「はい」
レインは日々の棚ではなく、間の棚に札を書いた。
“座らなかった伝令兵。”
そして、少し迷ってもう一枚。
“止まる場所が必要だった。”
セリカがその下に、静かに足した。
“免罪ではない。”
レインは頷いた。
「はい」
昼、レムリア商市からも手紙が来た。
サラ・ベルテは、料理長のために置いた椅子について書いていた。
――戻り香の家へ。
――空の椀を守る料理長は、自分の椀を食べるだけでなく、椅子に座るようになりました。
――最初は落ち着かない様子でした。
――“何も作らないで座るのは罪悪感がある”と言いました。
――しかし、“鍋を火から下ろすことも料理の一部です”と伝えると、少し納得しました。
――今日は、彼は鍋を作りませんでした。
――椀も空のままです。
――ただ、椅子に座って、火口の灰を見ていました。
リュミナは目を閉じた。
「深い」
リクは言った。
「料理長、すごいな」
「鍋を作らない料理人は、非常に難しい」
セリカが頷く。
「剣を抜かない兵と同じかもしれないな」
その言葉に、カイルの手紙が思い出された。
命令前に顔を見る兵。
夜鍋が鍋をひっくり返さなかった日。
豆を避けるユアン。
みんな、何かをしないことを学んでいる途中だった。
ミナは札を書いた。
“鍋を火から下ろすことも料理の一部。”
リュミナがその下に、少し大きく書いた。
“作らない料理人。”
セリカはそれを見て、珍しく穏やかに言った。
「いい札だ」
午後、王都から国王の手紙が届いた。
――リクへ。アリアンヌへ。
――温室の椅子に、今日も座った。
――昨日より少し長く座れた。
――何も入れない椀を見ていると、自分が何かを怠っているように感じる。
――しかし、何かを入れないことを選んでいるのだと、メリッサに言われた。
――彼女は強い。
――今日は、スープを飲んだ人。
――追伸。二杯目を断った。メリッサは“自分で言えたならよい”と言った。
リクは手紙を読んで、笑った。
「メリッサ、やっぱり強い」
ミナは国王の言葉を札にした。
“入れないことを選んでいる。”
それは今日だけの棚に置かれた。
リクはその隣に書いた。
“自分で二杯目を断った。”
リュミナが少し寂しそうに言った。
「二杯目は良いものなのに」
「断るのも良いことだろ」
「そうだ」
「成長したな」
「私は成長する竜だ」
夕方、アリアンヌから手紙が届いた。
――リクへ。
――温室の椅子に、父上が座りました。
――私は少し離れたところから見ました。
――父上は椀に何も入れませんでした。
――私も何も言いませんでした。
――でも、温室の中で、母上への手紙が少し風に揺れました。
――窓は閉まっていました。
――たぶん、誰かが歩いた空気の揺れです。
――でも、私は少しだけ、母上が読まないまま近くにいる気がしました。
――今日はアリアンヌ。
――王女の服は、椅子に掛けずに畳みました。
リクはそれを読んで、今日だけの棚の前へ行った。
「母上が読まないまま近くにいる気がした、だって」
リオは頷いた。
「読まれない手紙にも、そばにいる力があるのかもしれません」
「読むためだけじゃないんだな」
「はい」
「手紙って」
「はい」
リクは札を書いた。
“読まないまま近くにいる手紙。”
それは未送信の手紙箱の近くと、今日だけの棚の中間に置かれた。
二つの場所をつなぐように。
夜、金木犀の香りはまた少し濃くなった。
風が止まると、花の周りだけに香りが溜まる。
風が動くと、台所の入口まで届く。
リオはまだ瓶にしなかった。
リクもそれに慣れてきた。
「今日も風?」
「はい」
「いつ瓶にする?」
「花が、自分から少し分けてもいいと思えるような日が来たら」
リクは笑った。
「花に聞くのかよ」
「聞くつもりで待ちます」
「それならいい」
その夜、リオは花そのものではなく、椅子の香りを瓶にした。
古い木の椅子。
ミナが少し座った朝。
座ることも仕事になると言った待合室。
座らなかった伝令兵の痛み。
作らない料理人。
入れないことを選んだ王。
読まないまま近くにいる手紙。
ラベルは、
“座ることも、仕事になる。”
その瓶は台所と今日だけの棚の間に置かれた。
そこは、人が行き来する場所だった。
立って守る場所と、座って休む場所のあいだ。
香りは残る。
少し座ったミナの肩にも。
鍋を作らず火口の灰を見た料理長にも。
そして、何もしていないように見える人が、実は何かを入れないために座っているのだと、ようやく誰かが気づいた日の椅子にも。




