第八十四話 空を守る手にも、休む椅子がいる
“空の椀は、底まで空でいい。”
その札が今日だけの棚に置かれてから、戻り香の家ではしばらく誰も椀に触れなかった。
金木犀の花は、朝ごとに少しずつ香りを増している。
けれど椀は空だった。
朝露も入らない日があった。
それを見て、リクは少し不安そうにした。
「今日は何も入ってない」
アリアンヌは王都へ戻っていたので、隣にいるのはミナだった。
ミナは椀を見て、静かに頷いた。
「はい」
「昨日は空でよかったけど、今日も空でいいのかな」
「今日も、空でいいかもしれません」
「でも、ただ放っておいてるみたいに見える」
リオはその言葉を聞いて、椀のそばにしゃがんだ。
底には何もない。
埃もほとんどない。
昨夜、ミナが柔らかい布でそっと拭いたからだ。
「空を保つには、手がかかっています」
リオは言った。
リクはミナを見た。
「拭いたの?」
「はい。底まで空でいるために、埃だけ取りました」
「それ、勝手に入れるのとは違う?」
「入れるのではなく、椀が椀でいられるようにすることです。でも、これも誰がしていいかは考えなければなりません」
リュミナが台所から真剣に言った。
「空の管理にも同意がいる」
セリカがうなずく。
「また正しい」
「私は成長する竜だ」
「それはもう認めつつある」
リクは今日だけの棚に木札を足した。
“空を守る手にも、気をつける。”
それを見て、少し迷い、もう一枚書いた。
“拭いていいかも、聞く。”
ミナは微笑んだ。
「大事です」
昼前、白盾記録院から報告が届いた。
王都の待合室で、“来た。何も聞きたくない日。”と記録された女性が、翌日も来たという。
今回、記録官は何も説明しなかった。
ただ、椅子を示した。
女性は座った。
しばらく黙っていた。
やがて言った。
“何も聞きたくないと言った昨日、あなたが本当に何も言わなかったので、今日は少し聞ける。”
記録官は、手続きの進み具合を短く説明した。
女性は途中で手を上げた。
“今日は、そこまで。”
記録官は止めた。
記録にはこう残された。
“今日は少し聞ける。そこまで。”
戻り香の家でその報告が読まれた時、ミナは深く息を吐いた。
「止まれたんですね」
セリカが言った。
「説明する側は、最後まで話したくなる。止まるのは難しい」
リクは札を書いた。
“今日は少し聞ける。そこまで。”
その下にリュミナが書いた。
“椀を半分で下げる。”
リクが笑う。
「お前、ちゃんとわかってきたな」
「わかっている」
「でも料理人だったら悔しい?」
「悔しい」
「正直だな」
「しかし下げる」
セリカは少し笑った。
「よし」
午後、王都からアリアンヌの手紙が届いた。
――リクへ。
――空の椀は、今日も空です。
――侍従たちは、花を入れずにいてくれています。
――でも、一人の侍従が言いました。
――“空のまま守るのは、思ったより緊張します。”
――私はその言葉を聞いて、椅子を一つ置きました。
――椀を見る人が、立ったまま守らなくていいように。
――母上への咲き始めた手紙は、まだ温室にあります。
――今日はアリアンヌ。
――王女の服は、椅子に掛けすぎないようにしています。
リクは手紙を読み終えて、今日だけの棚の椀を見た。
「空を守る人にも椅子がいる」
リオは頷いた。
「はい」
「そりゃそうか。ずっと立ってたら疲れる」
ミナが微笑む。
「守る人が疲れすぎると、空を急いで埋めたくなることもあります」
リクは納得した顔で、木札を書いた。
“空を守る手にも、休む椅子がいる。”
それを今日だけの棚の横に掛けた。
リュミナが椀を見ながら言った。
「椅子には軽食も必要だ」
セリカが横目で見る。
「また増やす気か」
「守る者は食べねばならぬ」
「それは正しいが、椀を守るための椅子に鍋を置くなよ」
「小鍋なら」
「置くな」
そのやり取りで、少し空気が軽くなった。
夕方、レムリア商市からも報告が届いた。
サラ・ベルテは、空の椀を洗って乾かした料理長について書いていた。
――戻り香の家へ。
――料理長が疲れました。
――空の椀を守ることが、想像以上に緊張するとのことです。
――彼は、空の椀を見るたびに、何か作った方がよいのではないかと思ってしまうそうです。
――今日は、彼のために別の椀に煮込みをよそいました。
――空の椀には入れませんでした。
――料理長は、自分の椀を食べて少し落ち着きました。
リュミナは真剣に何度も頷いた。
「極めて正しい」
「そこまでか」
リクが言うと、リュミナは胸を張った。
「空の椀を守る者には、自分の椀がいる」
セリカは深く頷いた。
「それは本当に正しい」
リオはその一文を木札にした。
“空の椀を守る者には、自分の椀がいる。”
これは今日だけの棚だけではなく、戻り香の家の台所にも掛けられた。
重い記録を扱う者。
未送信の手紙を預かる者。
今日の名を聞く者。
空の椀を守る者。
彼らにも、自分の椀がいる。
自分の椅子がいる。
自分が食べてよい時間がいる。
夜、国王から短い手紙が届いた。
――リクへ。アリアンヌへ。
――空の椀を守る者にも椅子がいると聞いた。
――王宮の温室に椅子を置いた。
――私はそこに座った。
――何も入れない椀を見ていると、言葉を入れたくなる。
――だが、今日は座っていただけにした。
――座っていただけなのに、少し疲れた。
――今日は、スープを飲んだ人。
――追伸。二杯目は断った。メリッサは許した。
リクは手紙を読み、少し笑った。
「二杯目、正式に断れたんだ」
リュミナは厳粛に言った。
「進歩だ」
セリカが言う。
「噛める肉より大きいかもしれないな」
ミナは国王の言葉を札にした。
“座っていただけなのに、少し疲れた。”
それは間の棚に置かれた。
リクはその下に書いた。
“でも、座った。”
夜更け、リオは今日の香りを小瓶にした。
空の椀を拭いたミナの手。
拭いていいかも聞くという札。
今日は少し聞ける、そこまで、と止めた女性。
温室の椅子。
空を守る侍従の緊張。
自分の椀を食べた料理長。
座っていただけなのに疲れた王。
二杯目を断ったスープの人。
金木犀の香りは、まだ瓶にしない。
花そのものは、風の中に置いたまま。
ラベルには、
“空を守る手にも、休む椅子がいる。”
その瓶は今日だけの棚と台所のあいだに置かれた。
どちらにも関係があるからだ。
空を守ることは、外から見ると何もしていないように見える。
しかし実際には、何かを入れたい衝動を止め、説明したい口を閉じ、差し出したい椀を一度下げ、立ち続ける足を休める椅子を探すことだった。
香りは残る。
何も入れなかった椀にも。
自分の椀を食べて落ち着いた料理長にも。
そして、誰かの空を守るために、まず自分が座って息をつくことを覚え始めた、静かな温室の椅子にも。




